平成25(2013)年9月7日、建立 (除幕式、橋本堅太郎作)。
山本 (新島) 八重の略歴は、こちら。
山本八重ゆかりの場所案内
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明日の夜は 何国の誰か ながむらん なれし御城
に 残す月影
御手植の松
昭和51(1976)年、建立。
碑石は群馬県赤城山産の小松石で、高さ3.5メートル (台石を含む)、幅1.5メートルほど。
万葉歌碑としては、日本最大級。
平成25(2013)年11月2日、建立 (除幕式)。
「会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。」
平成17(2005)年11月23日、建立。
本丸にある歌碑は、昭和21(1946)年に晩翠が「荒城の月」のモデルは鶴ヶ城であると初めて明かしたため、急きょ設置の計画が持ち上がった。
翌年の昭和22(1947)年6月5日、晩翠夫婦も列席して除幕式が執り行われた。
戊辰の役の時、西軍への使者の任務を終えた心境を詠んだ詩。
名:秋月胤永、
通称=悌次郎。
会津藩/公用人。
戊辰の役では軍事奉行添役 (副奉行)、戦後は教育者として活躍。
新政府からの招聘を受け、東京大学予備門や、第一高等中学校(東京大学)などの教諭を歴任し、第五高等中学校(熊本大学)の教授 (漢文・倫理) 時代の同僚には夏目漱石、小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン) がいる。
特に、小泉八雲には父の様に慕われて「神のような人」と称賛されていた。
平成25(2013)年、「北越潜行之詩」を詠んだ束松峠の地にも歌碑が建立された。
昭和40(1965)年、三の丸跡に建立。
昭和59(1984)年、県立博物館建設のため、
陸上競技場裏・文化センター前に移す。
珍しいジュラルミン製の碑。
西郷四郎については、こちら。
令和元(2019)年9月23、戊辰の役の真実を未来永劫に語り継ぎ、正しい歴史を全国的に認知・公知されるべく建立された。
平成30(2018)年9月22日、會津風雅堂前で除幕式が催された。
ドイツ人捕虜の板東俘虜収容所/所長に就任した松江豊寿は、長賊らが跋扈する陸軍省上層部の意向に反しても
「彼らは祖国のために戦った愛国者であって決して犯罪者ではない」
との意思は変えなかった。
叱責されても「武士の情け」を繰り返し、人道的な処遇を貫き通した。
大正7(1918)年、感謝された松江に贈られたものは、俘虜たちによる日本で初めての「ベートーベン/第9交響曲」全曲演奏であった。
今や年末恒例となった演奏の始まり100周年を記念して建立された。
▲(会津若松市城東町12-1)
松江豊寿については、こちら。
良く質問されるのが、会津松平家の祖/保科正之公が将軍/秀忠の次男で、家康の孫なのに東照宮はないのか、と。
正之公が入府の時代には、すでに存在していた。