戊 辰 の 役 / 殉 難 者
[戻る]
[TOP]
[行く]
[遊ぶ]
[知る]
[メニュー]
[大窪山墓地(中央)]
[大窪山墓地(西麓)]
大 窪 山 墓 地 (東麓)
(資料提供) 栗城英雄 氏「会津先賢者の墓石を訪ねて/栗城訪霊著」 .
多賀谷家3人の墓
≪多賀谷勝左衛門≫ 勝右衛門とも。勝之進の祖父。 隠居組。
慶応4(1868)年8月23日、甲賀町口の井上邸前で死。 71歳。
≪多賀谷勝次郎≫ 勝之進の伯父。大砲士中一番小原隊嚮導。
慶応4(1868)年8月23日、三ノ丸で戦死。 44歳。
(天寧寺町口とも)。
≪多賀谷勝之進≫ 朱雀士中四番隊/佐川隊小隊頭。
慶応4(1868)年6月1日、長岡城を奪回すべく家老/佐川官兵衛と長岡藩家老/河井継之助は、加茂を出発し、翌2日より3方から長岡城下に攻め入り、20余日もの激闘の末に長岡城を奪還する。
この戦いの最中、6月24日に越後/福井で戦死。 20歳。
なんと徳川御三家の1つ/尾張藩がに与しているのを目の当たりにし、「この世も終わり」 と唖然としたという。
多賀谷家自刃の家族墓
慶応4(1868)年8月23日、本二之丁の自邸で自刃。
・多賀谷マキ |
勝之進の祖母 |
・多賀谷シゲ | 同/母 |
・多賀谷ヤス | 同/叔母 |
・多賀谷キイ | 同/叔母 |
・多賀谷リセ | 同/叔母 |
・多賀谷政五郎 | 同/弟、12歳 |
・多賀谷五七郎 | 同/弟、7歳 |
小松忠之進
忠兵衛の伜。
玄武隊。
慶応4(1868)年8月23日、天神口で戦死。
53歳。
井深重應
通称/茂太郎。
白虎士中二番隊/日向隊。
慶応4(1868)年8月23日、飯盛山で自刃。
16歳。
「井深○○○」と「戦死時十六歳」が目印。
墓は、飯盛山にもある。
森山八郎末廣
徒目付、進撃小室隊。
慶応4(1868)年8月23日、天神口 (小田町) で戦死。
30歳。
板橋喜平
慶応4(1868)年7月30日、戦死。
所属部隊、戦死場所など詳細不詳。
「玄宗道明信士」
斎藤八郎、八三郎の墓
≪斎藤八郎≫
目付席。進撃隊/小室隊。 53歳。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で負傷、城内で死去。
≪斎藤八三郎≫
八郎の伜。朱雀寄合一番隊/一柳隊。 19歳。
慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。
一度、倒壊したようで、丸太がはさんである。
その丸太も、朽ち始めていた。
西川半之丞 .
物頭。 一刀流の達人。 .
白虎隊士/勝太郎の父。 .
明治21(1888)年1月22日没。 .
飯沼友次郎
名 : 一臣。 時衛の弟。
京都守護職就任のより上洛、京都治安の時は新選組隊士に就く。
慶応3(1867)年12月9日の王政復古の大号令により、二条城から大坂城へ移る。 別撰組/佐川隊。
慶応4(1868)年1月5日、淀で戦死。 26歳。
京都/黒谷に慰霊碑がある。
「真輝彦神霊」
飯沼時衛一正・玉章 .
蘇生した白虎隊士/貞吉 (貞雄) の父。
物頭。 青龍寄合一番隊中隊頭。 .
斗南藩へ移住、廃藩で会津へ帰郷。 .
明治36(1903)年2月13日没。 .
玉章とは、歌人である母/文の雅号。 .
明治30(1897)年8月17日没。 .
飯沼源八一近 .
貞吉 (貞雄) の兄。 .
時衛の長男、貞吉の兄。 .
朱雀士中四番隊。 .
斗南藩へ移住、廃藩で会津へ帰郷。 .
明治31(1898)年10月11日没。 .
中村成房
通称/志記。
玄武士中隊/伊与田隊。
慶応4(1868)年9月3日、気多宮で戦死。
54歳。
(9月5日、61歳とも)。
「忠厚院義重日運居士」
小川勝之進、求馬
.
≪小川勝之進≫ 俊蔵の弟。
歩兵差図役。
慶応4(1868)年8月26日、野際口で戦死。 45歳。
≪小川求馬≫ 俊蔵の伜。
朱雀士中四番隊/佐川隊。
慶応4(1868)年5月3日、越後/片貝で戦死。 23歳。
御代官/浮州庄之助の弟。
昌平坂学問所へ遊学。 、江戸大砲隊。
慶応4(1868)年閏4月21日、幕軍/大鳥軍参謀として下野/今市で胸部貫通の銃創を負い、山川大蔵の介錯で自刃。
和尚塚に埋葬。
享年31歳とされるが、墓碑には「三十歳」とある。
「我に益する三友あり 一は永岡久茂の智、二は米澤昌平の直 三は高木友之進の勇 是れなり 我 平生これを慕って及ばず」
竹崎郷助
.
竹崎郷右衛門の倅。 母は鈴木氏。
用所密事。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。 51歳。
「竹崎忠戍墓
君稱郷助〜」
橋爪清助
青龍士中三番隊/木本隊。
慶応4(1868)年6月11日、越後/福井で負傷。
(6月5日に負傷とも)。
8月23日、鶴ヶ城で死去。
44歳。
橋爪又六
又八とも。
大砲一番小原隊嚮導。
慶応4(1868)年8月23日、天寧寺町口で戦死。
36歳。
和田伝蔵
.
名:義高。
幌役。
供番頭打込。
進撃隊/小室隊組頭。
慶応4(1868)年8月23日、天神口で戦死。
40歳。
和田ミワ、ナカ、コマの墓
慶応4(1868)年8月23日、本三之丁の自宅で自刃。
・和田ミワ 甚吾の継母、41歳
「和田義方後妻」
・和田ナカ 甚吾の妻、 20歳
「同 義質妻 墓」
・和田コマ 甚吾の長女 3歳
「同 長女」
風雲急を告げる中、夫/甚吾と父/勇蔵は藩命により国事に奮闘しており不在だった。
ミワは男装して外に出て戦況が急なるを察知、自邸に引き返す。
「恥辱を受けるべからず」として覚悟したが、家僕に対しては逃げ延びるよう命じ暇を出した。
介錯する者がいないミワとナカは、息絶えずして猛火に包まれたという。
戦後、甚吾(義質)の父/勇蔵が自宅の焼け跡の灰の中から白骨と懐剣を発見し自刃したことを知り、遺骨を拾い集め大窪山の会津藩墓地に葬った。
|
和田勇蔵
.
名 : 義方。 甚吾の父。
藩士/和田義武 (太兵衛) の嫡男、
父の刀術を受け継ぎ、太子伝安光流を会得。
「和田ミワ、ナカ、コマの墓」との間に、先妻の墓もある。
|
赤羽衛門か赤羽源六、どちらかの墓
.
いずれも、慶応4(1868)年5月1日に白河で戦死。
「忠肝義精居士」
≪赤羽衛門≫ 直次郎の兄。
朱雀寄合一番隊/一柳隊小隊頭。 29歳。
奇襲を受けたため、共に戦っていた仙台藩士を無事に退却させるべく、部隊に援護射撃を命じ、自らは敵兵に切り込み壮絶な戦死を遂げた。
≪赤羽源六≫ 源兵衛の次男。
朱雀士中一番隊/小森隊。 20歳。
上崎且馬
.
清助の養子。
会津藩士で、桑名藩の軍目付。
慶応4(1868)年8月23日、蚕養口で戦死。
52歳。
黒河内清次郎、野村新平、黒河内只四郎
.
≪黒河内清次郎≫ 織左衛門の伜。
戊辰(1868)年9月14日、米代二ノ丁で戦死。 28歳。
≪野村新平≫ 朱雀寄合三番隊/鈴木隊半隊頭。
戊辰(1868)年9月24日、大芦村矢ノ原で死。 25歳。
墓は、矢ノ原、大芦にもある。
≪黒河内只四郎≫ 織左衛門の3男。
諸生隊/佐川隊。
慶応4(1868)年1月3日、伏見で戦死。 22歳。
墓は大阪/一心寺、京都/黒谷に慰霊碑がある。
坂本宇兵衛
名:義續
坂本義邵の子孫。
砲兵二番隊/小隊頭。
慶応4(1868)年5月26日、磐城/白河金勝寺山で負傷、7月9日に死去。
27歳。
「信忠神霊」
桐林秋露信士
詳細不明。
「慶應四戊辰年七月廿四日」
重松銅次郎信俊
松山藩士。
「信彦(彡→久、靡とも)神霊」
「豫州松山藩 重松銅治郎信俊 慶應四戊辰年 六月十七日戦死」
慶応4(1868)年、戦いで負傷し、6月17日に日新館病院で死去とも。
|
中の碑
.
「右大窪山葬地界限寛文四年甲辰
九月晦日 先君中将源公始致士
自是東至峯頭五十三間
自是西至大林百四十六間
自是南至麓大路八十三間
自是北至峯頭百五間
民禁火化仍所置之者也 元禄四年
辛未六月二十八日表之」
寛文4(1664)年、保科正之公が士民の墓地 (約2万坪) に指定。
元禄4(1691)年、勘定奉行/鋤柄善太夫にして標石を設置。
|
[戻る]
[TOP]
[行く]
[遊ぶ]
[知る]
[メニュー]
[大窪山墓地(中央)]
[大窪山墓地(西麓)]