斎宮、直右衛門とも。 佐々木源八の長男。
伯父の手代木勝富の養子となる。
京都見廻組組頭/佐々木只三郎は実弟。
公用人として上洛、戊辰の役では各地で奮戦し若年寄に就任。
秋月悌次郎と共に米沢藩へ開城の使者となり、猪苗代に謹慎後に鳥取藩・高須藩・尾張藩に幽閉される。
釈放後は、香川県・高知県の権参事、岡山区長を歴任。
明治37(1904)年6月3日、この地で死去。
妻/喜代は生きる道を選び、老母と娘3人と共に耶麻郡の山中に逃れ、開城後に幽閉された夫と子を待つ心情などを記した「松の落葉」を著している。
「手代木勝任夫婦墓」 勝任/78歳・喜代/86歳。
長女/初子は新島八重の養女となる。
▲(岡山市中区門田本町2)
東京/宝蔵院から移設された先祖の墓「長倉」だが、分骨されているとのこと (?)。 浪士隊に入り、近藤勇や土方歳三たちと上洛する時に詠んだ
和歌と略歴が刻まれている。
「武士の 節を尽くして厭までも 貫く竹乃心一筋」
墓は札幌/里塚霊園、小樽市営中央墓地(不明)だが、遺言で遺骨と遺髪を納めた墓が東京/寿徳寺にもある。
新選組二番隊組長(神道無念流)。
「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」
と伝わるほどの剣豪 (龍飛剣)。
幼名:は栄吉、栄治。 諱:載之(のりゆき)。
松前藩士/長倉勘次の次男。
文久3年、松前藩を19歳で脱藩し、浪士組に入隊し上洛。
同年3月12日、京都に残留し、会津藩御預浪士組の一員となる。
藩主/松平容保へ、近藤勇の非行五ヶ条を訴えてもいる。
鳥羽伏見、甲州を経て旧幕府軍に合流し今市で奮戦。
明治4(1871)年、松前藩へ帰参。
明治6(1873)年、旧松前藩医/杉村松柏の婿養子となり、杉村義衛 (一時、治備) に改名。
後に、函館や東京などでの新選組戦死者の慰霊碑建立に尽力。
藩医/杉村松柏の養子となり杉村義衛 (一時、治備) と改名。
大正4(1915)年1月5日、小樽にて虫歯による敗血症で死去。
著書「浪士文久報国記事」「七ケ所手負場所顕ス」「新選組顛末記 (取材)」。
▲岡山市南区飽浦135)
天明5(1785)年〜明治4(1871)年 (87歳、画家、音楽家)。
名:遜、仲謙、浦上舎人宗敏。 号:秋琴。 備前国の出身。
浦上兵右衛門玉堂の次男。 浦上春琴は実兄。
京都で糸竹に優れた画家として名を馳せる。
寛政8(1796)年、12歳で会津藩に仕官、京都で音楽の修行をして横笛・箏の皆伝となる。
文化8(1811)年、日新館の雅楽方頭取となる。
天保5(1834)年、途絶えていた慶徳稲荷神社の御田植祭の旋律を「越天楽」をもとに作曲。
戊辰の役の後に、故郷/備前国 (岡山) へ帰る。
墓の隣りに碑が建立。
「玉堂春琴秋琴三先生胎髪之碑」。
墓は、猪苗代町飯坂にもあったとのことだが、今では不明。
▲(岡山市北区津島東3丁目)
本名:乙部剛之進。 備中松山藩士。
新撰組隊士 (番兵取締)。
慶應4(1868)年、備中松山藩主/板倉勝静に同行し江戸から日光に至るが、勝静とともに投降。
宇都宮藩預けの最中、旧幕軍の宇都宮城攻撃に乗じて脱走し、会津で開城するまで奮戦。
明治元(1868)9月20日、仙台で新撰組の入隊し、蝦夷へ渡る。
明治2(1869)年5月11日、弁天台場で戦死。
「乙部剛之進吉明墓 明治二己巳年五月十一日」
まとめられた無縁墓の中に、「會」を冠した墓碑がある。
会津にご縁のある方なのだろうか?
▲(高梁市頼久寺町18
Tel. 0866-22-3516)