ご   縁   の   墓   碑

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市谷 / 林 氏 墓 地

 初代/林羅山と2代/林鵞峰は、上野忍岡の敷地内に埋葬。
 元禄11(1698)年、3代目/鳳岡の時代、勅額火事で屋敷ごと焼失。
 現在地を拝領したため、2代/林鵞峰の墓と共に移転。
 明治に入ると次第に縮小され墓石を移動したため、原形を留めるのは8代/林述斎、 9代/林檉宇(ていう)、10代/林壮軒、11代/林復斎のみ。
 ▲(新宿区市谷山伏町1-15)
   11月上旬の3日間のみ公開 <問合せ/新宿歴史博物館 Tel. 03-3359-2131>

初代/林羅山

 横田俊益山鹿素行服部安休の師 (朱子学) の1人。
    天正11(1583)年〜明暦3(1657)年1月23日 (75歳)
    通称:又三郎。 諱:信勝。 字:子信。 号:羅山、道春。
    京都四条新町で誕生。 朱子学派儒学/林家の祖。
    私塾/弘文館は、後の昌平坂学問所の起源となる。


4代/林榴岡

 藩主/松平正容公の霊神碑の撰文者。
    天和元(1681)年〜宝暦8(1758)年11月11日 (78歳)
    名:怤。 通称:七三郎。 諱:信充。 字:士厚。 号:復軒、快堂など。
    林鳳岡の倅。
    寛保3(1743)年、将軍/徳川家治の侍講となる。
    宝暦6(1756)年、江戸麹町八重洲河岸の自邸より出火。


5代/林鳳谷

 藩主/松平容貞公の霊神碑の撰文者。
    享保6(1721)年〜安永2(1774)年12月11日 (53歳)
    諱:信武 → 信言。
    林榴岡の倅。
    宝暦8(1758)年、家督を継ぐ。


8代/林述斎

 住いが八代洲川岸を挟んで向い側と会津藩上屋敷と近く、幼き頃から懇意にしていた、
 藩主/松平容頌公容住公容衆公の霊神碑の撰文者。
  hiroyasu">吉村寛泰からの依頼を受けて、「日新館誌」の序文を作成。
 高津淄川安部井帽山牧原半陶の師の1人。
 高津淄川は述斎に随行し対馬に赴き、朝鮮使者の通訳を務める。
    明和5(1768)年6月23日〜天保12(1841)年7月14日
    諱は松平乗衡 → 林衡。 字は熊蔵、叔紞、徳詮。
    号は述斎、蕉軒、蕉隠など。 晩年は大内記。
    美濃国岩村藩主/松平乗薀の3男。
    寛政5(1793)年、林錦峯の死去で林家を継ぐ。

12代/林学斎

 藩主/松平容敬公の霊神碑の撰文者。
    天保4(1833)年10月1日〜明治39(1906)年7月14日 ()
    諱:昇。 字:平仲、 諡号:文靖。
    林復斎の次男。
    子が無く、羅山以来の家系は断絶した。
    「幕府大学頭従五位下文靖林先生墓銘」
    「明治三十九年七月十四日終卒」

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