本堂裏の石段の上にある。
墓の前にある開山堂には、自らを彫った木像が安置されている。
嘉暦4(1329)年2月19日、父/源頼忠と母/京都五条院の娘の子として越後国萩村に生まれ、源翁心昭、通称を玄翁という。
陸上寺へ5歳で入門、興国6(1345)年16歳の時に得度し、雲水となり衆生済度のため諸国を行脚。
天授元(1375)年、会津の慶徳村に草庵を結ぶ。
永和元(1375)年、示現寺を再興し、永住する。
応永7(1400)年1月7日、晩年を過ごしたこの寺で人生を終えた。72歳。
栃木県那須の殺生石を鎮めたことで、あまりにも有名。
那須の殺生石を槌で砕いたことから、大工や石工が使う両端が平らな金槌を「げんのう」と呼ぶようになったが、「源翁」を使うことは恐れ多いとのことで「玄翁」の字をあてた、
▲(喜多方市熱塩加納町熱塩温泉甲795 Tel. 0241-36-2031)
・源翁禅師(源翁和尚・玄翁和尚)については、こちら。
400年も続いた蘆名時代の始祖である。
保延4(1138)年、三浦大介義明の七男として、三浦半島である相模国の佐原で誕生。
佐原(横須賀市佐原)に城を構え、佐原氏を名乗る。
続きは、こちら。
▲(喜多方市熱塩加納町半在)
年老いた小野小町が、生まれ故郷の出羽ノ国に里帰りする途中、病にかかり、この地で亡くなくなった。
村人たちは供養のために、小町の塚の上に五輪の塔がおかれた、と伝えられている。
新編会津風土記にも記載がある。
元の五輪の塔は、風化が激しく、昭和53(1978)年に建て替えられ、平成14(2002)年にも整備された。
小町が当地の桜を愛でて詠んだと伝わる歌。
「みちのくの うどの桜と ひと問はば 会津の外の とふもての里」
小野小町の化粧清水 道路を挟んだ向かい側にある。
水鏡にして化粧に使っていたと伝わる。
土砂流入により埋没してしまい、平成14(2002)年に「小町の里づくり事業」として復元整備された。
湧出量が少なく、飲める雰囲気ではない。
▲(喜多方市高郷大字峯字家ノ西地内)
享和3(1803)年12月15日、小荒井 (喜多方市) /寺町の農家兼染物屋/添川清右衛門直光と母/富の子として誕生。
勉強が好きで、会津藩の軍事奉行添役/広川 (広沢か) 庄助の従僕になる。
江戸屋敷へ行くことが許され、儒学者/古賀精里、漢学者/頼山陽、漢詩人/菅茶山に学ぶ。
天保12(1841)年、39歳の時に安中藩に賓師として招かれる。
江戸屋敷で漢学や儒学を教え、安中藩の藩風を一変させる。
山本八重の夫/新島襄は その門下生であり、人生の指針に多大な影響を受けた。 著書「有所不為斎雑録」。
懿倫院徳若義馨居士。
墓は、東京/正覚寺にもある。
毎年、同志社の関係者が墓参に訪れているとのこと。
▲(喜多方市字寺町4706 Tel. 0241-23-1292)
・安勝寺については、こちら。
5世紀ごろの有力者の古墳。
周囲にも古墳があったが、開発により失われ、3基が残っているだけ。
直径17メートル、高さ5メートルで、 喜多方地方の中では最も大きい。
▲(喜多方市岩月町宮津字宮地、南沢田)