▲(会津若松市栄町2-12
Tel. 0242-22-2993 <旧/興徳寺前通>)
鶴ヶ城から 870m
七日町などの散策の際は、ぜひ、お立ち寄りを。
蒲生氏郷公などの歴史ファンだけでなく、
福満虚空蔵堂で“商売繁盛”の御利益を授かるのも良し。
野口英世青春広場や野口英世青春館から300メートルほど。
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平成25(2013)年9月23日、境内の入口に再建された。 かつて、身体の良くないところと同じ部分をさすると、その痛みを和らげてくれたと云う。 その御利益を求めて参拝者が絶えず、さすられたり削られたりして擦り減ってしまい、ついに姿形がなくなったと伝えられている。 |
弘安10(1287)年、蘆名泰盛公が創建し、中国/四川から招聘した大円禅師 (
鏡堂覚円) が開山。
会津に初めて臨済宗が伝わる。
瑞雲山
応永24(1417)年には、関東天下十刹と称される名刹となる。
蒲生氏郷公の墓がある寺として、全国的にも知られている。
「蒲生氏郷公の墓」については、こちら。
天正17(1589)年、蘆名氏を破った伊達政宗公が、仮館に使っている。
天正18(1590)年、奥州仕置で会津に来た秀吉も御座所として使った。
秀吉が訪れた北限の この地で「奥州仕置」「太閤検地令」が発せられ、4日間の滞在中に天下統一が完了した。
玄関前に、石柱「豊臣秀吉公當寺滞在中書刻碑」がある。
慶長12(1607)年、朝廷より「紫衣」が贈られている。
後も、郭内にある唯一の寺社として、幕末まで 200石・土地1万坪が与えられていた。
戌辰の役で、に寺宝・什物は略奪され、堂宇すべても焼き払われたため、昔日の面影はない。
明治4(1871)年の社寺上知令により、境内も縮小させられる。
明治10(1877)年、鶴ヶ城の古材を使用して仮本堂を建立。
昭和20(1945)年、都市計画により墓域一帯に神明通りが開通、墓域は整理・移葬された。
昭和29(1954)年、蒲生氏郷公の歌碑が建立、除幕式。
現在の鉄筋コンクリートの本堂は、昭和39(1964)年に再建したもの。
令和4(2022)年、山門が再建。
町廻り三十三観音/第一番」の札所。
現在は、「第十番 馬場名子屋町 観音堂」の札所も管轄しているとのこと。
境内には、「第八番 福分地蔵尊」が安置されている。
戊辰の役の際にも、石仏のためによる焼き打ちや分捕り争いの難から逃れた。
室町時代に製作されたと云われる。
1メートルほどの安山岩の大きい石に、素朴な線で描かれている。
上部に、阿弥陀如来を象徴する一音節 (一文字) の種子がある。
現在の会津若松の基礎をき築いた藩主の1人。
天正18(1590)年、小田原討伐の功により豊臣秀吉より会津拝領となる。
黒川城を改築し、「鶴ヶ城」に改称した。
地名も「若松」と改め、新しい町造りを行った。
漆器の会津塗、焼き物の本郷焼などの産業を興している。
茶の道では、利休七哲の一人。
京都/伏見の屋敷で急死したため、能力を恐れた秀吉が毒殺したとの説もある。
弘治2(1556)年〜文禄4(1595)年、享年40歳であった。
墓の五輪塔は子の蒲生秀行公が建立、「空・風・火・水・地」の5文字が刻まれている。
遺髪のほか、京都/大徳寺黄梅院の墓から分骨されているとも。
略歴については、こちら。
供養顕彰 七層天守墓の説明板 |
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氏郷公/辞世の句 限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心 みじかき 春の山風 蒲生氏郷顕彰碑 |
松平容保の歌碑 文禄元(1592)年、蒲生氏郷公が町割りを始め、城下町建設に着手した。 300年後の明治24(1891)年6月、「若松開市三百年祭」に寄せた祝歌。 百年 さとはいくちよ 栄え行らん |
氏郷公の父/賢秀の墓は恵倫寺、嫡子/秀行公は弘真院、孫/忠郷公は高厳寺裏手にある。
祖母方の「池上家累代之墓」。
高祖父/池上武輔は、会津藩士、郡奉行、第二遊撃隊の組頭として奮戦。
曾祖父/池上四郎は武輔の4男で、第6代/大阪市市長となり、3期10年間を務め大阪の発展に貢献。 ここに合祀。
曽祖伯父/池上友次郎は、慶応4(1868)年1月5日に淀で戦死。 善龍寺に墓、黒谷に慰霊碑がある。
曽祖伯父/池上三郎は、武輔の長男、中軍護衛隊で籠城戦を戦う。
後に函館控訴院検事長。
野口英世の初恋の人。
会陽医院で書生 (薬学生) をしていた時代に、洗礼を受けたカトリック教会で出会い、一目ぼれをする。
しかし、医師免許を取得した山内ヨネは会津若松の医師/森川俊夫と結婚して開業、初恋は成就しなかった。
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戦国時代には九州北西部の覇者であった龍造寺氏の末裔。
名 : 季明。 通称 : 山城守。 法名 : 伯庵季明。
龍造寺高房の庶子/伯庵は、寛永7(1630)年に僧籍 (宝琳院) から還俗して龍造寺季明と改名し、一族の江上勝種(胤勝)らと共に鍋島藩領は一族の領土であると徳川家光へ再三 訴えたが却下され、勝種と共に会津藩預りとなった。
寛文6(1666)年5月12日、夢叶わず死去 (63歳)。 「冷光院殿天外月潭居士」
伯庵の墓と並んでいる1基は江上勝種の墓だが、碑には「両脇侍殉死之墓」と記載。
伯庵と勝種の子孫は、幕末まで会津藩に仕えている。
青木作左衛門 | 原田種次 | 坂内慎一郎 |
泰助の伜。
進撃隊/小室隊。幌役。
慶応4(1868)年8月29日、長命寺裏で戦死。
27歳。
与力。
慶応4(1868)年6月23日、越後/島崎 (中島村) で戦死。
25歳。
「有無庵宗因家之墓」
池上四郎
「池上家累代之墓」に合葬。
籠城戦で弾の飛び交う中、仲間たちと唐人凧を揚げて、藩士たちの士気を鼓舞した逸話がある (12歳)。
斗南藩を経て、大正2(1913)年に大阪市長に就任、5代までの市長が任期途中で辞任している情勢下で、3期10年間の満期を務める。
水道事業・大阪港の建設など大阪を近代都市へと導いた。
博物館や図書館などの教育施設や、病院の整備など、社会福祉の充実にも力を注いだいる。
文仁親王妃紀子様は、曾孫。
秋月登之助
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本名は、江上太郎種明。
会津藩士ながら幕府軍/伝習第一大隊長となり、各地で奮戦。
新撰組副長/土方歳三は、配下として隊の参謀役を務めた。
母成峠で奮戦したとも、が城下に乱入した際に婦女子たちを城内に誘導してから馬に乗って敵兵に打って出たとも言われているが、その後の消息は不明。 墓誌には「明治十八年一月六日 行年四十四才」とある。
「大心院義翁宗鉄居士」。
墓は、秋月家・原田家・三原家を昭和48(1973)年に合祀したもの。