明治元年九月 会津開城にともない 翌二年正月 降伏人千七百余人に高田藩にお預けの身となりましたが、厳冬の越後路を傷病のからだに鞭うっての長途の旅と、酷しい幽囚生活に苦しみ疲れ病死者続出し わずか一年余にして六十八名の人々が この地に葬られるに至りました 幕末、動乱の世にあたり 主家に殉じて勇戦空しく異郷に斃れましたことは、まことに痛恨の極みでありますが その名節に生きた高い志は 永く人の心に銘記されることでありましょう なお ここには他にその後 高田に在住された福島県人(旧会津藩関係)の墓が三十余基あります (注)明治元年(慶応四年)戊辰戦役 昭和五十七年五月
会津墓地管理者 .
上越市大町二丁目 田村堅幹 . |
塚原義則 | 明治己巳歳 正月廿五日 |
鵜飼五郎正孝 | 白虎寄合一番隊 明治己巳歳 十二月廿二日 |
大束親高 | 明治三年庚午年三月十六日 行年二十三歳 |
深田長兵衛重安 | 明治三年庚午年三月十日 |
秋月新六郎種輔 | 恭寛院○信敏居士 〜明治二年己巳十一月廿一日罹病卒〜 |
町田倹助盛直 | 明治二年己巳 十一月十六日 甼田彦太郎建之 |
吉村篤右衛門重乗 | 廣道院忠重日顯居士 明治二年年在己巳 十一月七日卒 |
林八彌 | 明治二己 十一月一日 |
五十嵐数馬 | 明治己巳歳 十月十五日 |
長尾久兵衛 | 明治己巳歳 十月三日 |
和田平吉 | 白虎寄合一番隊か? 明治己巳歳 九月晦日 |
大久保利信 | 明治二己巳歳 九月廿七日 |
森山五郎 | 明治己巳歳 九月十四日 |
兼子直記 | 明治己巳歳 九月八日 |
樋口留治郎 | 留四郎 常八の伜 朱雀寄合三番隊城取隊 明治己巳歳 清信院耀善信士 九月八日 |
三留又右衛門 | 明治己巳歳 八月廿六日 |
鈴木信吾 | |
宮下栄之進義照 | 斗南藩とある 究竟院義照等居士 明治三庚午歳 六月十二日 |
小瀧善吉成清 | 義孝院釋善淨居士 明治三年庚午 五月十五日 |
横山次郎輝壽 | 朱雀士中三番隊 明治三庚午年 四月二十五日 |
鈴木久馬 | 庚午四月廿二日 |
片岡長義 | 祐光院釋義秀居士 明治三庚午歳 四月廿日卒 |
富本八太郎豊保 | 明治己巳歳 四月八日 |
田嶋傳輔 | 明治二己巳歳 十一月十三日 義○院○○○信士 |
横山吉之助 | 明治二己巳歳 十二月十二日 |
竹山圓盛 | 明治三庚午歳 三月十五日 |
市野左源 | 奥州若松之産也 明治二巳年七月四日 越後高田○病死 |
下司三郎 | 明治己巳歳 六月晦日 |
小松悦之助 | 明治二己巳歳 六月廿六日 |
小田川平八 | |
金成源四郎義勝 | 明治己巳歳 五月廿二日 |
下司昌泰 | ○叙院○勵翼 明治二年己巳 四月十二日卒 |
松川小傳治 | 明治二己巳年 四月九日 |
荒木重義 | 通称:久米吉 小隊頭 無上院泰譽西向居士 〜四月二日病卒享年二十七〜 |
江川治郎八 | 珠量院釋信静居士 明治二己巳歳 二月十七日 |
橋本義久 | |
太田鐡之助 | 朱雀隊士中隊 明治己巳歳 七月廿七日 |
井口隼人 | 明治己巳歳 七月廿一日 |
大戸義直 | |
長谷川豊記 | 明治己巳歳 六月十九日 |
中井兼吉 | 明治己巳歳 六月六日 |
遠藤留弥直則 | 明治己巳歳 三月十四日 |
田中幾之助義遠 | 明治二年己巳 五月九日 |
佐藤源之助 | 明治己巳年 ○月四日 |
福田亥之松贇兼 | 通称:亥之助 明治己巳年 四月廿三日 |
小林橘蔵 | 義成院釋○月居士 明治己巳八月廿三日 |
鈴木伝次郎與清 | 明治己巳歳 八月十六日 |
河原田包彦 | 檜枝岐口を防備し、父/信盛と戸倉で西軍を挟み撃ちにし撃退 [略歴] 明治2(1869)年8月10日、謹慎地で死去 17歳 照国寺に慰霊碑 |
小室義光 | 通称:金重郎 明治二己巳〜八月五日病卒享年三十五 |
野田栄蔵亮貞 | 明治己巳歳 七月二日 |
藤田信忠 | 明治二年己巳 六月二十五日 |
阿妻重多秀重 | 郡役所 軍事方 42歳 明治二己巳年 六月廿二日 |
臼井喜代三郎 | 臼田とも読める 明治己巳歳 六月十八日 |
山口昌玄 | 明治二年己巳 六月十六日 |
目黒栄之助幸永 | 明治二己巳年六月十三日 |
増子清之助包孝 | 明治二己巳年 十一月六日 |
竹尾勝太政教 | 明治二年己巳 十一月七日 嶋影源八郎求温建之 |
吉川長太郎 | 明治二己巳歳 六月八日 |
藤森留四郎俊明 | 隨義院秀法信士 明治二己巳歳 十一月五日 別撰隊建之 |
小林幸之進 | 明治己巳歳 十月廿二日 |
遠藤良助 | 明治己巳歳 九月二日 |
菊地清之助 | 明治己巳歳 八月廿四日 |
鈴木長助耕雲 | 明治二己巳歳 八月十六日卒 |
平野代助 | 明治二己巳歳 四月十一日 |
安藤常次郎 | 明治二己巳年 六月晦日 |
篠嵜久八直長 | 斗南藩とある 明治四辛未年 正月三日 |
大竹倉治 | 征受院静譽晴雲居士 明治三庚午歳 |
舩尾宗蔵 | 船尾 杜剛院釋達忠居士 明治三庚午歳 五月三日卒 |
“義”を貫き、天皇と京都を全力で守り抜いた武士の墓にしては、小さいと思うのは考え過ぎだろうか。 戦いは終わっているのに、わずか1年ほどの間に70名もの武士が逝った。 約束した幽閉の費用も官賊は高田藩に支払わず、苦しい財政の中、高田藩として最善を尽くしてくれた。 「不気候ニテ脚気病或ハ腫病流行致シ、御人数ノ内七拾人余病死ス、病死ノ者 高田候ノ御取扱ヒハ士分は寝棺、以下ハ座棺、大亀谷狼谷ト云所ニ葬ル」 (明治日誌/荒川勝茂) .
この地に留まった子孫の墓31基に見守られて眠りについている。 |