山本八重 (川崎八重、新島八重) の生涯は、3つの時代に分けられる。
◇ 幕末のジャンヌ・ダルク
会津藩/砲術師範の家に生れ育つ。
最新の洋式銃で戦いぬいた「誕生から戊辰の役」の時代。
◇ 時代をリードする"ハンサム ウーマン"
生きていた兄/覚馬を頼って京都に移住する。
新島襄と運命的な出会いの「京都移住、新島襄と結婚」の時代。
◇ 日本のナイチンゲール
最愛の新島襄を見送ってから、篤志看護婦となる。
日清・日露戦争時の救護活動に晩年を捧げた「社会福祉活動」時代。
いずれの時代も、直面した危機から逃げることなく対峙し、時代を先取りして生き貫く。
激動の時代の孤独さに堪え、会津の気骨さを示す
「ならぬことは、ならぬものです」
を貫き通した女性であった。
なお、呼び名を変えているが、当サイトでは「八重」で通した。
「山本八重子 → 山本八重 → 川崎八重 → 新島八重 → 新島八重子」
死んだと思った兄が生きているのを知り、兄の住む京都への移住を決意する。
真綿が水を吸い込むように、新しい時代を先取りしていく。
そして、運命の新島襄と出会い、結婚する。
襄が体験した外国での知識を、古来からの慣習にこだわることなく吸収していく。
男尊女卑の時代、誤解されることも多かったが、信念を貫き通す。
兄/覚馬が所有していた土地に、夫/襄との夢を実現する。
前年に釈放されていた兄/覚馬は、後に京都府令(知事)となる槇村正直らから幾度も切望され、京都府の顧問に迎えられる。
さらに自宅を講筵とし、政治や経済学を教えていた。
生徒の中から、東京府知事の松田道之や、大阪府知事の藤村紫朗らを輩出している。
1月
鳥羽伏見の戦いの時、捕えられ処刑されたと伝えられていた兄/覚馬から手紙が届き、生きていることを知る。
「越後より攻め寄せたる薩兵の、会津以西三里許の一村落に宿す。其農夫は即ち翁が家の譜代のものなりき。薩兵夫れとも知らず、翁の事を語る。日く翁は薩邸に在り厚遇を受け、恙がなき故、若翁の親族に遇はば之を伝えよ」 (同志社文学 六二号/山本覚馬翁の逸事/山本学人)
開城から3年後のことであり、当時の混乱の様子がうかがえる。
2月
兄/覚馬の眼が不自由になっていると聞くや、側で手助けすべく京都移住を決意。
母/佐久、姪/みねを伴って京都に向かうため、生まれ育った会津を後にする。
京都に着いた八重たちは、兄/覚馬の100坪ほどの居宅に同居する。
4月14日
日本初の女学校として「新英学級及女紅場」が旧/九条殿河原町邸に設立され、舎監兼教導試補となる。 京都府顧問になっていた兄/覚馬の推薦によるものだった。
この女紅場で、茶道教授として勤務していた13代千宗室 (円能斎) と出会い、茶道を親しむようになる。
その後、「新島宗竹」の名で、女性向けの茶道教室を開き、裏千家の流派を広めた。
当時の茶道は男性のものだったが、女性へと広め、今の隆盛につなげた貢献は大きい。
山本家の先祖は、元々茶道家であった。
11月26日
新島襄が、10年振りに帰国。
天保14(1843)年1月14日、安中藩士の父/民治と母/とみの子として誕生。 念願の長男誕生だったため、七五三太(しめた)と名付けられた。 襄の生誕地には、同志社などにより碑が建立されている。 添川廉斎に師事し人生の指針を一変させ、幕府の軍艦操練所に入り洋学を学び、米国へ憧れるようになる。 元治元(1864)年6月14日、函館港から米船/ベルリン号で密出国する。 上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、米国へ向かう。 船長/ホレイス・S・テイラーが「ジョー」と呼んでいたことから、後に「襄」と名乗るようになった。 慶応元(1865)年7月、ボストンに到着。 フィリップス・アカデミーに入学、後の札幌農学校教頭/ウィリアム・スミス・クラークの授業を受けており、密出国者から正式な留学生となっている。 明治7(1874)年、アンドーヴァー神学校を卒業し、横浜港に到着した。 |
兄/覚馬は、英語を学ぶためゴルドン教宣教医に接近、贈られた「天道遡源」でキリスト教に目覚める。
八重も兄の影響を受け、英国人ホーンビィ・エバンス夫妻から英語を学び、ゴルドン博士から聖書を習い始めた。
やがて、ゴルドン博士から襄を紹介される。
「或る日のこと、何時もの通りゴルドンさんのお宅へ、馬太伝を読みに参りますと、ちょうど、そこへ嚢が参っておりまして、玄関で靴を磨いて居りました。私はゴルドンさんのボーイが、ゴルドンさんの靴を磨いているのだと思いましたから、別に挨拶もしないで中に通りました」
10月15日
新島襄と婚約。
前夫/尚之助が死去したことは、すでに聞いていた。
襄は、父への手紙の中に、
「日本の女性の如くなき女子」
と、八重がその理想の女性であると伝えている。
11月
キリスト教徒/襄と婚約したことで、京都府から女紅場の職を解雇される。
新島のキリスト教主義の学校の開校を阻止すべく、仏教各宗派が抗議集会を開き、京都府知事や文部省に嘆願書を提出し圧力をかけていた。
妹がキリスト教に興味があったからとして解雇されたことで、覚馬は八重の女学校設立に全面協力へと傾いた。
11月29日
新島襄らが京都寺町の旧高松邸に、官許同志社英学校 (現/同志社大学) を創立。
教員2人・生徒8人でのスタートだった。
校名「志を同じくする者が集まって創る結社」は、兄/覚馬が命名した。
1月2日
古い考えの人からの嫌がらせにも動じず、J.D.デーヴィスから洗礼を受ける。
京都で洗礼を受けた最初の人であった。
1月3日
新島襄と宣教師デーヴィスの司式で結婚式を挙げる。
八重 30歳、襄 32歳だった。
日本人同士がキリスト教式の結婚式をするのは、京都では初めてであった。
切支丹迫害の気風が残る世の中で、堂々と洗礼を受け、キリスト教徒と結婚する八重を、人々は畏敬の念で見ていた。
時代を先取りする八重にとって、世間の評判などどうでも良かったのだろう。
単なる西洋への憧れだけではなく、西洋の感覚は身に着けても、武士の誇りと道徳をも兼ね備える八重を理解できなかったのは、当時としてはやむを得なかったようだ。
学生であった徳富蘇峰には、夫婦揃った目の前で、
「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性」
とまで酷評されている。
この時も、八重は全く動じず、夫婦愛が変わることもなかった。
徳富蘇峰は、人情の機微と八重の本性を知り、後に非礼を心から詫びている。
「鵺 (ぬえ)」とは、顔は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇、気味の悪い鳥のトラツグミに似た声で鳴く、伝説上の妖力を持つ生物。正体のはっきりしない人物の例え。
徳富蘇峰の弟/徳富蘆花も、小説「不如帰」で会津藩士の娘/大山捨松を誹謗中傷している。
孝明天皇からの御辰韓 (会津藩を称賛) を記載した「京都守護職始末」が明治44(1911)年まで出版できず、言われなき汚名を着せられていた時代である。
徳富一族は、時の権力者におもねる家系のようだ。
後に蘆花は、八重の兄/覚馬の娘/久栄に求婚したが、当然、実らなかった。
11月
明治に入って購入していた6千坪の旧薩摩藩邸敷地を兄/覚馬から学校用地として提供された新島襄は、同志社英学校を、この地に移転 (今出川校地) する。
襄と連名で、文部省に「私学開業願」を出している。
この年に新島襄らは、京都御苑内の旧/柳原邸に同志社女子塾を設立。
5月には、「新英学級及女紅場」が「女学校及紅場 (現/京都府立鴨沂高校、八坂女紅場学園)」と改称されている。
新島襄らが同志社女子塾を母体として同志社分校女紅場を開設。
同年9月に、同志社女学校 (現/同志社女子大学) と改称。
9月16日
僧侶や神官の激しい反対運動にも屈せず、同志社英学校を正式に開校。
社長は夫/襄、結社人は兄/覚馬となる。
教師は、外国人宣教師だったが、八重は礼法の教師となる。
前々年に洗礼を受けていた母/佐久は、老齢ながらも舎監に就き、明治16年まで5年間も勤め、学校の発展に補佐し続けた。
兄/覚馬は、第1回京都府会選挙で当選し、盲目の身ながらも初代議長にも選出された。
7月27日
夫と一緒に、故郷の会津に帰省し (清水屋旅館)、約1か月逗留。
桧原/大和屋
、綱木/清水屋与五郎宅
、白布高湯東屋
、米沢/宍戸屋などに宿泊している。
父の墓への報告と、先祖の墓参りもした。
山本家の墓は無縁として整理されていたが、若松の牧師/若月が探し出した。
現在の墓域・墓碑は、後に八重が整理・統合し建立した。
墓碑「山本家之墓所」は、八重の直筆。
[閑話]
会津に、帰省。
兄/覚馬は、京都商工会議所会長に就任。
この年に覚馬は、後妻/時恵とともに洗礼を受けた。
5月21日
襄が猪苗代経由で若松へ。
喜多方から大峠を通り、米沢、福島、仙台経由で帰る。
7月
夫/新島襄と共に避暑のため札幌に訪れた際、幼なじみの日向ユキ (内藤ユキ) を訪ね、約20年ぶり (八重43歳・ユキ37歳) に再会を喜び合う。
武林写真館で記念撮影、お互い年を取ったねと笑い転げたという。
※ 同年4月、山本覚馬などの斡旋により、松平容大公が同志社英学校に入学している。 |
夏
夫/襄の病は、不治の病だと医師から告げられる。
襄は、既に覚悟していたようだ。
5月には、吉野の土倉庄三郎に死後の八重の行く末を頼んでいる。
意外と知られていないのは、14年間の夫婦生活において、3分の1の期間を八重は襄の看病に費やしていることである。
療養しながら職務をこなす襄に、北海道や鎌倉、伊香保にも付添い、献身的な看病をしている。 あまりの献身さに、
「先に死なれたら困るから、休んでくれ」
とまで、襄に言わせるほどだった。
1月23日
母の看護をしていた八重は駆け付けるも、夫/襄は静養先の神奈川県大磯の旅館/百足屋で、看取られ死去した。 46歳。
臨終に際して、左手は最後まで八重に触れていたという。
「狼狽するなかれ、グッドバイ、またあわん」
倒れてから看護をし続け、終末期看護を行った看護婦/不破ゆう (勇) は、同志社系列/京都看病婦学校の第2回卒業生であった。
墓は、京都市営の若王子墓地/同志社共葬墓地。
兄/覚馬が同志社の臨時総長となり、以後の同志社の発展に尽力する。
11歳で安中藩/学問所に入った新島襄は、添川廉斎から漢学を習う。
会津藩の軍事奉行添役/広川 (広沢か) 庄助の従僕だった廉斎は、漢学などを究め、安中藩に召し抱えられていた。
開国論者であった廉斎からの教えは、若き襄に多大な影響を与えたという。
そして、22歳で国禁を犯して函館から密航し、アメリカ/ボストンの名門アーモスト大学で学ぶことになる。
八重の人柄に惚れぬいたことに異論はないが、師の出身地/会津には特別な憧れを持っていたことも否めない。