西郷刑部は朱雀寄合二番隊/中隊頭。西郷勇左衛門(近潔) の伜。
戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷、17日に花坂村で死去。
行年30歳。 墓には「九月十五日 行年三十歳」となっていた。
家族は、慶応4(1868)年8月23日、若松の西郷勇左衛門邸で自刃した。
◇ 母/西郷いは子 51歳
◇ 妻/西郷糸子 27歳
◇ 妹/西郷すが子 19歳
◇ 娘/西郷かね子 6歳
◇ 倅/西郷敬一郎 2歳
共に自刃した下記も合葬とのこと。
◇ 家老/采女光美の母/北原きよ 63歳
◇ 十蔵の妻/芥川トエ 51歳
◇ 芥川民弥の妻
◇ 芥川十蔵の姉
墓域には、父/西郷勇左衛門 (近潔)
. と、弟 (近潔の次男) で芥川家を嗣いだ芥川斗機時中
.の墓2基がある。
斗機は、京都/吐師小学校の教師を経て、小舟寺小学校に就くも、 明治19(1886)年10月18日 (40歳) に死去。
▲(喜多方市山都町小舟寺字頭無甲1012 Tel. 0241-38-2505)
・泉福寺については、こちら。
幕臣の勘定奉行/小栗上野介の従者。
上州/権田村で農民の子として産まれたが、小栗家江戸屋敷でフランス式調練を受け、銃の名手だったという。
何の罪もないにもかかわらず、主君の小栗上野介が長賊らに斬首されるや、上野介の妻/道子 (30歳)・母/邦子 (63歳)・養女/鉞子 (15歳)を護衛し脱出、越後を経由し会津へ辿り着く。
小栗上野介の墓は東善寺、慰霊墓は雑司ヶ谷霊園にある。
会津軍/誠志隊に加わり各地で奮戦するも、戊辰(1868)年9月11日に熊倉で戦死。 21歳。
墓標は「佐藤銀十郎信一墓」、町野主水が建てたと聞く。
高崎市の東善寺、故郷の十王堂の墓地にも墓がある。
なお、上野介は近代社会の基礎を築いた人物である。
莫大な費用をかけて横須賀に造船所を建設する際、反対者に有名な言葉を発している。
「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」
妻/道子は、会津にて女児 (クニ、国子) を出産している。
隣りの大きいのが、藩士/中根米七の墓である。
明治22(1889)年5月16日建立とある。
父母など中根家の墓は、大窪山墓地にある。
思案橋事件にかかわった人物で、逃亡の末、故郷に帰っていた。
捕まれば旧会津藩士なので、不当な扱いは必定だった。
事実、捕縛された13名中、会津藩士/永岡久茂は獄死し、処刑されたのは会津藩士3名だけであり、内1名/竹村俊秀は処刑後に冤罪と判明。
巡査が逮捕に向かうとの報が入る。
明治11(1878)年8月23日、累が及ばぬようにと、杉ノ下墓地にて自刃。 59歳。
割腹し咽喉を突き、短刀の刃先が2寸も突き出る見事な最期だったという。
越後/高田藩での謹慎組の一人で、墓標には「義士」が冠してある。
米七も、殉難者の一人と言えよう。
▲(喜多方市熊倉町熊倉字熊倉 周辺)
・光明寺については、こちら。
幕臣の勘定奉行/小栗上野介の従者。
主君/小栗上野介の家族を護衛し、佐藤銀十郎と共に会津に着く。
朱雀士中四番隊/町野隊附属の誠志隊として奮戦するも、慶応4(1868)年9月1日に一竿の戦いで狙撃され戦死。
23歳。
平成元(1989)年11月5日、慰霊碑が建立される。
埋葬地が不明のため、戦死した近くの墓域に建てたとのこと。
高崎市の東善寺、故郷の十王堂の墓地にも墓がある。
▲(喜多方市高郷町上郷字一竿)
無縁墓石のように、一画にびっしりと隙間なく並べられており、2列目の墓碑の確認が難しかった。
文吉とも。
新練隊/土屋隊。
戊辰(1868)年9月15日、一ノ堰で負傷し、
10月24日に松川村で死去。
25歳。
▲(喜多方市塩川町四奈川字上川原2659辺り)
権之助の伜。
正奇隊/杉浦隊。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺で戦死。
22歳。
▲(喜多方市塩川町新井田谷地字原新田47辺り)
墓域である大谷古墳公園の頂から、やや下がった場所にある。
慶応4(1868)年9月2日、陣ヶ峯で戦死した長岡藩士4人を埋葬。
訪れた時が夏の盛りだったため、夏草に包まれて眠っていた。
▲(喜多方市山都町木幡大谷 周辺)
「妻と同じ場所で眠りたい」 が生前の願いだったそうで、熊本から土を運び、近年この地に建立された。
平成13(2001)年、鶴ヶ城/三の丸跡にも顕彰碑が建立された。
別撰隊/隊長として京都市中の警護にあたり、鳥羽・伏見の戦い後は、越後口や鶴ヶ城外など各地で奮戦した。
無類の強さを発揮し 「鬼官兵衛」 「鬼佐川」 の異名で恐れられた。
西南の役が起きるや否や、受けた屈辱を晴らすべく、旧藩士の巡査隊を率い参戦。
明治10(1877)年3月18日、想いを吐き出すように奮戦し、阿蘇山中の黒川村にて散った。
警視局指揮旗に自筆で「勝軍」と記し、すべての手持ち品を宿泊所の人に託し、「世話になった」と別れを告げ、それまで見せた事もない穏やかな顔で出陣したという。
享年47歳。
墓は、大分県護国神社境内の警視局墓地にある。
江戸詰めであったが、戊辰の役の勃発による江戸総引き上げで、遠縁の西郷頼母邸に仮住まいする。
慶応4(1868)年8月23日、が鶴ヶ城下に迫ると、妻/たつ子 (24歳)・長男/彦 (2歳)は西郷頼母邸にて自刃。
開城後は、塩川村に幽閉 (謹慎)。
その後、新政府からの招聘を一切 断り、中ノ目村の中眼寺に寺子屋を開き、多くの子弟教育に残りの半生を捧げる。
子弟の1人/小野徳吉は、参加した喜多方事件の詳細を著書「会津民権史」に書き記し、喜多方事件解明に貢献したという。
明治39(1906)年11月、死去。 享年71歳。
墓の礎石に弟子と思われる多くの名前が刻まれている。
▲(喜多方市塩川町三吉字中ノ目甲55)
会津藩塩川本陣/近江屋跡瀕死の飯沼貞吉が印出ハツに救出され、漢方医/三本住庵の治療を受けた場所。夕刻には傷が悪化し、たまたま居合わせた長岡藩の藩医/阿部宗達・吉見雲台らが、ハツの熱意により西洋医術で治療をやり直した。 令和元(2019)年、記念碑が設置。 ▲(喜多方市塩川町中町1932-2) |
太郎兵衛の伜。 名:英里。
正奇隊杉浦隊。
慶応4(1868)年8月29日、下町で戦死。
30歳。
「明治元戊辰年八月二十九日
若松長命寺裏ニ於テ戦死」
名:英光。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺裏で戦死。
27歳 (妻が多三郎の長女とあるが?)。
詳細不詳。
「明治元戊辰年八月二十九日
若松長命寺裏ニ於テ戦死」
日向内記 諱:次法。 日向三郎右衛門の長男。 慶応4(1868)年8月22日、白虎士中二番隊/隊長として戸ノ口原に出陣したが、野営を命じた後に隊を離れたため自刃の悲劇が起きた。 明治18(1885)年11月14日、死去。 この地に埋葬された記録はないが、この 「日向代々之墓」 以外に墓はないとのこと。 |