門前の駐車スペースに停める。
見上げると、石段の先に総門が見える。
石段の途中に、芭蕉が山中温泉で詠んだ句碑がある。
「山中や菊はたおらぬ温泉のにほひ」
弘化2(1835)年、建立。
“温泉つながり”?
午前6時に開門され、午後5時に閉門される。
この総門は南北朝時代の永和元年 (一三七五) 曹洞宗の源翁禅師開山になる名刹本山示現寺の玄関に当り、華麗な彫刻はないが安土桃山時代の作風を汲む豪壮清楚な四脚門は江戸時代寛保年間 (一七四一) 以後の建立である。
中央上を仰げば頭貫上に、「第一義」の扁額があり、曹洞宗の根本、只ひちすらに座禅をなし悟りの道を得る「只管打坐」を意味する。
構造を見ると一門一戸、梁間二間、瓦葺の円柱四脚門である。 中央左右に立つ二本の本柱は扇筋の柱といい、前後に二本ずつの控柱を備え、自然石の礎石の上に礎盤をあしらう柱が立つ、重厚な頭貫、組物、龍を彫る蟇股二段垂木の美しさ、側面から見ると切妻の破風板は二重破風を表現し、中央に拝懸魚、その下に左右の降懸魚、内部に大紅梁、大瓶束などが見え、総欅製のこの山門は会津における近世建築の代表的なものとなっている。
熱塩加納村教育委員会 .
左手に祠が2か所、その次に新しい観音像がある。
∴
観音像の後ろに、会津三十三観音の一つである観音堂がある。
地蔵や、石造りの小さな祠も。
掃除小僧
右手に、新しい掃除小僧の像がある。 お顔は、幼くない。
釈迦の弟子の中で最も頭が悪い/注荼半諾迦 (小路) がモデルといわれ、「愚路」と陰口をたたかれていた。
他の弟子や兄/マハー・パンタカ (大路) と違い、学問や知識だけに頼らず、毎日掃除に専念し継続することによって釈迦の教えを会得し、遂に十六羅漢の1人に選ばれるまでなった。
「天地人の中心で愛を叫ぶウォーク 愛 直進」
の看板に誘われて、本堂から庫裏への渡り廊下を横切って進む。
手書きの案内板が見える。
開山堂
石段を登った正面、白亜の建物は源翁禅師の遺物が納められています。
座禅石 (殺生石) →
当寺、開山の源翁禅師は那須で殺生石に九尾の狐をあやめた有名な伝説があります。・・・・禅師は、この石に座して水に写る自分の顔をスケッチし、自像を刻んだと云われ、その木像は開山堂に安置されてあり、毎年五月六・七日の開山忌に本堂に移して盛大に供養が行われます。
「天地人の中心で愛を叫ぶウォーク」は、開山堂の裏へと向かっており、さらに背後の五峰山の頂上まで約20分程度の山道が続いている。 途中の道端には三十三観音の石仏があるのだが、今では枯草に包まれてお休みになっている。
これより険しい山道となります。
登山における事故については、一切責任を負えません。
自己責任においてお登り下さい。
今回はウォーキングでないので、石段を下り本堂の方に戻る。
昭和7(1932)年に建立 (雨宮次郎/作) されたが、戦争で供出。
昭和30(1955)年、再建。
佐藤恒三/作。
《横山信六君之墓
. 》 《三浦文次君之墓
. 》 《原利八君之墓
. 》
明治17(1884)年、栃木県令に転出した極悪人/三島通庸らへの暗殺未遂事件のこと。
爆殺するための爆薬が、製造中に誤爆したため計画が発覚し、茨城県の加波山山頂付近に立てこもった。 自由民権運動の拡大を恐れた政府は、300人に及ぶ逮捕者を強盗などの冤罪で裁き、7人に死刑を宣告した。
名誉が回復したのは明治43(1910)年で、26年を要した。
横山信六と三浦文治の墓は、東京/谷中霊園にある。
明治15(1882)年に、県令の極悪人/三島通庸の横暴さに耐えかねた農民千数百人が喜多方警察署に押し寄せた喜多方事件(弾正ヶ原事件)が起きている。
駐車場へもどる。
門前は温泉街であるが、向かいに足湯がある。
ゆとりがあれば、温泉神社の大杉を見に行こう。
温泉街から神社へ入る道の角に、パイプで引かれた水が、鼓動を打っているように流れ出ている。
子供の頃は「小峯神社」だったと記憶しているが、別の神社だったのか?
温泉街を抜ける辺りにある。
ここに祀られてある神さまは「耳の神様」で 通称「ツンボの神様」と呼ばれていました。 三本の大木の根元が空洞になっており 人間の耳の穴を連想して、ここに昔の人は神様をお祀りしたのです。 現在 大木は栃の木 一本だけです。
昔は カエデ (目薬の木)、センの木の大木もありましたが、通行に被害をおよぼす恐れがありましたので 二本は切られてしまいました。
この神について物語が村人たちに語り継がれています。 つんぼは方言で耳の聞こえない人のことです。 神は大きな栃の木の根穴を祠にして、祀られています。 昔 洞窟のようなところを耳の悪い乙女が毎日 手を合わせて行き来していると、いつしか乙女の耳が聞こえるようになりました。 その後 耳の神として 方言でツンボの神様といわれたのでしょう。
また、根穴の中に沢山のお椀が飾ってあります。 横から見たお椀が耳の形に似ていることから、お椀の底に穴を開け耳の通りや耳の病気が良くなるように奉納されたものです。
このような昔ながらの民間信仰が医学の発達した現在もあります。