開城が決まった。
鳥羽・伏見の戦いから、戦死者は3千人を超え、城下の4分の3は焼け野原となり、戦いは終わろうとしている。
「毎日毎日と暮す内に廿日頃にも相成り、鉄砲の音も薄く相成り、穏かになり候ても、案じられ候事に候。それより廿日夜と覚え候。内々御城内何やらどよめきわたり、いか様の事に是あるやと承り候へば、御降伏にも相成り候や、風説もこれあり、いよいよ右御都合にて米沢藩取扱いの由承り候。九月廿一日、矢玉止めに相成る」 |
家老/田中土佐 (玄清)、家老/神保内蔵助 (利孝) など多くの重臣も失っていた。
(最高責任者である筆頭家老/西郷頼母は、行方不明)
萱野権兵衛 | 梶原平馬 | 内藤助右衛門 | 原田対馬 |
山川大蔵 | 竹村助兵衛 | 辰野源之丞 | 野口九郎太夫 |
桃沢彦次郎 | 吉川尚記 | 騎西信蔵 | 秋月悌次郎 |
中村三郎左衛門 | 海老名郡治 | 井深茂(宅?)右衛門 | 田中源之進 |
倉沢右兵衛 | 手代木直右衛門 | 清水作右衛門 | 春日郡吾 |
小森駿馬 | 黒河内一八 | 筒井茂助 | 水島弁治 |
小出鐡之助 | 大江利右衛門 | 小森一貫斎 | 黒河内傳八 |
神尾織部 | 井深守之進 | 黒河内秀之丞 | 飯田左門 |
中山甚之助 | 村岡友之進 | 服部錠次郎 | 林房之助 |
堀悌助 | 小池帯刀 | ・ ・ |
士官 | 131人 |
文官 | 68人 |
士中隊 | 764人 |
寄合足軽隊 | 1,609人 |
器械方 | 15人 |
徴募兵 | 646人 |
脱走兵 (幕臣・他藩) | 462人 |
鳶職 | 20人 |
従僕 | 42人 |
負傷者・病人 | 570人 |
老人 | 242人 |
奥女中 | 64人 |
婦女子 | 575人 |
下女 | 27人 |
合 計 | 5,235人 |
大砲 | 51門 |
小銃 | 2,845挺 |
やり | 1,320本 |
長刀・薙刀 | 81振 |
胴乱 | 18箱 |
小銃弾薬 | 230,000発 |
※ 対する長賊らの総数は、10万人とも、7万5千人とも、の大軍に達していた。
松平容保・喜徳公が先立ち、やや遅れて照姫も僅かな侍臣とともに妙国寺へ、城内の藩士は猪苗代、老人や婦女子は北方、城外の藩士は塩川村へ幽閉 (謹慎) された。
負傷者と病人は、小田山/御山村の病院に指定された農家に、老人・子供・婦人など区分など無く、家畜のように詰め込まれた。
開城後も長賊らの駐屯兵が暴漢に襲われる事件が絶えず、会津藩領の状況に無知であり、駐屯兵の減少と相まって占領を続けていくことに不安を感じていた。
重臣たちは高須藩・熊本藩・佐倉藩・古河藩・飯野藩に数名ずつ分散して幽閉し、藩士たちは信州/松代藩 ・ と越後/高田藩 ・ 蝦夷/石狩国 (流刑/190余名) へ移されることになった (護送の途中に松代藩での収容は無理と判明し東京での幽閉 (謹慎) に変更)。
残留者 (居残り組)
治安維持や護送を無事に済ませるため、一部の屈強な藩士を地元に残留させ、取締の補助者に任命した。 幽閉 (謹慎) の待遇が変わったわけではなく、外出は禁止され、役目で出るときは看守人が付き、後には御山村の病院に収容された者の移送手続きの役目も加わっている。
当初の12月21日付では、原田対馬・町野源之助・中山又右衛門・樋口源介・吉川尚記・田中左内・中山甚之助・林房之助・山内清之助の9名だったが、最終的に下記20名となる。
原田対馬 | 樋口光 (源介) |
中山甚之助 (長之助) |
宮原捨六 |
出羽佐太郎 |
大庭恭平 | 山内清之助 |
中川清助 |
町野源之助 (主水) |
中山又右衛門 (又左衛門) |
高津仲三郎 | 筒井茂助 |
諏訪左内 | 青木早之助 (宇之助) |
小出勝右衛門 (勝左衛門) |
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(若干名) . | 伴百悦 | 武田源蔵 (源三) |
田中左内 |
吉川尚喜 |
林房之助 |
肝煎/吉田宅に入った町野主水は、自刃した白虎隊士の遺体を妙国寺などに埋葬したため捕縛され、遺体を元の場所に戻さざるを得なかったことなどを知る。
※ 年が明けた正月早々から護送が開始されたが、幽閉所 (謹慎所) での待遇、そして斗南藩への流刑など仕打ちの謀略は知る由もなかった。
《 例 話 》