偉     人     伝

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伊東 正義(いとう まさよし)の略歴


 首相になりたくて なれなかった者は 数多くいるが
首相になって欲しいといわれて断ったのは
伊東正義だけである。


(資料提供)  故/小林守 氏     .

大正2(1913)年

 12月15日
 父/秀三郎と母/秀の3男として、会津若松市日新町で生まれた。
   ◇ 本籍 : 会津若松市日新町三二八番地 (旧/善久町)
   ◇ 住所 : 会津若松市上町二番十二号
 父は、旧制/会津中学校 (県立会津高等学校) の教師をしていた。
 母は、幼稚園教諭をしていた。
 兄弟は、兄/2人、姉/2人、妹/1人。
 祖父の会津藩士/伊東健輔は、戊辰の役で奮戦している。
 会津藩には、藩校/日新館の教授を勤めた伊東本家と、分家3家があった。
 飯盛山で自刃した白虎隊士/伊東悌次郎は、一族である。
 伊東正義は、分家の子として誕生。

昭和5(1930)年

 3月
 旧制/会津中学校を4年で飛び級し、卒業。
 在籍中、旧会津藩士/山川健次郎 (東京帝国大学総長) の公演を聞き、東大を目指すこととなる。

 4月
 旧制/浦和高等学校 (埼玉大学) 文乙に入学。

昭和8(1933)年

 旧制/浦和高等学校を卒業し、東京帝国大学 (東京大学) 法学部に入学。

昭和11(1936)年

 東京帝国大学を卒業し、農林省に入省。

昭和14(1939)年

 中国大陸の興亜院 (華忠連絡部) に出向し、生涯の朋友となる大平正芳と出会う。
   ※興亜院とは : 昭和13(1938)年、内閣に設置した対中国政策を業務とする機関 (上海・南京)
 帰国したが空襲で焼け出され、大平の自宅に寝泊まりする間柄になっていた。
 一般的なエリード官僚の道を歩んで、平凡な生涯を過ごすはずだった。

昭和21(1946)年

 農林省農政局肥料課長に就任。

昭和22(1947)年

 商工省化学肥料第二課長に就任。

昭和23(1948)年

 農林省会計課長に就任。

昭和26(1951)年

 農林省総務課長に就任。

昭和27(1952)年

 水産庁漁政部長に就任。

昭和28(1953)年

 食糧庁業務第一部長に就任。

昭和30(1955)年

 東京営林局長に就任するが、同年に名古屋営林局長へ異動。
 農林大臣/河野一郎との対立する意見を論破し反抗したため、食糧庁から外され、さらに名古屋営林局長に左遷させられた。
 政治家としての才能を見いだしたのも河野とされ、後に農林事務次官を最後に退官し、政治の道を歩むこととなる。

昭和31(1956)年

 経済企画庁審議官に就任。

昭和32(1957)年

 経済企画庁総合開発局長に就任。

昭和33(1958)年

 農林省農地局長に就任。

昭和36(1961)年

 水産庁長官に就任。

昭和37(1962)年

 農林省事務次官に就任。

昭和38(1963)年9月20日

 農林省事務次官を退官する。
 天命であったのだろうか、これ以降は政治の世界で活躍する。

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