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只見町
河 井 継 之 助 記 念 館
長岡/新町口で流れ弾を左膝に受け、重傷を負ってしまう。
長岡城も再びに奪われたため、会津での再起を目指す。
只見村で、鶴ヶ城から派遣された幕軍医/松本良順の治療を受けた。
良順が持ってきた滋養の牛肉を平らげるほど、元気だった。
しかし、塩沢村で破傷風が悪化し、投宿となる。
8月16日の夕刻、夢が叶うことなく、息を引き取った。
享年42歳、秋も深まる季節 (新暦10月1日) を迎えていた。
荼毘に付され残った細骨を納めた墓が近くにある。
[肖像]
慶応元(1865)年、郡奉行に就任すると、現代にも通じる画期的、革新的な改革を断行する。
慶応4(1868)年、戊辰の役が勃発するや家老上席、軍事総督に任命される。
生意気で無礼な小千谷談判で決裂し戦いで敗れはしたが、誠実な行動を選択したがゆえに、いまだに長岡の地名は輝いている。
あの時に屈辱的な軍門に下っておれば、今の長岡地方の名声は得なかったであろう。
「越後の蒼き龍」と称えられる所以である。
歴史に“もし”はあり得ないが、あえて“もし”英傑/継之助が存命していたならば、利権のみに明け暮れる長賊が太平洋戦争で瓦解するまでの70年ほどの短い年月にもかかわらず国民320万人もの尊い犠牲を強い、隣国にもかけた多大な迷惑などは許さなかったであろう。
ツールチップあり .
河井継之助終焉の家
入り口を入ると、河井継之助終焉の家が展示されている。
昭和39(1964)年、ダム建設で水没するため、高台に移転。
平成5(1993)年、記念館新築により、館内に移築された。
食器類 .
当時の道具が .
残されている。 .
療養の間
この部屋で5日間、治療していた。
薬 研 .
投宿したのは、村医の .
矢沢宗益宅である。 .
銅 像
正面には、河井継之助がお出迎え。
挨拶をして、階段を上り、2階の展示場へ向かう。
階段の壁に、長岡の風土と藩風、歴史の資料が掲示されている。
良く整理されており、読んでいるだけでも楽しい。
2階の正面に、凛々しい継之助とガトリング砲が展示されている。
当時の最新兵器であった。
日本にあった3砲のうち2砲を、買い付けていた。
継之助自身が操作していた、とも伝えられている。
1周して、下り階段。
こちらも壁を有効に使い、整然と資料が掲示されている。
入小屋の戦い、木伏の戦いなど、分かりやすく解説。
継之助たちが戦い抜いた越後から南会津の戦況図もある。
砲弾や火縄銃など
1階の矢沢宅の裏にも、展示コーナーがある。
佐賀藩のアームストロングの砲弾や、火縄銃などが並んで展示されていて、最新と古式が同居した戦いに想いが馳せる。
河井継之助終焉の地碑
2階から屋外に出ると、終焉の地碑が建立されている。
碑面には、「河井継之助君終焉之地」と刻まれている。
山塩資料館
河井継之助終焉の地碑の先に、1室だけの資料館がある。
塩泉 (温泉) からの製塩だったようだ。
昔の塩は、とても貴重だった。
ここにも、弘法大師 (空海) 伝説があった。
当時の製塩場の見取図や、製塩方法が説明されている。
小さいながらも、一見の価値はある。
ごく最近まで、藩を混乱させたとして、故郷/長岡では冷遇された。
汚名はそそがれ、故郷と会津の両地で、安らかに眠っている。
いつ訪れても、ゆっくりと見学できる。
のんびりと、憂愁に身を任せるのも、至宝であろう。
各人が得るであろうう各様の感銘は、来館した時のお楽しみ。
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