開城後の藩士は、全員が謹慎 (幽閉) されており贋金づくりなど出来るはずもなく、意図的に嘘偽り話を流布する長賊らは、それすら理解できないレベルなのであろう。 そもそも軍費調達のために贋金づくりをしていた主な藩は、 「薩摩藩、水戸藩、久留米藩、福岡藩、長賊、加賀藩、安芸藩、土佐藩、仙台藩、久保田藩、盛岡藩など」 で、寺社の鐘でさえ偽金づくりの材料とした薩摩藩は今の貨幣価値で750億円を超えていたと云う。 明治政府が太政官札など金札と正金の対価を明示し、贋金の製造と流通を禁止したのは、明治2(1869)年2月になってからであり、濡れ衣を着せての虐殺行為なのである。 徳川幕府は、成立時から経済を混乱させる贋金に、最大の注意・監視をしている。 藩内で流通する藩札を審査の上、認可することがあっても、主に庶民が日常的に使用する貨幣/銭貨の鋳造は贋金づくりに繋がるとして、ほとんど認めていない。 会津藩には、京都守護職就任の際に費用調達として幕府が特別の認可を下した。 文久3(1863)年〜慶応3(1867)年、江戸深川下屋敷と鶴ヶ城/西出丸の蝋蔵で鋳造している。 「城中西出丸に鋳造所を設け、該金工等をして二分金及び、其(そ)の他を鋳造せしめ、其の鋳造高の二分の一を上納せしめたるが、上納額六十萬両に達し、大に守城前後の金融を圓滑ならしむることを得たり」 |
馬場佐兵衛 | 62歳 | 河原田精神隊 | 9月23日、南山口で死 |
佐兵衛 | 宮床村の農民 軍夫 | 9月23日、南山口で戦死 | |
島影民蔵 | 9月23日、自刃 (殺害?) 本光寺 |
石川吉四郎 | 21歳 | 河原田精神隊 | 9月24日、伊北で負傷し病院で死去 |
大島音之助 | 蔵入役人 | 9月24日、南山大芦で戦死 | |
乙之助 | |||
喜三郎 | 川口村の農民 組頭 | ||
角田五三郎 | 23歳 | 助次郎の伜 朱雀士中三番小野田隊 | 9月24日、大芦村屋敷原で戦死 大芦 |
野村新平 | 25歳 | 朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭 | 9月24日、大芦村矢ノ原で戦死 矢ノ原 大芦 大窪山 |
佐藤音之助 | 朱雀寄合三番隊道案内兼斥候 | 9月24日、下中津川で戦死 大芦 | |
渡部長吉 | 35歳 | 大砲一番鈴木隊付 足軽 | 9月24日、南山滝原で戦死 |
向山利信 | 9月24日、戦死 大窪山 |
鈴木いち | 46歳 | 八郎の妻 | 9月27日、河沼郡東原で自刃 |
北村直衛 | 49歳 | 遊撃小山田隊頭大目 (組頭) | 9月27日に青木病院で死去 建福寺 |
渡部喜平 | 53歳 | 高田代官所帳付 | 9月28日、高田上野で戦死 |
横田左馬之助 | 29歳 | 山内大学の家来 | 10月3日、野尻で死 |
善蔵(横田俊憲) | 山内大学の家来 | 10月3日、野尻で虐殺 横田 | |
飯沼粂之進一孝 | 69歳 | 65歳とも 飯盛山で蘇生した定吉の祖父 | 10月3日、御山病院で死去 (籠城戦で負傷) |
阿久津安之助 | 今市/瀬尾村の村人 徴用兵 | 10月5日、会津で戦死 (虐殺か) 明静寺 |
河村謙益の妻 | 高知氏 | 10月6日、子/季四郎を見失い自殺 墓地 | |
間瀬岩五郎の妹 | 19歳 | 10月6日、御山で死 | |
間瀬ユウ |
武川三彦 | 24歳 | 内藤介右衛門の弟 | 10月9日 江戸/小塚原処刑場で 苛烈な拷問の上、処刑 泰雲寺 |
諏訪部信五郎 | 19歳 | 幕府軍に参加/砲兵隊差図役 | 10月24日、七重村で負傷し、 11月22日に箱館病院で死去 実行寺 |
押田鉄太郎 | 23歳 | 弁治の嫡孫 朱雀寄合四番山田隊 | 10月11日、大豆田で死 |
安藤孫市 | 57歳 | 徒士 | 10月、院内で戦死 |
篠田兵庫 | 45歳 | 奏者番・小隊頭 篠田儀三郎の父 | 10月、香塩村で戦死 (惨殺とも) |
鈴木平七 | 42歳 | 平吉とも 清吉の弟 | 戦傷のため、11月2日に雨屋で死去 |
赤羽音吉 | 26歳 | 回天隊幕臣/浅倉早之助隊 | 11月5日、蝦夷/福山城内で戦死 法華寺 |
田口治八 | 60歳 | 御用所密事頭取・国産奉行 江戸残留組 |
9月12日に捕えられ 11月24日に釈放の形をとって毒殺 (拷問中に虐殺死とも、11月15日とも) |
小池帯刀 | 48歳 | 工兵隊頭 | 11月、七日町で死 |
高木十郎 | 明治2年4月11日、東軍の箱館渡航を手助けしたとして、仙台で斬殺され、晒し首 |
下司伊兵衛 | 42歳 | 明治2年4月12日、謹慎地/高田で死去 建福寺 |
大庭久輔 | 24歳 | 回天隊幕臣/浅倉早之助隊 | 明治2年4月20日、病気で戦えなくなり 蝦夷/福山で自刃 法華寺 |
関清輔 | 守衛新選組土方付属/陸軍奉行添役介 | 明治2年4月20日、傷の療養中で戦えず 大庭と共に自刃 法華寺 |
安部井政治 | 34歳 | 仲八の養子 会津遊撃隊/差図役 | 明治2年4月29日、蝦夷/矢不来で戦死 |
坂綱 | 会津遊撃隊/差図役 | ||
里見重吉 | 会津遊撃隊 | ||
三瓶 | |||
野村源六 | 33歳 | 会津遊撃隊/調方・軍事方 | |
林勝五郎 | 会津遊撃隊/差図役 | ||
松川信平 | 会津遊撃隊 | ||
吉沢才五郎 | 会津遊撃隊/調方 | ||
古沢友三郎 | 会津遊撃隊 | ||
渡部勝助 | 会津遊撃隊/嚮導 | ||
斎藤主税 | 会津遊撃隊/嚮導役 元/幕臣 | ||
渡部庄蔵 | 24歳 | 会津遊撃隊/嚮導役 元/幕臣 | |
並川亨 | 会津遊撃隊/差図役並 | 4月29日、松前/矢不来で戦死 5月15日に降伏 (彦根藩へ幽閉) とも | |
諏訪常吉 | 37歳 | 公用人 会津遊撃隊/隊長 | 明治2年4月29日、蝦夷/福山で負傷し 5月16日に箱館病院で死去 実行寺 円通寺 |
成瀬金之丞 | 会津遊撃隊 | 明治2年4月29日、蝦夷/福山で負傷し 後に治療中の病院でに惨殺される |
佐生作左衛門 | 遊撃隊 | 明治2年4月、蝦夷/江差で戦死 |
重条幸吉 | 会津遊撃隊 | 明治2年5月11日、蝦夷/亀田で戦死 | |
木下見蔵 | 函館病院調役 会津遊撃隊 | 明治2年5月11日、蝦夷/高竜寺分院で斬殺 | |
松田介一 | 24歳 | 大砲教示方 | 明治2年5月16日、蝦夷/函館で戦死 |
松田介一 | 24歳 | 大砲教示方 | 明治2年5月16日、蝦夷/函館で戦死 |
萱野 |
40歳 | 家老 | 明治2年5月18日、東京/飯野藩邸で切腹 興禅寺 天寧寺 殉節碑 遥拝碑 |
能見伝治 | 武之助の弟 鉄治の養子 | 明治2年5月24日、東京/浅草見附で捕殺 |
斎藤豊之進 | 衝鋒隊指図役 | 明治2年5月、蝦夷/松前で戦死 |
熊見武一郎 | 斗南藩士 雲井竜雄党 | 明治3年12月28日、東京で斬死 | |
原直鉄 | 23歳 | 斗南藩士 雲井竜雄党 | |
簗瀬 | 26歳 | 斗南藩士 元会津藩側用人 雲井竜雄党 | |
加藤竹蔵 | 35歳 | 陸奥斗南藩卒 雲井竜雄党 | 5月、拷問で獄死 |
啓範 | 48歳 | 会津若松自在院僧 雲井竜雄党 |
伴百悦 | 44歳 | 佐太郎の長男 | 明治3年6月22日、占領高官を斬殺し 越後/新津大安寺村で自刃 慶雲庵 善龍寺 束松 |
田辺軍次 | 21歳 | 副総督/横山主税の近習 | 明治3年7月、白河で裏切り者を斬殺し その場で自刃 松並 |
郡 長正 | 16歳 | 家老/萱野権兵衛長修の次男 | 明治4年5月1日、会津武士の名誉を護り切腹 天寧寺 |
板井義清 | 37歳 | 大法寺住職 | 明治4年7月10日、捕縛後に斬首 |
内村直義 | 37歳 | 植木口警視隊一番小隊半隊長 | 明治10年3月15日、熊本/田原坂で戦死 谷中霊園 |
佐川官兵衛 | 47歳 | 豊後口第二号警視隊 /副指揮長兼一番小隊長 | 明治10年3月18日、熊本/阿蘇郡で戦死 長福寺 顕彰碑 |
赤羽真忠 | 25歳 | 第二号警視隊一番小隊 | 明治10年3月23日、熊本/立神山の戦い で負傷し、4月14日に死去 |
石井留吉 | 27歳 | 第二号警視隊一番小隊 | 明治10年4月6日、熊本/平野畠で負傷し 4月15日に死去 |
五十嵐貞松 | 31歳 | 別働第三旅団新徴募六番小隊 耶麻郡の農民 | 明治10年5月11日、熊本/高岳山で負傷 6月18日に死去 |
伊藤清次 | 津川の人 陸軍兵卒 | 明治10年、戦死 | |
牛来定綱 | 別働第三旅団徴募七番小隊 | 明治10年7月8日、鹿児島/噌唹郡で負傷 8月4日に死去 | |
小川勝次郎 | 22歳 | 京町口で負傷し3月20日に病院で死去 | |
河野通信 | 20歳 | 警視第三号四番小隊 | 明治10年3月21日、熊本/鏡村で負傷 4月16日に死去 |
神田豊治 | 21歳 | 警視第三番小隊 | 明治10年3月28日、熊本/木留で負傷 4月13日に死去 |
神田藤頼 | 30歳 | 別働第三旅団徴募一番小隊 | 明治10年5月12日、熊本/深渡瀬で負傷 5月31日に死 |
窪田重太 | 別働第三旅団第四大隊一中隊二小隊所属 | 5月18日、熊本/中尾山で戦死 愛宕神社 | |
小岩長七郎 | 27歳 | 別働第三旅団新徴募七番小隊 | 明治10年7月8日、鹿児島/萬田村で負傷し、 8月5日に死去 |
小島原新造 | 大沼郡の人 | 明治10年、戦死 | |
小平又作 | 39歳 | 警視二番小隊 | 明治10年3月24日、熊本/木留で負傷 4月6日に死去 |
斉藤源吾 | 33歳 | 別働第三旅団輜重隊警視一番小隊 | 明治10年、負傷し、9月15日に病死 |
越直晴 | 18歳 | 別働第三旅団第三大隊 | 明治10年、負傷し、8月13日に死去 |
半谷四郎 | 24歳 | 別働第三旅団新徴募六番小隊 | 明治10年6月7日 熊本/温嶽で負傷し、 6月17日に死去 |
樋口厳吾 | 19歳 | 警視第四番小隊 | 明治10年4月12日、熊本/植木で負傷 6月18日に死去 |
藤田正成 | 25歳 | 別働第三旅団警視隊 | 明治10年6月7日、戦死 |
雪下熊之助 | 海軍少尉補 | 明治10年3月21日、肥後/船津海岸で戦死 |
永岡久命 | 38歳 | 思案橋事件に関与し、明治10年1月12日、 鍛冶屋橋獄で拷問による獄死 大窪山 |
昭和61(1986)年、「もう120年も経ったので」と、長賊の末末から和解と友好都市締結を申し込んできた。
謝罪が無しである。 受け入れることなどできる事ではあるまい。
「まだ 120年しか 経っていない」 と、これを拒絶した。
全国的にも、大々的に報道された。
恥を掻いたと思ったようで、それ以降、得意の作り話による言い訳や、根拠のない誹謗中傷が始まった。
平成22(2010)年の悪意に満ちたTBS報道など、記憶に新しいであろう。
すぐにTBSは深く陳謝した。 編プロ (長賊の末末関連とのこと) から持ち込まれた欺瞞に満ちた“フェイクニュース”を、吟味せず放送させられてしまったようだ。
異郷/会津の地で眠る自軍の魂が、大いに傷付くとは考えないのであろうか。