山本八重 (川崎八重、新島八重) の生涯は、3つの時代に分けられる。
◇ 幕末のジャンヌ・ダルク
会津藩/砲術師範の家に生れ育つ。
最新の洋式銃で戦いぬいた「誕生から戊辰の役」の時代。
◇ 時代をリードする"ハンサム ウーマン"
生きていた兄/覚馬を頼って京都に移住する。
新島襄と運命的な出会いの「京都移住、新島襄と結婚」の時代。
◇ 日本のナイチンゲール
最愛の新島襄を見送ってから、篤志看護婦となる。
日清・日露戦争時の救護活動に晩年を捧げた「社会福祉活動」時代。
いずれの時代も、直面した危機から逃げることなく対峙し、時代を先取りして生き貫く。
激動の時代の孤独さに堪え、会津の気骨さを示す
「ならぬことは、ならぬものです」
を貫き通した女性であった。
なお、呼び名を変えているが、当サイトでは「八重」で通した。
「山本八重子 → 山本八重 → 川崎八重 → 新島八重 → 新島八重子」
最愛の夫/襄との、早すぎる別離。
西洋的な日常から、一転、茶道教授の資格を取得する。
裏千家流を広めることに貢献するなど、茶道家として活躍する。
やがて、篤志看護婦としての活動に邁進する。
社会福祉活動は高く評価され、銀杯を下賜される。
皇族以外の女性としては、初めての叙勲であった。
86歳、襄のもとに向かう。
夫の書斎は、八重が死ぬまで42年間、そのままにしてあった。
夫を失った孤独を埋めるように、茶道教授の資格を取得し自活する。
茶名「新島宗竹」をもらい受け、女性向けの茶道教室を開く。
評判は良く、多くの女性が習いに来て、裏千家流を広めることに貢献。
日本赤十字社の正社員となり、社会福祉活動を始める。
日赤篤志婦人会にも、入会する。
12月28日
兄/覚馬が、自宅において死去。
64歳。
最愛の夫を失って2年後に、敬愛の兄をも失った。
墓は、京都市営の若王子墓地/同志社共葬墓地。
看護学校の助教師もしていたが、日清戦争が始まると、20余名の篤志婦人会会員を募り、篤志看護婦として11月4日に広島へ駈けつけた。
その後、4か月にもわたって傷病兵の看護にあたる。
戦時救護は、鶴ヶ城での龍城戦の経験が大いに役立ったという。
この功績で、翌年に勲七等 (宝冠章/従軍記章) となる。
母/佐久が河原町の自宅にて死去。 87歳 (85、86歳とも)。
墓は、京都市営の若王子墓地/同志社共葬墓地。
米沢藩士/甘糟三郎の娘/初子を養女とする。
初子の母は、会津藩士/手代木直右衛門の次女/中枝である。
入籍は、明治33(1900)年4月17日付。
日露戦争が起きたため再び従軍、大阪で救護活動を指揮した。
この功績で、翌年に勲六等となる。
昭和天皇の即位大礼の時、銀杯(勲二等)を受章した。
日清戦争と日露戦争の際に、篤志看護婦として尽力した功績によるものだった。
女性への銀杯は、皇族以外で初めての受章であった。
山本家の菩提寺/大龍寺に、現在の山本家之墓を建立。
元々の墓が無縁墓として整理されてしまっていたため、5月に依頼していた。
「同志社校友同窓会報 第六十一号/新島八重子刀自米寿記念号」が発行。
寺町丸太町上ルの自宅にて、急性胆のう炎のため死去。
86歳、常に前向きに貫き通した人生の幕を閉じた。
葬儀は、彰栄館 (京都市内最古のれんが建築物) において同志社葬として営まれ、4千人もの参列者であふれた。
構内の礼拝堂の鐘が打ち鳴らされ、鐘の音が響き渡る中で粛々と開催された。
会場には「同志社の母」と書かれ、参列者の女性たちは 「同志社の"おばあ様"」 と思い出を語り合い、散会しようとはしなかったという。
死を悟り、すべての遺産を同志社に寄付してあった。
墓所は、襄の隣 (京都市営の若王子墓地/同志社共葬墓地)。
《寺町丸太町上ルの自宅/現・新島旧邸》
晩年の八重は、それまでの男勝りの容貌が消え、穏やかで物静かに過ごしている。
華道や茶道にも、造詣が深かった。
建仁寺/黙雷和尚などと茶事を楽しんでも、敬慶なクリスチャンとして奉仕し続けた、
八重を慕って訪れる生徒たちには、我が子のように接していたていう。
[逸話]
勤務していた京都の女紅場が経営難に陥った。
すかさず京都府参事/槇村正直に、女学校の補助金増額を直談判した。
何度も訪れる八重を見て、「男勝りの烈婦」 と評した。
[逸話]
京都の夏は、暑い。
涼むために、深い井戸の上に板を渡して、それにまたがって読書をしていた。
危ないと注意する新島襄に対して、
「あなたもいかが、涼しいですよ」
と言い返し止めようとはせず、むしろ誘った。
[逸話]
八重は、今でいうところの“バツイチ”である。
鶴ヶ城を開城した時に、離縁した藩士は少なくない。
多くの妻が離縁されたが、自由の身になり、裕福な商家などに再婚している。
故なき汚名を着せられ、将来の夢が消え去った会津男子の妻に対する最後の愛であった。
八重は、バツイチを隠そうとしたことなど、1度もない。
[逸話]
客人の前でも、夫を 「ジョー (襄)」 と呼び捨てにし、襄は 「八重さん」 と敬称を付ける。
夫から意見を求められれば、遠慮会釈なく自分の意見を言う。
人力車や車に乗る時は、レディーファーストが身に付いた襄のはからいで、先に乗り込む姿を見て、人々は眉をひそめた。
男女は平等であることを、襄が自ら実践していただけなのだが、男尊女卑の慣習の世、新しい夫婦像など理解されるはずもなかった。
襄は、時代の最先端を行く八重の生き方に共鳴していたから、世間の噂など、どうでも良かったのだろう。
夫婦愛の微笑ましさすら感じる。
[逸話]
八重は、学生のために、お菓子を作った。
夫/襄は、甘い物が大好きだった。
襄が食べないように、鍵の付いた戸棚に隠しておいた。
しかし、襄はカギを開け、中のお菓子を全部食べてしまった。
夫婦間の、小さな他愛もない遊びでもあったようだ。
学生たちには、
「鼻の効く、器用な生き物に食べられてしまった」
と嬉しそうに語った。
[逸話]
晩年は禅にも興味を示して、臨済宗の建仁寺に参禅している。
非難する僧侶たちに対して、
「禅の教えを、キリスト教徒が聞いてはいけないのですか」
と、逆に問い詰めている。 正論である。
建仁寺の和尚/黙雷は、実際に八重と接してみて噂とはかけ離れた人物であると見抜き、毎日のように八重を誘い、ともに茶事を楽しんだという。
和尚が袈裟を贈ったことから、世間では仏教に帰依したという噂が流れたほどであった。
[逸話]
傘を持たず雨に濡れている女学生を見ると、黙って傘を差し出す姿が、しょっちゅう見られたという。
真夏の炎天下でも、日傘を差し出していたという。
日本が発展してゆくためには、次代を担う女性が必須だと確信していたのだという。
進歩的で信念を貫き通した会津魂を持った八重は、男勝りと誤解されているが、本性は心やさしい女性であった。
過酷な人生が、本質を覆い隠させただけなのだ。
[逸話]
夫/新島襄のところに、土倉庄三郎の仲介で板垣退助がやってきた。
戊辰の役で板垣は、会津侵略の当初、指揮官であった。
八重は、西軍の非人道的な弾圧や略奪行為、特に戦死者の野晒しし埋葬を禁じたことなどを非難した。 理詰めに責める八重の追及を受け、答えに窮した板垣は、極悪非道で無知な長賊とは違い、誠実かつ率直に謝罪した。
会話が進む中、板垣が有能な2将を失って攻略に困ったと話すと、「撃ち取ったのは私です」 と八重から言われ板垣は驚き困惑するが、しばらくすると2人で大笑いしたという。