蘆名氏の墓所は、
・ 初代領主/佐原義連公 (半在家、岩尾館、三浦半島/満願寺)
・ 寿山廟 (小田山中腹)
・ 竹巌廟 (通称/花見ヶ森廟所)
・ 狸ヶ森廟 (天寧寺)
・ 角館の天寧寺
などにある。
小田山の北麓一帯は、寿山廟から竹巌廟を含め、蘆名氏の墓域であったと思われる。
寛永20(1643)年、保科正之公が墓を訪ねる。 寛文8(1668)年、正之公が山崎闇斎に命じ調査を開始した。 元禄8(1695)年、3代/松平正容公が墓の脇に碑文などを建立した。 |
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歴代の藩主は近くを通る際に立ち寄っている。 ・享保10(1725)年、正容公 ・明和2(1765)年、明和6(1769)年、安永4(1775)年、松平容頌公 ・寛政11(1799)年、松平容住公 (若君の時) ▲(喜多方市熱塩加納町半在) ∴ ∴ |
宝治元(1247)年、青山城の支城として加納氏が濁川西側の比高10メートルほどの段丘上に築いたと伝わる。
文治5(1189)年、佐原義連公の指示で佐原氏某が築いたとも。
応永9(1402)年、新左衛門実詮が一族の新宮城新宮次郎盛俊に攻められ滅亡し、岩尾館も廃館になったとされる。
現在は宅地になっているが、北側の若宮八幡宮の社地や、太子堂から稲荷神社/南側参道の両側などが館の土塁の跡とされる。
太子堂石碑のほか主郭跡に数基の五輪塔が現存し、土塁の北端に玉屋 (= 霊屋) と言う地名があることから、領主の墓とも伝えられている。
▲(喜多方市熱塩加納町宮川字岩尾〜字八反田)
名称の由来は、16代/盛氏公の諱の中にある「竹巌」による。
人頭大より大きな川原石による墓。
墓の上には、五輪塔が建てられている。
五輪塔は、保科正之公が寛文5(1665)年に建立。 ・・・ 「会津藩家世実紀」から
10代/盛久公と、12代/盛詮公から19代/隆氏公までの墓所といわれている。
16代/盛氏公・17代/盛興公・18代/盛隆公の3基以外は、墓主が特定できていない。
18代の東隣りにあるはずの、19代/隆氏公の墓も見つかっていない。
蘆名 盛氏 (もりうじ)公
第16代領主
中央の直径11.6メートル、
高さ3メートルの円形墓
第17代領主
西側の円形墓
父/盛氏公より先に亡くなる
第18代領主
東側の円形墓
元和6(1620)年、黙岑昌ァ大和尚が荒廃していた宗英寺を改めて開山し、16〜18代の菩提寺として再興した。
北に約50メートルにも、13代/盛高公か14代/盛滋公といわれる一基もあるが、大半は住宅地になっている。
(国有地)
▲(会津若松市門田町大字黒岩字花見ケ丘76−2)
小田山の中腹にある。
名称の由来は、3代/光盛公の諱の中にある「寿山」にちなむ。
光盛公から9代/盛政公までの廟所と伝えられるが、各領主の墓地は特定できていない。
「葦名盛氏葬送之図」で、宝積寺裏側の山麓に描かれている。
[史料]
[推定/配置図]
7代/直盛公までは、大半を鎌倉や京都に居住していたようで、分骨か遺品を埋葬した墓といわれている。
▲(会津若松市門田町黒岩主山丙460-1)
7代領主/蘆名直盛公の母堂/笹谷御前 (宝積寺殿金峯尊公大禅定尼) の墓と伝わる。
高さ1.5メートル、幅4メートルの塚。
観音堂跡から下り降りた宝積寺の裏手、乳清水の近くにある。
当時の墓碑の形式とは明らかに異なっており、碑文の刻字なども確認できないが、幕末に描かれた「院内墓所図」などから、11代領主/蘆名盛信公の墓と推定されるとのこと。
後に、再建された墓碑か。
周囲を取り囲むように、一段高い石垣が残存している。
天寧寺の東の裏山/天寧集落裏の小高い位置にある。
天寧寺は、盛信公が創建した。
▲(会津若松市東山町大字石山字天寧)
伊達軍との摺上原の戦いで敗れた20代/義広公は、城県江戸崎の江戸崎城を経て、秋田に移封される。
会津の天寧寺の末寺として、まったく同じの山号・寺号の天寧寺を、花場山の麓に菩提寺として創建している。
蘆名家廟が造られるが、3代で途絶える。
▲(秋田県仙北市角館町上新町10 Tel. 0187-53-2904)