画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり .
三国街道の宿駅であった永井宿の近くで、国道17号沿いにある。
目印はトラックステーションで、その向かい側にある。
慶応4(1868)年閏4月24日、三国峠で戦死した。 享年17歳。
長槍をふるって単身敵陣に突入し奮戦するも、銃弾を数弾浴び壮烈な戦死であった。
会津領である小出島まで撤退の命令を受け、「会津武士に“退く”という言葉は無い」との抗議だった。 実質的な自刃である。
白虎隊初の戦死者であり、御蔵入奉行兼隊長/町野主水の実弟。
碑は小出島陣屋跡にあり、首塚が融通寺にある。
現在の墓は、昭和35(1960)年6月に再建されたもの。
三国大権現(御阪三神社)にある「三国峠を越えた人々」の碑には、「坂上田村麿・弘法大師 (空海) ・上杉謙信・伊能忠敬・与謝野晶子・川端康成・北原白秋」などの名前の中に、「町野久吉」の名も刻まれている。
《伝》
四郎右衛門の内儀は、一昔前、幼子を亡くしていた。 生きていれば、若武者と同じ年ごろになっていたはずだった。 話している最中、なぜか胸が温かかくなるのを感じた。 まるで、大きくなった幼子が、帰って来たような気がした。 翌々日、若武者が戦死したと、村人たちから知らされた。 内儀の目からは止めど無く涙が、頬を伝わり続け、止まらなかった。 若武者の呼ぶ声が、風音にのって聞こえたような気がした。 内儀の足が、自然と陣を敷いたという方へ向いて、歩き出していた。 <場所を教えてくれた地元の"おばあさん"より> .
|
幕臣の勘定奉行/小栗上野介の従者であった。
群馬県権田村で農民の子として産まれたが、小栗家江戸屋敷でフランス式調練を受け、銃の名手だったという。
何の罪もないにもかかわらず、主君の小栗上野介が長賊らに斬首されるや、上野介の妻/道子 (30歳)・母/邦子 (63歳)・養女/鉞子 (15歳)を護衛し脱出、越後を経由し会津へ辿り着く。
会津軍/誠志隊に加わり、各地で奮戦する。
戊辰(1868)年9月11日、熊倉で戦死。 21歳。
本墓は喜多方市の杉の下墓地、故郷の十王堂の墓地にもある。
なお、上野介の功績は長賊らや それらに媚びへつらう旧幕臣らにより、隠蔽もしくは過小評価されているが、近代社会の基礎を築いた紛れもない真の人物である。
莫大な費用をかけて横須賀に造船所を建設する際、反対者に有名な言葉を発している。
「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」
妻/道子は、会津にて女児 (クニ、国子) を出産している。
幕臣の勘定奉行/小栗上野介従者。
主君/小栗上野介の家族を護衛し、佐藤銀十郎と共に会津に着く。
朱雀士中四番隊/町野隊附属誠志隊 (幕兵) として奮戦するも、一竿の戦いで狙撃され戦死。 23歳。
慰霊碑が喜多方市の埋葬地辺りの一竿墓地、故郷の十王堂の墓地にもある。
小栗上野介 源 忠順
慶應四年閏四月六日
西軍により無実の罪で村内沼河原に斬首さる
四十二歳
ここは供養墓で遺体首級とも上の本墓にあり
慰霊墓は、東京/雑司ヶ谷霊園にもある。
略歴
小栗又一 源 忠道 (養嗣子)
慶應四年閏四月七日
西軍により無実の罪で高崎城内に斬首さる
旗本駒井家次男
二十一歳
遺体首級は高崎市下斎田に葬られる
本堂脇、墓碑の入口手前に、小栗上野介の像がある。
小栗上野介忠順 (一八二七〜一八六八)
昭和二十八年九月 横須賀市より贈られた胸像 朝倉文夫制作
* 横須賀市博物館前脇の像は この胸像を複製
小栗上野介の供養墓の脇には、「小栗上野介 遺愛の椿」が植栽されている。
小栗上野介が江戸神田駿河台の屋敷から運んだ。
五月に黒味がかった赤い八重の名花を咲かせる
境内のトイレには、小栗上野介の遣米使節一行が乗った米艦ボ―ハタン号が、ステンドグラスで描かれている。
ご住職の熱い熱誠と情感に満ち溢れている資料室と共にお見逃しなく。
▲(高崎市倉渕町権田169 Tel. 027-378-2230)
.
佐藤銀十郎 |
塚越富五郎 |
中島三左衛門 と 娘/さい |
羽倉鋼三郎.
別称:鉱三郎。
儒学者で幕臣/林梁 (伊太郎、代官、後に新徴組頭) の次男。
旗本で幕府代官/羽倉簡堂の養子となり家督を継ぐ。
慶応2(1866)年6月、京都見廻組与力に就く。
巡邏局隊長などを歴任し、幕府陸軍創設にも関与する。
戊辰の役勃発で彰義隊に参加するが、渋沢成一郎と 天野八郎の方針の違いにより渋沢が去るや自らも離脱し、会津藩に合流する。
慶応4(1868)年8月18日、須賀川で虐殺。
屋代由平.
信義を貫き通した元/前橋藩士。
慶応4(1868)年8月18日、須賀川で虐殺。
17歳。