鶴ヶ城の三の丸跡地に、建立。
▲(会津若松市追手町)
自伝の類は一切なく、勲章もすべて辞退し、死後にも断わるよう言い残している。
生前の銅像建立の案も、「許さない」と一喝されていた。
賛否両論の中、一般の寄付金を募り、七回忌に建立することが決まった。
1口5千円で2千万円が目標だったが、全国各地から倍近い3千5百万円が集まった。
小ぢんまりした大きさの像が、金権政治とは無縁を貫き通した生き様に、よく似合っている。
平成21(2009)年3月20日、開館。
蔵書2,300冊や手紙、自筆原稿、写真などを集めた記念館。
会津先人顕彰会が運営しているとのこと。
▲(会津若松市日新町14−29 Tel. 0242-29-0888)
何度も訪れたが、いつも閉まっている。
いつしか、「土曜日・日曜日」の開館が、「月曜日〜金曜日 <祝日は除く>」に変わっていた。
いつ訪れても閉まっているのは、変わっていない。
入口に記載されている電話番号にかけ、しばし待っていると係員が開けてくれる。
▲(会津若松市中央1-3-28)
鶴ヶ城稲荷神社
伊東正義書
正義先生の兄 (医師) が、神社前の飲食店に出入りしていたため、その際に参拝している姿を良く見かけたという。
鶴ヶ城稲荷神社については、こちら。
▲(会津若松市馬場三之町)
懐 旧
昭和五十三年十月吉日
衆議院議員
伊東正義書
「雪カキ車」2輌については、こちら。
▲(西会津町野沢字如法寺乙)
戊辰の役にて藩校/日新館も消滅した。
その後、挙藩流刑の斗南藩も消滅し多くの藩士が帰郷、地方税支弁による中学校が2度も設立するが、すぐに閉校させられる。
明治23(1890)年、会津復興には教育が不可欠であると、旧藩士たちが困窮にあえぎながらも浄財を出し合い、私立会津中学を開校。
何度も廃校の仕打ちを乗り越え、会津魂は現在の会津高校へ受け継がれている。
私立会津中学校 → 会津尋常中学校
正義は、旧制/会津中学校の時、旧藩士/山川健次郎 (東京帝国大学総長) の公演を聞き、東大を目指すこととなる。
中学を4年で飛び級し、旧制/浦和高等学校 (埼玉大学)、東京帝国大学 (東京大学) 法学部を経て、農林省に入省。
▲(会津若松市追手町)
会津藩に伊東家は4家あり、正義は分家の子孫。
山本八重から実戦的な銃の撃ち方を習い、飯盛山で自刃した伊東悌次郎も、伊東一族の1人。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下)