会  津  の  著  名  人

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《 う 》 幕 末 よ り 前

 上杉景勝公については、こちら

 浮州家  始祖は詳細不詳だが、会津に住していたとされる。
 蒲生氏郷公の会津入府の際に一族の2名が召し抱えられる。
   ◇ 浮州次郎左衛門 小姓四番
   ◇ 浮州三郎左衛門 小姓三番
《浮州重治》 うきす しげはる
 寛永16(1639)年〜元禄12(1699)年12月29日 (61歳)
 名:重治。 通し名:次郎左衛門。 別称:次郎八、八郎右衛門。
 次郎左衛門の孫/重治が、保科正之公の会津入れで、現地人の1人として召し抱えられる。
 実直の人柄で倹約に努めていたが、多くの孤児を引き取り養っていたので、家僕すら置けなかったという。
 姻戚が借金する際に請け人 (連帯保証人) となったが、その姻戚が返済せず死去してしまう。
 自らも完済せず死の床に就いてしまい、倅/甚助に残金を支払うよう遺言した。 墓は、大窪山墓地。
 倅/甚助は、返済を求めない相手に、遺言だからと完済したという。

《浮州重倶》 うきす しげとも
 元文4(1739)年5月7日〜寛政9(1797)年6月21日 (59歳)
 初名:重之助。 号:歓水。
 浮州三郎左衛門重時の嫡男。
 妻は小野田助左衛門の娘。
 天明8(1788)年、父/重時の死去により家督を継ぎ、外様組に就く。
 寛政元(1801)年、郡奉行に就任。
 河川の改修工事に尽力し、河運向上に貢献。
 墓は大窪山墓地 .
 「常證院殿釋諦了居士」
 梅津 安俊
[系譜]
 うめつ やすとし、享保6(1721)年〜文化8(1811)年9月 (91歳)
 通称:鉄右衛門。
 藩士/沢井周安良孝の5男。 後に梅津六藏政俊の養子となる。
 井深勝阜 (九カ右衛門) に加須波留流/町見術を学び、師範となる。
 ※ 町見術とは、算術を使わず磁石やコンパスなどで、里程の遠近や、山谷の高低などを速やかに測る方法。 オランダ人/カスパルが日本に伝えたとされる。
 井深は猪苗代に居住のため、数年間、寒暑・風雪を問わず通学した。
 寛政5(1793)年 9月、「土地民間巨細録」を編集する。
 寛政9(1794)年正月、検地竿頭となる。
 享和2(1802)年 8月、特旨を以て二之寄合席、見地方頭取となる。
 文化8(1811)年 9月、死去。 「見矩院一覺宗無居士」。
 母の墓が建福寺にある。

 会津藩/梅津家は2系ある。
  ◇ 梅津官助官俊を初代とする梅津鉄右衛門俊勝の系統
    本姓:源
    本国:信州高遠
    定紋:劔梅鉢
    通字:「俊」
  ◇ 梅津兵助を初代とする梅津平右衛門貞亮の系統
    本姓:不詳
    本国:不詳
    定紋:右三ツ巴
    通字:3代目以前は不明、4代目以降は「貞」
 浦上 秋琴  うらがみ しゅうきん、
 天明5(1785)年10月30日〜明治4(1871)年9月28日 (87歳)
 名:遜、仲謙、浦上舎人宗敏とも称す。
 岡山藩/浦上玉堂の次男として岡山で誕生。
 寛政6(1794)年、父/玉堂・兄/春琴と共に岡山藩を出奔 (10歳)。
 京都で糸竹に優れた画家として名を馳せる。
 寛政7(1795)年、招かれた父/浦上玉堂に同行して会津を訪れる。
 玉堂は滞在中に、息子/秋琴を会津藩に託すことを決心する。
 寛政8(1796)年、会津藩に召し抱えられる (12歳)。
 寛政9(1797)年、雅楽修業のため京都へ赴く (13歳)。
 修行に勉め、横笛と箏の皆伝となる。
 文化2(1805)年、会津へ帰り、原直大夫の娘と結婚 (21歳)。
 文化4(1807)年、日新館/雅楽方頭取となる (23歳)。
         文化8(1811)年とも。
 文化8(1811)年、父/玉堂が秋琴宅を訪れ、逗留している。
 文化10(1813)年、次男/宗尚(岩松・号/逸翁)が湯川端六軒町で誕生。
 天保5(1834)年、慶徳稲荷神社の途絶えていた旋律を作る (50歳)。
 明治2(1869)年、戊辰の役の後に、故郷/岡山へ帰る (85歳)。
 明治4(1871)年、岡山で死去。
 墓は半田山墓地。 猪苗代町飯坂にもあったとのことだが不明。
 [春景山水] [寒窓清興] [山水] [山水] [山水] [山水] [行書五絶]
 浦野 直勝  うらの なおまさ、延宝5(1677)年〜宝暦8(1758)年11月8日 (82歳)
 享保11(1726)年〜とも。
 初名:流右衛門。 通称:喜右衛門。 通名:直勝。
 望月安勝の高弟/中林尚堅に師事し太子流中林派を学ぶ。
 上級藩士を中心とした太子流を、実践的な流派を編み出し分派する。
 浦野直勝を祖とする太子流浦野派は、剣術と軍法を得意として、最盛期には7ヶ所もの稽古場を有し、下級藩士を中心に最多の門弟を誇り、藩校/日新館でも採用された。
 浦野伊左衛門直景 → 浦野直勝 → 浦野喜右衛門直元 → 浦野喜右衛門直景 → 浦野喜左衛門村武 へと伝承される。
 墓は、城安寺に葬られたが後に廃寺となり、融通寺に改葬された。 近年まで暮石があったのだが見当たらず、浦野家之墓に合祀か?
 「善明豐心居士」 [旧/墓石]
 2〜4代は大窪山墓地に埋葬。

 ※ 文化8(1811)年、丸山胤征が2派/中林派と
  浦野派を併せ1つの太子流に戻した。

《 う 》 江  戸  幕  末

 浮州 七郎  うきす しちろう、
 天保10(1839)年〜慶応4(1868)年閏4月21日 (30歳)
 鶴ヶ城下にて誕生。 御代官/庄之助の弟。
 藩校/日新館で頭角を現し、昌平坂学問所(昌平黌)に遊学。
 慶応2(1866)年、藩命により上洛し梶原平馬の顧問として京都の動向調査に従事し、任務を終えると江戸に戻り復学する。
 鳥羽伏見の戦い勃発の報を受け、急きょ江戸大砲隊/軍事参謀兼隠密として上洛し防護策を立案するが、元将軍/慶喜の敵前逃亡で幕軍の士気は地に落ち、やむなく江戸に戻る。
 箱根の峻険での決戦を提言するが容れられず、江戸に残留・潜伏した後、日光で大鳥圭介率いる旧幕府軍の参謀に就く。
 会津軍と連携し、日光に篭るを攻撃したが、下野/今市にて胸部貫通の銃創を負い、山川大蔵に介錯を頼み自刃した。
 埋葬は和尚塚、墓碑は大窪山墓地
 「我に益する三友あり 一は永岡久茂の"智" 二は米澤昌平の"直" 三は高木友之進の"勇" 是れなり 我 平生これを慕って及ばず
 前途を嘱望され、才能と見聞を踏まえ、新たな良き時代へ導いたであろう逸材が、また一人、開花させる機会もなく消え去った。
 内村 直義  うちむら なおよし (ただよし)
 天保12(1841)年〜明治10(1877)年3月15日 (37歳)
 通称:砂次郎。
 藩士/蘆澤寛治の次男。 後に祐筆/内村三蔵の養嗣子となる。
 戊辰の役で、実父/蘆澤寛治が戦死している
内村直義の墓  開城後は、高田で幽閉(謹慎)を経て、上京し、東京府巡査/二等中警部に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に植木口警視隊一番小隊半隊長として出征し、田原坂で奮戦するも被弾して戦死。 「精忠院勇誉鉄心直義居士」。
 墓は谷中霊園 (熊本県/宇蘇浦官軍墓地に埋葬したが後に改葬合祀)。
 傍らに、戦友/騎西安遷・戸田重之たち80人が建立した恩師/南摩綱紀の撰文による碑「内村直義碑銘」がある。

 瓜生岩子については、こちら


《殉難者》 上島良介 上田新八郎 内川源吾 宇南山荘平
上田伊閑・ナオ・チヱ・ミネ・ジュン 宇南山政吉・芳樹
梅宮源五郎 梅宮源蔵    

《 う 》 幕 末 よ り 後

 上原 六郎  うえはら ろくろう、
 明治27(1894)年11月30日〜昭和39(1964)年2月3日
 会津藩士/福井伊織と冨貴 (雑賀重村の姉) の3女/冨久が、札幌/平岸のリンゴ農家/上原喜六に嫁ぎ、生まれた長男。
 北海道庁属から内務省へ出向したきっかけで、日本大学に学ぶ。
 大正9(1920)年、卒業すると、帝都復興院事務官に就く。
 主計課長、理事などを歴任。
 昭和12(1937)年、東京市収入役に就く。
 同市の市民局長、総務局長を歴任。
 昭和20(1945)年、乞われて札幌市最後の官選市長に就任するや、東京市時代の人脈を駆使し、地元の若手職員の抜擢など機構改革を含め、公選が行われる1年強の短い期間に、札幌市における戦後復興の基礎固めを完遂した。
 昭和21(1946)年11月12日、札幌市長を退任する。
 札幌観光協会の会長、地方財政審議会委員なども歴任。
 昭和39(1964)年、東京で死去。

 福井伊織の6男/重吉 (冨久の兄) の長男が、陸軍軍人/福井重記
 宇田 成一
[肖像]
 うだ せいいち
 嘉永3(1850)年〜大正15(1926)年7月17日 (77歳)
 自由民権運動家、政治家。
、下柴村(喜多方市関柴町小松)にて誕生。
 日新館に学ぶ。
 明治11(1878)年、民権運動に関わり、喜多方で愛身社を設立。
 明治14(1881)年、会津自由党を結成。
 明治15(1882)年、会津の消滅を図るべく脅迫的な夫役を強行する三方道路の工事を目論む県令の極悪人/三島通庸を激しく批判した。
 その詐欺行為を糾弾する裁判を起こそうとするが、冤罪をでっちあげられ、同年11月24日に不法にも逮捕・拘束されてしまう。
 事件に無関係の県会議員・党員・農民なども次々と逮捕され、逮捕者が約2千名にも及び、拷問により獄死者も出る始末で、まさに殺人行為以外のなにものでもなかった。
 さらに、翌年4月13日に裁判所の無罪判決で釈放されるや「県令を侮辱した」との冤罪で再逮捕する無法ぶりであった。
 後に加波山事件(Wikipediaへリンク)を誘発することになる。
 宇田は、東京に送還されるも、無罪となる。
 明治25(1892)年、県議会に当選。
 明治29(1896)年、県議会に再選。
 その後は、耶麻郡会議長や、関柴村長などを歴任し、地元の振興推進に尽力。

植村恒三郎 宇川久衛 梅宮辰夫・アンナ    

ツールチップあり .
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