《案内現地版》 |
ゆったりした時の流れる地域なので、公共交通機関も のんびり。
運行本数も少なく時間はかかるが、公共交通でも ご案内。 なお、タクシーは運用台数が少なく、事前に確認を!! |
戦うことを決意した八重は、戦死した弟/三郎の着物を身にまとい、七連発のスペンサー銃を持ち、母と三の丸埋門から城に入ったとされている。
その後、1カ月の籠城戦を戦い抜く。
主力兵が藩境警備で不在だったため、侵入初日は郭内まで西軍の侵入を許した。
八重も迎撃戦に参加し、主に、敵の指揮官を狙い撃ちしている。
今の豊岡墓地の辺りへ四斤山砲の設置を上程したとも伝わっている。
持ちこたえ、主力兵が帰城するに及び、西軍を郭外に押し戻した。
夫/川崎尚之助の大砲隊を助け、砲撃に参加。
正確無比の砲術を駆使して、一時は西軍の砲陣を壊滅するほどだった。
照姫を中心に元家老の妻/諏訪きちの指揮で、女たちは飯を炊き、弾丸をつくり、負傷者の看護と大活躍をした。
さらに、2廻り年上の諏訪きちの指揮の下、志願の婦女子10数名たちと、数度にわたり無断で敵兵へ夜襲を仕掛け、多量の戦利品を獲得して凱旋するようになった。
暗闇の中、突然に出現し、勝手知ったる彼女らの襲来に、敵兵は「夜叉が来た、夜叉が来た」と周章狼狽し、散り散りになって逃げ出す始末だった。
『家老諏訪伊助の義母きちは、家老山川大蔵の母と共に、城中女子の総取締に任じ、傷者看護、死者埋葬、焚き出し、弾薬製造に従事していたが、加藤某女らと操銃法を知る女子数名を集め、或る夜、城を出て、二ノ丁の敵営を襲撃し、敵兵が敗走したので、遺棄品をおさめて帰城した。 本丸の軍事局の知る処となり、「婦女子までを戦わせたるは末代までの恥」として、「今後城内防戦は許すが、出陣は許さず」と厳命される』 |
小田山から西軍の砲撃が本格化すると、鉄門の外の帯郭に移った。
天守閣が盾となり、砲弾を避けることができたという。
松平容保公に、敵の不発弾を説明した場所でもある。(兼定伝)
降伏することが決定された。
真夜中の12時ごろ、三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りに、かんざしで心情を刻んだ。
「明日の夜は 何国の誰か ながむらん
なれし御城
気丈な八重だったが、涙が止まらなかったという。
雑物庫は、今の市民プールの手前辺りにあった。
開城前に、
「女子供は追放されるが、男は全員が切腹」
との噂が流れた。
切腹するつもりで男装のまま、弟/三郎の名を騙り、埋門に集合した男の列に並んだ。
しかし、途中で女と見破られ、猪苗代の謹慎地へ着くと追い出された、と語っている。
『 妾 「アゝ、女郎 と叫びつつ随いて来るので、うるさくてたまらず、隊の右に移り、左に転じ、或いは列中に入りなどして、漸く猪苗代に着きました。 途中多くの屍骸を見ましたが、誠に気の毒とも何とも申しようもなく、感慨無量でありました。』 |
平成25(2013)年秋、三の丸跡に建立された。
同年に、NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映されたことを記念してのことである。
後に茶名「新島宗竹」で、女性向けの茶道教室を開き、裏千家の流派を広めた。 当時の茶道は男性のものだったが、女性へと広め、今の隆盛につなげた八重の貢献は極めて大きい。
千利休の子/少庵は、会津藩にかくまわれた。
表千家、裏千家、武者小路千家/3千家における隆盛の原点は、この地にある。
NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映されてから、市内各地で八重関連のものが増えた。
天守閣郷土博物館の中でも、山本八重の生涯を紙芝居で紹介していた。
《現在は、ナシ。》
慕った兄/覚馬や、最愛の弟/三郎が学んだ藩校。
銃の取り扱いを教えた白虎隊/伊東悌次郎も学んだ。
但馬出石藩の夫/川崎尚之助は、蘭学所の教授として招かれたが、後に日新館の教授となり、鉄砲や弾丸の製造などを教えている。
現在は、碑と説明文があるだけ。
▲(会津若松市米代1) |
弘化2(1845)年11月3日、父/山本権八と母/佐久 (さく、咲とも) の子として誕生。
現在は、碑と説明文があるだけ。
平成元(1989)年、学校法人/同志社が建立。
▲(会津若松市米代2)
⇒ |
八重は城から抜け出し、降伏式を近くから見ていたという。
説明版の最後の文章に、三の丸雑物庫の白壁に刻んだ詠歌が記載されている。
会津酒造歴史館の角にある。 ⇒ 内藤邸跡の前に移設
▲(会津若松市東栄町8-7)
@ 鶴ケ城北口/会津バス → 若松駅前・会津若松駅(会津鉄道)
→ 南若松駅 → 徒歩10分 (850m) A 鶴ケ城北口/会津バス → 郵便局前 → 一の堰団地入口 → 徒歩8分 (700m) B 鶴ケ城西口/会津バス → 漆器団地組合前 → 徒歩11分 (930m) |
戊辰(1868)年9月17日、父/権八は玄武隊上土組として奮戦するも、一ノ堰の戦いで討死する。
十分な駐車スペースあり。
▲(会津若松市門田町
大字一ノ堰字村西500)
南若松(会津鉄道) → 七日町 → 七日町駅前(会津バス)
→ 慶山 → 徒歩3分 (200m) |
駐車場あり。
無縁として整理されていたため、後に八重が整備したもの。
その時に建立された 「山本家之墓」 の筆は、八重とのこと。
「たらちねの みはかのあとを とふことも
けふをかきりと なくほととぎす (晩年 墓参時の句です)」
NHK大河ドラマ「八重の桜」を記念して、山門下の駐車場の傍らに容保桜が植栽された。
「大河ドラマ“八重の桜”記念植樹
山本家の菩提寺に里帰りした容保桜
同志社大学福島県校友会」
▲(会津若松市慶山2-7-23 Tel. 0242-27-9376)
@ 慶山/会津バス → 飯盛山下 → 徒歩4分 (340m)
A 徒歩14分 |
風雲急を告げ、伊東悌次郎は実戦的な銃の撃ち方を八重に習う。
やがて、戸の口原へ出陣し奮戦するも、飯盛山で自刃する悲劇の運命が待っていた。
▲(会津若松市一箕町
大字八幡字弁天下)
遺髪を埋葬した墓は、天寧寺にある。
こちらは、ハイヒールなどでは、無理。
↓ 3. 0 Km
飯盛山下/会津バス → 七日町白木屋前 → 目の前
|
明治15(1882)年7月27日、夫とともに帰省した新島八重が、逗留した旅館。
兄/覚馬の先妻との娘夫婦/伊勢時雄・峰も同行している。
現在は、石碑と説明板があるだけ。
▲(会津若松市大町1-1-38)
案内板があるだけで、駐車場はない。
前の道路は往来が多いのに加えて、次の目的地 「会津新選組記念館」 「斉藤一の墓」 にも駐車場がないので、近くの有料駐車場を利用して、散策しよう。
八重が、戊辰の役で使用したのと同型のスペンサー銃も展示されている。
▲(会津若松市七日町6-7
Tel. 0242-22-3049)
・駐車場はない。
八重は、鶴ヶ城に入城する際、女の命の髪を短くした。
髪を切ってくれたのが、高木時尾。
後に、高木時尾は新選組三番隊長/斎藤一の妻になる。
▲(会津若松市七日町4-20
Tel. 0242-27-7445)
・駐車場はない。
→ 2. 1 Km 鶴ヶ城へ戻る
阿弥陀寺東/会津バス → 鶴ヶ城入口〜鶴ヶ城三の丸口
|
鶴ケ城入口/会津バス → 会津武家屋敷前
→ 徒歩5分 (470m) |
東山温泉入口の信号機手前にある無料駐車場を使う。
籠城戦の最中、八重は敵の不発弾を分解して、松平容保に解説している。
墓へは、広大な墓域を登るので、ハイヒールでは無理。
▲(会津若松市東山町石山院内)
鶴ケ城入口/会津バス → 若松駅前・会津若松駅(JR磐越西線)
→ 喜多方駅・喜多方駅前/会津バス → 寺町角 → 徒歩1分 (140m) |
駐車場は、寺に入る手前の信号機脇にある。
小荒井(喜多方市)の出身。
軍事奉行添役/広川 (広沢か) 庄助の従僕となる。
安中藩に召し抱えられ、漢学や儒学を教え藩風を一変させた。
新島八重の夫/新島襄は、添川廉斎の門下生で、人生の指針を得て、その後の活躍の原点となる。
墓は、東京/正覚寺にもある。
▲(喜多方市字寺町4706
Tel. 0241-23-1292)
若松駅前 | ⇔ 一中前 | ⇔ 蚕養神社 | ⇔ 会津短大南口 |
⇔ 飯盛山下 | ⇔ 飯盛山団地 | ⇔ 和田 | ⇔ 慶山 |
⇔ 石山 | ⇔ 奴郎ヶ前 | ⇔ 会津武家屋敷前 | ⇔ 院内 |
⇔ 東山温泉入口 | ⇔ 東山温泉駅 | ⇔ 東山温泉入口(瀧湯前) | ⇔ 院内 |
⇔ 会津武家屋敷前 | ⇔ 奴郎ヶ前 | ⇔ 慶山入口 | ⇔ 会津若松商工会議所前 |
⇔ 御薬園西口 | ⇔ 花春町 | ⇔ 徒の町 | ⇔ 小田垣 |
⇔ 小田垣局前 | ⇔ 會津風雅堂前 | ⇔ 文化センター前 | ⇔ 鶴ヶ城三の丸口 |
⇔ 鶴ヶ城北口 | ⇔ 鶴ヶ城入口 | ⇔ 合同庁舎前 | ⇔ 三の丁 |
⇔ 神明通り | ⇔ 北出丸大通り | ⇔ 会津若松市役所前 | ⇔ 栄町中三丁目 |
⇔ 老町 | ⇔ 阿弥陀寺東 | ⇔ 七日町駅前 | ⇔ 七日町中央 |
⇔ 七日町白木屋前 | ⇔ 郵便局前 | ⇔ 大町一丁目 | ⇔ 大町中央公園 |
⇔ 大町二丁目 | ⇔ 若松駅前 |