≪観光案内≫
会津若松駅前観光案内所は、こちら。
会津物産直売所は、こちら。
会津若松市役所 観光商工部観光課は、こちら。
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市の商業地区としての中心地であり、会津の商業・行政の中心地でもある。 神明通り北交差点 (札之辻) は、交通の要所でもある。 ・北は、米沢への国道118号・国道121号。 ・南は、日光への国道118号・国道121号。 ・東は、東山への県道325号。 ・西は、柏崎への国道252号の始点。 |
1月10日に開かれる「十日市」は、今でも市民の数を上回る人出で賑わう。
「十日市」は、「選択無形民俗文化財/文化庁」の1つ。
唯一、アーケードのある商店街であるが、最近は郊外に大型店舗が続々と開店し、全国各地に見られるように「シャッター街」の様相も垣間見え、衰退も著しい。
名所旧跡としての整備やイベントなどを実施し、観光地区として力を入れている。
▲(会津若松市栄町〜中町) 鶴ヶ城から 720m
[閑話]
JR七日町駅から野口英世青春通りまでの約800メートルほどの通り。
大正浪漫を感じさせるレトロな町並みで、今では観光客に人気の通りとなっており、カフェなども充実している。
地元の生活の場とも共存しており、会津漆漆器や会津木綿、会津絵ろうそく、銘菓、銘酒などの特産品・名産品も手ごろな価格で買い求められる。
“そぞろ歩き”が、是非ともお勧め。 <ご参考>
毎月7の日に市が立ったところから名付けられた。
江戸時代には、越後街道であり、南山通りや米沢街道も経由していたため、30軒ほどの旅籠が軒を連ねていた。
▲(会津若松市七日町) 鶴ヶ城から 1.2Km
《現地観光案内板》
会津若松(370KB) | 大町通り(140KB) | 大町四つ角(325KB) |
七日町通り(579KB) | 七日町けやき通り(481KB) | 野口英世青春通り(579KB) |
桂林寺町通り(329KB) | 城下町マップ(139KB) | |
あねさまたちの散歩道(394KB) | あねさまたちの散歩道2(288KB) |
明治17(1884)年、第六十国立銀行若松支店として建築。
明治24(1891)年、改築し蔵造り洋館「會陽医院」として開院。
明治25(1892)年、野口英世が手の火傷の手術を受ける。
医術に感動し、後に ここで書生となる。
医学への勉学に励み、初恋をするなど青春を過ごしている。
1階はコーヒーと手作りケーキの喫茶店で、2階は資料館になっており、英世ゆかりの南米各国のコーヒーが味わえる。
歴史的景観指定建造物 (第3号)。
建物の前の通りは、"野口英世青春通り"と名付けられている。
同じ英世の名の付いた通りは、
◇ ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ市
◇ エクアドルのグアヤキル市
の2か所にもある。
▲(会津若松市中町4-18 Tel. 0242-27-3750) 鶴ヶ城から 1.1km
・8時〜20時
・休館 1月1日
平成17(2005)年に完成した新しい広場。
野口英世青春通り沿いで、會陽医院跡から130メートルほどの所にある。
奥に建つ野口英世像は、昭和33(1958)年、中央公民館前に建立されたものを移転した。
入口の門扉には、博士のレリーフがあるので、お見逃しなく。
時おり、ミニライブなどの催し物が行われている。
▲(会津若松市中町1-23) 鶴ヶ城から 1.1km
・6時〜20時 (店は10時〜16時)
・トイレあり
創業が慶安年間で、300年の歴史を持つ老舗の店内に設置。 享保年間から現在地で、漆器の製造・販売業を行っている。
会津塗に関する歴史から始まり、多彩な漆技法、蒔絵技法、複雑な製造工程、漆の道具類などが、一目で分かるように展示されている。
大正3(1914)年建立の建物は、石造りのように見えるが、木造3階建、外壁モルタル仕上げ。
歴史的景観指定建造物 (第2号)。
▲(会津若松市大町1-2-10 Tel. 0242−22−0203 〔HP〕) 鶴ヶ城から 1.3km
・9時30分〜17時30分
・休館 水曜日(8〜10月は無休)、12月30日〜1月3日
アンティークショップ「骨董倶楽部」の2階にある。
平成15(2003)年7月にオープン。
昭和30年代の街角を再現したもの。
16坪ほどの広さに、たばこ屋、銭湯、写真館などがある。
家具や小物などは、当時の本物。
季節により、展示物を入れ替えているとのこと。
修学旅行の生徒たちにも、大人気。
▲有料 (会津若松市大町1-1-46 Tel. 0242-27-0092) 鶴ヶ城から 1.2km
・10時〜18時
・休館 不定休
明治22(1889)年に築造の蔵で営業している「骨董むかしや」の2階にあり、新選組や会津藩の資料 約500点を入れ替えながら展示している。
戊辰の役時の鉄砲や木製砲、新選組の隊士が身につけていたものと同じ鎖かたびら、会津藩士の書状など貴重な品々。
平成20(2008)年11月14日にオープン。
特に「新選組羽織(無料)」を着用しての記念写真が、修学旅行の生徒たちに人気とのこと。
▲有料 (会津若松市七日町6-7 Tel. 0242-22-3049) 鶴ヶ城から 1.9km
・10時〜17時
・休館 不定休
昭和61(1986)年、オープン。
会津塗や本郷焼などの工芸品を販売している切り妻屋根の蔵造り風2階建の建物。
平成16(2004)年10月1日から、"町の駅会津"となる。
2階が伝統産業や伝統工芸とふれあえる企画展示コーナーだったが、平成22(2010)年の改装でなくなり、単なる土産屋?
会津木綿、絵ろうそく、桐製品、赤ベコなどの民芸品や、名酒などの名産品が、こじんまりと売られている。
▲(会津若松市大町2-8-8 Tel. 0242-22-8686) 鶴ヶ城から 1.5km
・9時〜18時
・休館 月曜日 (祝日の時は翌日)、12月31日〜1月4日
会津若松観光物産協会が運営している物産直売所だったが、名称が「会津まつり協会」に変わっていた。
以前より品数は少ないが会津木綿や、会津塗、絵ろうそく、民芸品などの名産品が、こじんまりと売られている。
史跡パンフレットは豊富に備えられており、何よりも親切。
名称から推察すると祭りに関するのが本業であろうが、観光に関して困ったら、お勧め。
▲(会津若松市大町1-7-3 Tel. 0242-23-4141) 鶴ヶ城から 1.3km
・8時30分〜17時
・定休 年末年始 (12月29日〜1月3日)
・駐車 6台位
ごく最近まで末廣酒造が実際に使っていた醸造所。
嘉永3(1850)年に創業したことから嘉永蔵と名付けられた
。
石原裕次郎が愛した酒蔵としても有名。
醸造所は新たな博士蔵に移り、ここでは受託による少量の限定酒のみを行っている。
ホールではライブやイベントも開催され、喫茶店もある。
国選定登録有形文化財。 歴史的景観指定建造物 (第4号)。
嘉永蔵の一画に、世界各国のカメラを展示した「末廣クラシックカメラ博物館」もある。
▲(会津若松市日新町12-38 Tel. 0242-54-7788) 鶴ヶ城から 1.4km
・10時〜17時
・休館 12月31日〜1月1日
安政2(1855)年、「東講商人鑑」に掲載。
慶応4(1868)年、宇都宮で足を負傷した土方歳三が治療のため約3ヵ月逗留し、ここで他の新選組隊士と再会している。
明治15(1882)年、、自由民権運動家の宇田成一が、官憲に襲われる事件 (清水屋事件) の舞台。
同年、夫と帰省した新島八重が、約1か月逗留している。
土蔵造り純和風3階建ての建物は昭和初期に取り壊されてしまい、今は大東銀行の会津支店となり、石碑と説明板があるだけ。
幕臣/望月光蔵が投宿中、戦傷の治療のため土方歳三も投宿、見舞いの最中に口論となり、傷で動けない土方が望月に枕を投げつけたなど、宿にまつわる逸話には事欠かない。
▲(会津若松市大町1-1-38) 鶴ヶ城から 1.3km
外郭16か所の郭門の中で、唯一、現存する石垣。
そのうちの西側の石垣のみが、当時の面影をわずかに残している。 国指定史跡若松城跡。
外郭門が高石垣であるのは、他に熊野口、外讃岐口があった。 藩主が参勤交代で江戸へ向かう時に、見送った場所でもある。 北側の外濠に位置している。
内には武家屋敷がならび、北は郭外となって町人の街となっていた。
戊辰の役では、滝沢峠方面から侵入した敵兵との激戦地でも知られる。
各郭門については、こちら。
[閑話]
▲(会津若松市栄町275) 鶴ヶ城から 820m
・見学自由
鶴ヶ城/本丸内にあった櫓で、明治3(1870)年に移築された。
歴史的景観指定建造物 (第34号)。
本堂がなかったため、鶴ヶ城の取壊し時に払い下げを受け、しばらく仮本堂として使用していた。
外観は数奇屋風楼閣状の3階だが、内部は4層。
最上部の階段は、跳ね上げ式で、格納すると上れない。 うぐいす張りになっており、密議を行う場所として使われたという。
戊辰の役で西軍が余興で切り付けた刀傷が残っている。
新選組三番組長。 元/会津藩士。
一刀流使い手として知られ、新選組最強の剣士といわれた。
新選組最年少で幹部となり、池田屋事件にも加わっている。
鳥羽伏見の戦い後、甲州勝沼などを転戦し会津に至る。
療養中の土方歳三が復帰するまで隊長として奮戦。
母成の戦い後、土方歳三や旧幕臣/大鳥圭介らは仙台藩や庄内藩に向かったが、斉藤たち20数名は会津に残留し、最後まで戦った。
「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」 (谷川史郎兵衛日記より)
慶応4(1868)年9月4日、西軍の奇襲を受け壮絶な戦いとなった。
一時、神指町/如来堂の戦いで、戦死したと思われていた。
鶴ヶ城開城後も、非道を繰り返す賊軍には降伏できないと戦い続けたが、藩主/容保の使者の説得により、戦いを止めた逸話が残っている。
戦後は、越後高田藩で謹慎後、斗南藩/五戸へ移住し倉澤平治右衛門宅宅へ居住。
西南戦争では、抜刀斬り込みで大砲2門を奪取するなど大活躍し、新聞紙面を飾った。
4度も改名しており、「山口一」から
⇒ 江戸で刃傷沙汰を起こし 「斎藤一」
⇒ 後に 「山口次郎(二郎とも)」
⇒ 鶴ヶ城開城後に 「一瀬伝八」 の名で高田藩謹
⇒ 容保より姓を賜り 「藤田五郎」 の名で斗南藩へ
大正4(1915)年9月28日に死去、行年72歳、床の間を背に座ったままの大往生だったという。
遺言により、仲間たちの眠っている阿弥陀寺に墓が建てられた。
毎年9月には、慰霊祭が開催される。
明治初めの警官で今なお慰霊祭が開催されるのは、斎藤一(藤田五郎)の他には佐川官兵衛や川路利良(薩摩藩士)くらいであろう。
▲(会津若松市七日町4-20 Tel. 0242-27-7445) 鶴ヶ城から 2.0km
・阿弥陀寺については、こちら。
現在の会津若松の基礎をき築いた藩主の一人。
天正18(1590)年、小田原討伐の功により豊臣秀吉より会津拝領となる。
黒川城を改築し、「鶴ヶ城」に改称した。
地名も「若松」と改め、新しい町造りを行った。
漆器の会津塗、焼き物の本郷焼などの産業を興している。
茶の道では、利休七哲の一人。
京都/伏見の屋敷で急死したため、能力を恐れた秀吉が毒殺したとの説もある。
弘治2(1556)年〜文禄4(1595)年、享年40歳であった。
墓の五輪塔は息子/蒲生秀行公が建立、「空・風・火・水・地」の5文字が刻まれている。
遺髪のほか、京都/大徳寺黄梅院の墓から分骨されているとも。
略歴については、こちら。
祖母方の「池上家累代之墓」。
高祖父/池上武輔は、会津藩士、郡奉行、第二遊撃隊の組頭として奮戦。
曾祖父/池上四郎は武輔の4男で、第6代/大阪市市長となり、3期10年間を務め大阪の発展に貢献。
曽祖伯父/池上友次郎は、慶応4(1868)年1月5日に淀で戦死。 黒谷に慰霊碑がある。
曽祖伯父/池上三郎は、武輔の長男、中軍護衛隊で籠城戦を戦う。
後に函館控訴院検事長。
寛文4(1664)年、会津藩教育の祖と称される儒学者/横田俊益が、武士や庶民の身分を問わない学問所を、桂林寺町の北で開校。
親交のあった落合村 (現/磐梯町) 草庵/無為庵に住んでいた如黙 (本名/岡田幸免) を初代/堂主に任じ、20年間、教育に当たらせた
。
一般庶民のための学問所としては、日本最古の私立校である。
聞き及んだ保科正之公は、敷地・施設の租税を免除し、さらに建物の維持・修理代2両を毎年 支給して、大いに策励した。
その後、藩士教育の学問所「講所 (後の日新館)」が郭内に開校すると、稽古堂は「町講所」と改称し、一般農工商の子弟教育に専念するし、甲賀町に移る。
今では、昭和23(1948)年頃に、近くから移された石碑があるだけ。
▲(会津若松市大町1-5) 鶴ヶ城から 1.7km
若松幼稚園 | 西福寺境内の 道標 |
≪閉店 建物は現存≫
蒲生氏郷公を紹介する資料館。
東日本大震災で損傷し、2年半ほど休館していた。
再開後、2階の展示物は撤去され、見学はできない。
その後、1階はパワーストーンなどの石の置物の販売をしている「石屋」として営業していたが・・・
▲(会津若松市大町1-2-21)
鶴ヶ城から 1.4km