本堂の向かいの本多忠朝墓の裏で、歴代住職の墓域の隣りにある。 鳥羽伏見の戦い、大坂の戦いの他に京都守護職時代の病死者も埋葬されている。
毎年、法要が営まれている。
織左衛門の3男。
諸生隊佐川隊。
慶応4(1868)年1月3日、伏見で戦死。
22歳。
「昇龍院義山時忠居士」
墓は大窪山、黒谷/慰霊碑に記載。
左司馬の弟。
別撰組佐川隊。
慶応4(1868)年1月5日、伏見で戦死。
29歳。
「岳院諦道真順居士」
黒谷/慰霊碑に記載。
三瓶九右衛門の次男。
慶応3(1867)年12月13日、病死。
墓碑「慶應丁卯三年十二月十三」。
34歳。 「芳義院洋諦勇勝居士」
慶応4(1868)年1月3日に鳥羽伏見で戦死とも伝えられ、黒谷/慰霊碑・梧真寺にも記載されている。
慶応4(1868)年1月7日、鳥羽伏見で戦死。
53歳。
34歳とも。
「仁徳院義齋直忠居士」
元和元(1615)年5月7日、大坂夏の陣で戦死。
保科臣 原治兵衛墓
元和元乙卯年 五月七日討死
慶応元乙丑年四月 後裔九人相共建之
会津世臣原嘉平治、原政之進、原彦左衛門
原早太、同直鉄、甲斐八郎陣代原八四郎
原彦松、原萬次郎、原源次郎
胤忠の子。
番頭 大砲隊長。
慶応4(1868)年1月5日、鳥羽街道を進軍して来た長賊らを撃退するも負傷し、八幡の関門で休息中に死去。 37歳。
「明心院殿義専欣淨居士」
黒谷/慰霊碑に記載。
保科正之公の家臣。
元和元(1615)年5月7日、大坂の陣で天王寺口にて戦死。
家祖名 直忠称金右衛門元和元
年大阪之役従保科公五月七日
戦死天王寺口収蕁一心寺時
公臣奮戦死者七人即其一也慶應
紀元七月廿九日會津井上直徳建
村松権助の弟。
大砲林隊。 会津宰相家臣。
慶応4(1868)年1月3日、伏水で戦死。
「放雲院到岸淨刹居士」
黒谷/慰霊碑に記載。
元和元(1615)年、大坂夏の陣で戦死。
豆州韮山江川太郎左衛門家臣
元和年中於大阪討死
文久○〜○
計助とも。 上田国三郎の弟。
大砲林隊。
慶応4(1868)年1月3日、伏見で戦死。
28歳。
「淨明院誠心義順居士」
黒谷/慰霊碑に記載。
勇次郎の父。
大砲林隊足軽指揮役。
慶応4(1868)年1月3日、伏見で戦死。
42歳。
「慈光院淨月清雲居士」
黒谷/慰霊碑に記載。
繁次郎の倅、藤之進(漸)の実兄。
大砲白井隊組頭。
慶応4(1868)年1月5日、鳥羽で戦死。
23歳。
「常信院殿等覚自明居士」
黒谷/慰霊碑、北山霊園の墓碑にも記載。
河原やす子の父。
孫の政良、勝太郎は城下の戦いで戦死。
堀半右衛門組 (隊)。
慶応4(1868)年1月6日、鳥羽で負傷し一心寺で死去。
58歳。 「義誠院昇月自観俊香居士」
黒谷/慰霊碑に記載。
鳥羽・伏見の戦いでの東軍戦死者の招魂碑。
明治31(1898)年、建立。
「明治三十一年一月六日在阪旧幕臣建
泥舟 高精一書」
この寺は、大坂の陣で徳川家康の本陣が置かれ、戦死者3千体を埋葬したという。
▲(大阪市天王寺区逢阪2-8-69 Tel. 06-6771-0444)
3兄弟とも、新撰組に入隊。
万太郎は戒名、三十郎と周平 (昌武) は俗名が刻まれている。
谷三十郎
備中松山藩士/谷三治郎の長男。 新撰組/七番隊組長。
慶応2(186)年4月1日、京都/八坂神社の石段下で頓死。
初め光縁寺に埋葬、後に本伝寺に改葬。
谷万太郎
谷三治郎の2男。
兄/三十郎の死により、新選組を離脱。
明治19(1886)年、死去。 51歳。 「自證院本覚日遊居士」
谷周平
谷昌武、近藤周平、播田昌武、谷千太郎とも。
谷三治郎の3男。 近藤勇の養子となる。
鳥羽伏見の戦い後、脱走。 明治34(1901)年に病死、54歳。
繁華街の中にある。
▲(大阪市北区兎我野町14-3 Tel. 06-6311-3826)
独礼以下寄合隊坂十郎分隊。
開城後、高田/光国寺・安伝寺にて幽閉 (謹慎)。
明治10(1877)年10月3日、陸軍会計部一等書記として戦死。
C−8列 (端から3基目)。
「故陸軍会計一等書記 赤塚鐵蔵墓
福島縣會津郡南町士族
明治十年十月三日死」
実際の埋葬地は不明。
▲(大阪市天王寺区玉造本町15-2)