駐車スペースは、5〜6台の大きさ。
観光シーズン時は、380メートルほど離れた市営駐車場へ。
飯盛山入口下にあり、もちろん無料。
以下の緑色の文は、現地の 「説明板」 から
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり
藩主が出入りする門。
普段は、閉じられている。
客人などが出入りする門。
夜明けと共に開かれ、日没と共に閉じられる。
旧滝沢本陣は、江戸への主要な街道であった旧白河街道筋に位置し会津藩主参勤の滝沢峠越えに備えられ、延宝年間 (一六七三〜一六八〇) に滝沢組郷頭であった横山家に設けられた。
以後、歴代藩主の参勤交代、領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社への参詣に際し、休息所として使用されてきた。
戊辰の役のときは、本営となり、慶応四年 (一八六八) 八月二十二日、藩主松平容保が白虎隊士中二番隊に、敵を迎え撃つべく戸ノ口原への出陣を命じたところでもある。
平成十六年三月
参観料を支払う受付所は、一般の住宅。
誰もおらず、赤い矢印の付いた手書きの紙が貼ってあった。
受付不在の時には、玄関のベルを押してください。
拝観入口には、皇室の御来臨についての案内板が置かれている。
御小休
有栖川熾仁親王殿下御来臨 明治十四年十月
三笠宮崇仁親王殿下御来臨 昭和四十七年七月
秩父宮勢津子妃殿下御来臨 昭和五十三年六月
中に入ると、案内の音声テープがエンドレスで流れている。
「にわ」とは、屋内にある床のない土間のこと。
作業場でもある。
「庭の続き」という意味から呼ばれている農家の言葉。
当時の暮らしに使われていた農具が、所狭しと展示されている。
大かまど、唐箕(とうみ)、田の草取機"ころばし"、八貫目30kg炭俵(楢炭)、醤油しぼり等の石臼が数種類、馬具など。
なぜか、"北海道そり"もある。
囲炉裏のある茶の間、居間のことで、板張り。
「御前」から生まれた言葉といわれている。
「にわ」との間には、仕切りがある。
当時の食器や酒壷などの日用品も展示。
北と南側に窓が設けられ、光が入るようになっている。
北側の窓からは、中庭らしき空間も見える。
季節の衣類や、日常使わない物をしまっておく物置部屋。
寝室にも使われた。
本陣になってからは、御膳仕立之間になった。
本陣用の食器類や古文書などの史料が、ガラスケースに入って展示されている。
本陣になってから、三之間となった。
当時の家具や日用品などが展示。
畳敷きであるが狭く、御次之間への通路の感あり。
左右は障子戸で、やわらかい外の光が差し込んでいる。
戊辰戦争弾痕
慶応四年八月二十三日
畳廊下の両側の仕切り障子腰板や柱には、無数の貫通痕が残っている。
弾道から見ると、本陣の正面からの銃撃である。
9センチ角の柱をも貫通しており、当時の戦闘の激しさを物語っている。
穴の大きさが、様々に違う。
使用されていた銃が、まちまちだったことが分かる。
米国/南北戦争は、銃器が飛躍的に改良された戦争だった。
たまたま終結直後だったため、武器商人たちは不要になった銃器を東西両軍に売り込んだ。
両軍合わせて、30種類もの銃があったという。
歴代藩主ご使用の御湯殿。
その奥に、御厠がある。
会津を愛した手塚治虫は、会津を題材にした作品を数多く描いている。
それらについて、説明している真新しい案内板があった。
名子とは、本百姓の指示で労働に従う身分の低い農民のこと。
屋敷外に住む者もいたが、ほとんどは本百姓の屋敷内に住んでいた。
本来の使用目的は、土津神社祭礼や領内巡視の際に休息するための本陣であった。
天和3(1683)年に発生した地震による山崩れのため、参勤交代で通る下野街道が不通となり、白河街道に変更された。
その際でも、江戸へ向かう旅装を整える場所であって、砦などの軍事施設ではなかった。
他の藩主が訪れる際、服装の着替えなどにも使っていた。
文化財と聞くと、荘厳な建築物をイメージするが、普通の民家、むしろ雪国としては小さめである。
大軍による攻撃にも耐え抜いた鶴ヶ城と比較しても、余りにも普通の建物である。
それだけ平和だったことが偲ばれる。
その平和は、戊辰の役で様変わりする。
母成が破れたとの報により、この本陣に藩主/容保が出向き、指揮を取ることになる。
主力部隊は、日光口や越後口などの守備に就いており、鶴ヶ城には老人と少年だけだった。
そのため藩主警護のために同行したのが、白虎隊士中二番隊である。
頼みとした十六橋までも突破されるとの悲報に至り、やむなく隊士にも出陣命令が出されたのである。
主戦場の戸ノ口原は10キロほど先だったのに、皮肉にも自刃した地は、初陣の命を受けたこの本陣から、直線距離にして300メートルしか離れていない。
歴史の1コマを想い浮かべて訪れれば、東北地方で1番古い農家も、建物とは別の顔を見せてくれるはず。