戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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山    形    県

堀粂之助 (竜泉寺)

堀粂之助の墓 (竜泉寺)

 藩命を受け、救援を依頼する使者として米沢藩に出向くも、すでに降伏を決定していた。
 藩命を達成できない事を恥じ、旅籠「越後屋」の主人にお金を渡し、後の事を託してから自刃した。
 慶応4(1868)年9月3日(4日、5日とも)のことだった。
 清左衛門の伜。 名は光器。 砲兵隊士
 天保(1838)9年4月14日生まれ、享年31歳。

堀粂之助の墓 (竜泉寺) 時世の句
時世の句
 神かけて 誓ひしことの かなはねば
    ふたたび家路 思はざりけり


昭和46(1971)年、辞世の歌碑が建立。

▲(米沢市大町4-1-46 Tel. 0238-23-2455)

清水五一 (総穏寺)

清水五一の墓

 吾一、吾市とも。 幼名:森蔵。
 天保8(1837)年、武州埼玉郡羽生村の酒造業/清水弥右衛門の5男。 天保7年とも、天保5年とも。
 文久3(1863)年3月12日、上洛し壬生浪士組の結成時に入隊する。
 浪士組の江戸帰還にも京都残留し、会津藩御預浪士組となる。
 同月下旬、近藤派・芹沢派に疑問を持ち、京を離れ江戸に戻り、庄内藩預りの新徴組に入隊。
総穏寺  慶応4(1868)年4月、庄内藩の江戸退去に従い妻子と庄内へ移り、新徴組として最後まで戦う。
 明治5(1872)年5月27日、病死。
 ▲(鶴岡市陽光町5-2 Tel. 0235-22-3044)


雲井龍雄 (くもい たつお)

 天保15(1844)年3月25日〜明治3(1871)年12月28日 (享年27歳)
 幕末から明治の志士、集議院議員。
 幼名:豹吉、猪吉、権六、熊蔵。 本名:小島守善。
 字:居貞。 号:枕月、瑚海侠徒。
 米沢藩士/中島惣右衛門平と母/八百 (屋代家次女) の次男として米沢/袋町で誕生。
 18歳で叔父の米沢藩士/小島才助の養子となる。
 新政府の貢士 (各藩からの議政官) に推挙され就任するも、戊辰の役で裏切った薩摩藩の罪科を諫める「討薩檄」を起草。 戊辰の役が終ると新政府の集議院議員に任じられたが、薩奸長賊らによって1ヶ月ほどで議員を追放される。
 旧幕臣の経済的な苦境を改めるよう嘆願書を4回も提出したことを悪用し、政府転覆の冤罪を着せ、碌な取り調べもせずに斬首して小塚原刑場に晒し、胴体は大学東校 (東京大学医学部) へ送り解剖の教材に使用させた。
 極悪な所業の発覚を恐れた薩奸長賊らは、雲井が書いた嘆願書など全てを闇に葬り、友人ら14名を斬首、判決前の22人を獄死 (拷問による虐殺) させた。
 「義雄院傑心常英居士」
 熾烈な拷問で誘導した捕縛者から言動を唯一の根拠として、政府部内の準則にすぎない「仮刑律」を強引に適用した冤罪であり、故無い捕縛者の過半数が獄死するなどありえず、虐殺も疑う余地はない。
 原直鉄簗瀬勝吉など会津藩士も連座し処刑されている。
 しかし、真の憂国の志士たちに志しは受け継がれ、自由民権運動へとつながっていく。
 雲井の故郷/山形では噂することすら禁止したため、この冤罪虐殺事件は隠蔽され、今では知る人も少ないが、正すべき歴史の1つであろう。
 また、いわれなく粛清された僧侶の多さにも注目する必要がある。 明治政府が施行した大罪/神仏分離令 (廃仏毀釈) による僧侶への弾圧、古来からの貴重な文化遺産破壊の許されざる歴史も正すべきである。
 なお、策謀した長賊/広沢真臣には天罰が下り暗殺された。

 (補) 斬首後、頭部は小塚原刑場にさらされ、首なし遺体は甕に入れられ解剖の材料として大学東校 (東京大学医学部に運ばれた。
解剖を終えると小塚原刑場に放棄され、雲井龍雄以外の斬首者8体は解剖後に谷中天王寺の無縁墓地にゴミを捨てるがごとく埋められた。
これ以降、刑死者、特に国事犯と称する遺体は、遺族に無断で解剖用に供出。
明治14(1881)年には解剖遺体が1千体にも及び、世論の糾弾に曝された長賊らは、冤罪者の怨霊を恐れ慌てて谷中霊園に千人塚を建立。

雲井龍雄 (常安寺)

雲井龍雄の墓

 遺髪を親族が持ち帰り、菩提寺の常安寺に墓を建立し納めた。

雲井龍雄の墓  昭和5(1930)年、60年忌を機に、有志によって谷中/天王寺に埋葬された頭骨を、故郷の常安寺に改葬し、新たに墓碑が建立された。
 今でも命日には、有志による雲井祭が催されている。
 墓は、天王寺墓地小塚原回向院にもある。
雲井龍雄の碑と文
 常安寺は、上杉謙信が開基 (栃尾市) した寺で、上杉景勝公に従い会津を経て米沢に移ったお供寺。

 ▲(米沢市城南5-1-23
    Tel. 0238-21-6321)


討薩檄の碑 (北村公園)

討薩檄の碑 討薩檄の碑 討薩檄の碑
 北村公園の一角に雲井龍雄の胸像レリーフがあり、台座には戊辰の役で裏切った薩摩藩の罪科を諫める「討薩檄 (とうさつのげき)」が刻まれている。
 欺瞞に満ちた薩奸長賊らとは真逆の、真の憂国志士の熱意が今なお感動を与える。
 討薩の檄については、こちら
 鳥羽伏見の戦いの後、米沢に戻って起草した薩摩藩に対する強い憤りが伝わる檄文で、米沢藩の奉行/千坂太郎左衛門に提出した。
 琴線に触れた千坂太郎左衛門は、会津藩軍事奉行/佐川官兵衛や長岡藩家老/河井継之助に示している。
 ▲(米沢市金池4-3730-1  公園の中央奥)

憂国志士・雲井龍雄遺跡碑

 雲井龍雄は、18歳で叔父の米沢藩士/小島才助の養子となり、この地/舘山口町に移り住んだ。
 20歳の時、儀父/才助が病死したため、家督を継ぐ。
 昭和13(1938)年、真の憂国志士であった雲井龍雄を顕彰するために、小島家の跡地に碑が建立された。

 ▲(米沢市城西1-6-12)


三烈士の墓

 幕臣旗本/天野豊三郎、佐藤桃太郎 (庄内生まれ・19歳)、関口宥之助の3名は、伊庭八郎率いる遊撃隊に所属し転戦。
 各地で長賊らと戦い鶴岡に至ったが、すでに庄内藩は謝罪降伏を決していた。
 庄内藩から降伏するよう勧められたが、極悪非道を繰り返すに降伏などできないと拒否し、潜伏していた林高院で捕えられても義を通し自説を曲げず、明治2(1869)年4月21日に松山藩/酒田刑場で斬首された。
 酒田刑場での最後の処刑だった。


三烈士の碑 (林高院)

 首が埋葬。
 食事の世話などで義を貫き通す3人に尊崇していた地元の豪農/三浦半三郎は、酒田で処刑されたとの報を聞き、周りの反対を押し切って夜陰に乗じて妙法寺境内に忍び込み、3名の首級を奪回して林高院に埋葬した。
 ホタルを捕えて磁石の針を照らしながら進み、場所を探し当て、土を掘り起こし首を袋に入れ、遺骸を元の土中に埋め終わったのが夜明け寸前だったと云う。
 明治3(1870)年3月21日、墓碑を建立。
 毎年、命日の4月21日に供養を欠かさなかったという。
 ▲(鶴岡市八ツ興屋字土谷俣7 Tel. 0235-22-5903)


三烈士の碑 (妙法寺公園)


 胴体が妙法寺に埋葬されている。

 ▲(酒田市相生町2-3-73)


髭髪(しゅはつ)碑 (林昌寺)

 処刑前に三烈士が宿主/九郎右衛門は、義を貫き通した若い幕臣に心酔し、預かった遺髪を林昌寺境内に埋めて碑を建立。
 墓域ではなく、高台にある鐘楼の脇にある。
 ▲(酒田市南千日町4-8
     Tel. 0234-22-2986)

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