戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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新     潟     県

以下の緑色の文は、現地の「説明板」から  .
画像クリックで現地の説明板の写真表示も一部あり  .

長       岡       市

徳力金吾、成田悌次郎、雪下辰治の墓 (西厳寺)

徳力金吾、成田悌次郎、雪下辰治の墓 西厳寺

 上の段の墓域の、向かって右側の中ほどにある。

 徳力金吾の脇に、成田悌次郎と雪下辰治が並んで眠っている。

徳力金吾の墓

徳力金吾        .

 第二遊撃隊/相沢隊。21歳。.
 慶応4(1868)年7月1日、  .
越後/荷頃/西願寺で戦死。 .

成田悌次郎の墓

成田悌次郎

 十郎左衛門の伜。
 第二遊撃隊/井深隊。
 慶応4(1868)年6月25日、越後/半蔵金で戦死。
 20歳。

雪下辰治の墓

雪下辰治

 第二遊撃隊/井深隊。
 慶応4(1868)年7月1日、越後/荷頃で戦死。
 19歳。
風間太五右衛門の墓

風間太五右衛門     .

 長岡藩士。 銃卒。     .
 慶応4(1868)年6月22日、   .
越後/福島村で戦死。      .
 仲の良い戦友だったのだろう、.
成田の隣りに建っている。   .
 慰霊墓は、招魂社。     .

 ▲(長岡市谷内2-7-1 Tel. 0258-52-3089)

長興寺

山本帯刀の墓

山本 帯刀 (たてわき)
 弘化2(1845)年3月7日、安田渡の嫡男として誕生。
 幼名:堅三郎。 名:義路。 通称:帯刀。 号:竹塘。
 8歳の時、家老/山本勘右衛門義和の養子となる。
 戊辰の役では、長岡藩/大隊長として奮戦、長岡城が落城したため再起を図るべく会津へ赴く。
 明治元(1868)年9月8日、濃霧のため味方と誤認して進むと敵兵のど真ん中、降伏を拒否し斬首される。
山本家の説明板 山本家の墓誌  詳細は、本光寺を参照
 24歳。
 「大梁院殿忠嶽義戦居士」

山本五十六の墓
山本五十六
山本家の墓  帯刀の隣りにある。
 養子に入り、山本家を相続。
 後に、連合艦隊司令長官に就任。
 「大義院殿誠忠長陵大居士」
 墓は、多磨霊園にある。
 妻/禮子は会津藩士/三橋康守の娘。

酒井貞蔵の墓 酒井貞蔵
 文政12(1829)年〜慶応4(1868)年7月29日 (40歳)
酒井貞蔵の説明板  名:泰光。 字:公賓。 通称:孫之允、貞蔵。
 長岡藩校崇徳館教授。
 非戦派であり河井継之助の暗殺を謀るも、藩論が抗戦に決まるや出陣、越後/片田村で戦死。
 慰霊墓は、招魂社
堀口良次右衛門の墓 堀口良次右衛門
 長岡藩士、銃卒。
 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
 慰霊墓は、招魂社
長興寺


 ▲(長岡市稽古町1636 Tel. 0258-36-0341)


河井継之助、二見虎三郎の墓 (栄凉寺)

河井継之助の墓

河井継之助 .
 再起をはかるべく親藩会津の鶴ヶ城へ向かうが、銃傷による破傷風が悪化し、願い叶わず途中の矢沢宅で死去した。
 慶応4(1868)年8月16日、享年42歳であった。
 明治2(1869)年、この地の河井家の墓に改葬された。
 しかし、継之助を恨む地元民により、墓石は何度も倒され、鞭打たれ、打ち砕かれ、刀で切られている。
 矢沢宅は移築され記念館になっており、荼毘に付された医王寺に墓があり、遺骨を仮埋葬した建福寺に碑がある。

二見虎三郎の墓

二見虎三郎正直 .
 長岡藩士。
 軍目付、銃卒隊長。
 河井継之助の小千谷会談に、唯1人の藩士として同席。
 慶応4(1868)年8月25日、鶴ヶ城下の七日町口で負傷し、
9月8日に死去。
 33歳。 「珠光院誠譽忠雲居士」。
 慰霊墓は、招魂社

伊東道右衛門 .
 長岡藩士、砲士。
 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下発田で戦死。  敵の進軍に槍を手にして一歩も引かず、薩兵2人を斃すも敵弾を受ける (62歳)。
 慰霊墓は、招魂社
伊東忠蔵
 長岡藩士、砲士。
 慶応4(1868)年5月26日、越後/文納で戦死。
 慰霊墓は、招魂社

村上藤左衛門 .
 長岡藩士。
 砲士伍長。
 慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。
 墓は、杉澤/合葬墓
 慰霊墓は、招魂社

石垣龍三郎 .
 慶応1868)年6月22日未明、長岡藩・会津藩・米沢藩の同盟軍は福島村に攻撃を開始し敵兵を敗走させ、一気呵成に目標であった大黒村を奪取した。
 しかし、続々と増員する圧倒的な敵兵に包囲されるが、長岡藩/三間市之進と会津藩朱雀士中四番隊/佐川官兵衛による強行突破に成功し、壊滅の危機を脱した。
 この時に付き従っており重傷を負ってしまい、長岡藩主/牧野忠訓が避難している鶴ヶ城下に向かうも、途中で傷が悪化し死去 (13歳)。
 墓は、沖組墓地内にある。

 
牧野忠訓 .
 宮津藩主/松平宗秀の4男、長岡藩主/牧野忠恭の養嗣子となる。
 慶応3(1867)年、長岡藩/第12代藩主となる。
 慶応3(1867)年5月19日に長岡城が落城したため会津に逃れる。
 鶴ヶ城が開城したため、仙台へ逃れたが、9月23日に降伏。
 明治8(1875)年6月16日、長岡にて死去 (享年32歳)。
 
  戦歿者供養塔 .
  秦 八郎 .
三島億二郎 .
  栄凉寺
 ▲(長岡市東神田3-5-6 Tel. 0258-32-2747)

木川松蔵 . (願誓寺)

 農家/谷五郎の長男。
 再起を目指す河井継之助の従僕として付き従い会津へ向かう。
 鶴ヶ城の開城を知らされ、建福寺の仮墓から骨壷を取り出し、砂利を入れた偽の骨壺と入れ替える。
 案の定、長賊らが掘り返すが遺骨は確認できず、生きていると勘違いし恐怖に怯えていたという。
 その後、遺骨を河井家に送り届ける。

 大正8(1919)年に81歳の長寿を終えるまで、若い頃に受けた恩義を忘れず、継之助の命日には墓参りを欠かさなかった。
 ▲(長岡市深沢町2013 Tel. 0258-46-3484)

戊辰之役大黒供養塔 (大國主社)

戦死供養塔(大國主社)

 慶応4(1868)年6月6日から7月25日の間、この近辺で戦死した東西両軍の戦死者の供養塔。

大國主社 供養塔の案内石柱

 ▲(長岡市大黒町182)

榎峠古戦場碑

榎峠古戦場碑

 妙見堰から旧国道17号をしばらく進んだ左に建っている。

榎峠古戦場碑  慶応4(1868)年5月10日、戦いが開始された。
 その戦いは、激しかった。

 榎峠は北越戦争の古戦場である。
 この地は三国街道の難所として知られ、信濃川が断崖の下にあった。
 慶応四年 (一八六八) 五月、ここ榎峠で、東・西両軍の激しい戦いがあった。
榎峠古戦場碑の現地板  はじめ が榎峠を占領していたが、長岡藩兵らの東軍が奪いかえし、対岸の 陣地と砲戦を展開した。また南方の街道上からも激しい攻撃があった。東軍側もよく守ったため、戦いは朝日山に移っていった。

 ▲(長岡市妙見町)

福島村夜襲戦跡 (諏訪神社)

福島村夜襲戦跡(諏訪神社)

 血戦八丁沖福島村夜襲戦跡
 小夜嵐 福島村畷 うつ銃の 音に砕けて 騒ぐ仇浪
   戊辰六月二十二日丑刻
  (碑文)
諏訪神社
 慶応4(1868)年6月22日、会津藩と米沢藩、長岡藩が連携して、福島村に駐屯していた陣地に夜襲をかけた。

 ▲(長岡市福島町1596)

悠久山公園

 4万平方メートルにも及ぶ広大なの園内には、戊辰の役で義を貫き通し殉じた藩士たちの慰霊墓や、関連する碑などが数多く建立されている。
 慶応4(1868)年8月16日、再起を図るべく会津へ向かった長岡藩総督/河井継之助は、長岡城攻防戦で受けた傷が悪化し、志半ばで途中の塩沢/矢沢宗益宅にて無念の死を迎えてしまう。
 遺体は、終焉の地にある医王寺で荼毘に付され、鶴ヶ城下の建福寺に仮埋葬された。
 大隊長/山本帯刀率いる隊士たちも、河井継之助の遺志を継ぎ会津で奮戦しするが、同年9月8日に悲運の死を遂げた

<招魂社の各慰霊碑と併記>      .


招魂社

 明治7(1874)年、戊辰の役で義に殉じた河井継之助・山本帯刀など長岡藩士たち350余名 (309名とも) を慰霊すべく、長岡藩歴代藩主御霊廟の隣りに創建された。
 後に、戊辰の役の遺恨を晴らすべく西南戦争の徴募に応じて戦死した池田九十郎など旧長岡藩士18名も合わせて祀られている。
 各慰霊碑については、こちら

 ▲(長岡市悠久町707  蒼紫神社の奥)


長岡藩槍隊の碑 (戊辰槍隊戦没諸士碣)
        長岡藩刀隊の碑 (戊辰刀隊戦没諸士碣銘)





 長岡藩の刀隊と槍隊は、白兵戦において無類の強さを誇り、西軍に恐れられた。
 蒼柴神社参道の一段下の脇。



 山本帯刀碑                     渡辺廉吉の碑






槍隊・刀隊碑の奥。



故長岡藩総督河井君碑 (河井継之助の碑)






郷土資料館に行く途中。

 ▲(長岡市御山町)

少年隊士在銘碑、戊辰戦死供養塔 (普済寺)




 人数は少ないながらも長岡藩にも、白虎隊と同じく義に殉じた若い命があったことを、決して忘れてはならない。
   西郷勇英人  16歳  慶応4(1868)年5月11日、妙見で負傷、
   のちに生家で死去。 招魂社
  三間豊蔵正英 18歳 慶応4(1868)年7月25日、新保村で負傷、
   8月25日に会津/若松で戦死。 招魂社
  牧野金太郎正英 17歳 河井継之助の妹/安子の長男
 慶応4(1868)年7月29日、片貝にて戦死。 招魂社

 長岡藩初代藩主/牧野忠成墓の手前の平地にある。
 以前には現地に解説版があったのだが・・・・
 ▲(長岡市栖吉町3039 Tel. 0258-34-7125)

河井継之助邸阯




 屋敷は、戊辰の駅の戦火で戦火で焼失。
 平成18(2006)年12月27日、跡地に市制100周年・合併記念事業の一環として「河井継之助記念館」がオープン。
 「河井継之助記念館」は、河井継之助の没地/只見にもある。
 ▲(長岡市長町1-1675-1)

小林虎三郎 (興国寺)

 山本覚馬の親友の1人。
 文政11(1828)年8月18日〜明治10(1877)年8月24日 (50歳)
 長岡藩士/小林又兵衛の3男。
 幼少の頃、疱瘡により左目を失明する。
 戊辰の役が終わった復興の最中の逸話「米百俵」で知られる。
 明治4(1871)年、「病翁」と改名するほど様々な病を患っていた。
 明治10(1877)年、湯治先の伊香保で熱病に罹り、東京在住の弟/雄七郎宅で療養するも死去。
 昭和34(1959)年)、埋葬地である谷中霊園から興国寺の住職が改葬。

 ▲(長岡市千手2-3-43 Tel. 0258-33-2269)


佐藤図書 . (法福寺)

 名:信近。
 水戸藩の家老。
 「天狗党の乱」では門閥層を率いて天狗党を追討する。
 慶応4(1868)年、戊辰の役が勃発すると500名の同志と共に水戸を脱出して、会津にて隊を編成し、北越の各地で奮戦。
 病を得て戦線を離脱したが、同年5月4日に寺泊の菅沼喜八宅で病死した (44歳)。

 後に、墓を掘り返され、首を持ち去られ、水戸/策町の高札場に3日間も晒された。
 今では、埋葬された場所に数個の小石が残るのみ。
 ▲(長岡市寺泊二ノ関2720 Tel. 0258-75-3064)

見       附       市

忠死尊霊塔  

 野ざらしにされた会津藩7名・長岡藩4名・村松藩2名の合葬墓。
 慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。
  朱雀士中四番佐川隊 ・能見久衛  40歳 二番半隊頭
            ・三宅九七郎 18歳 二番小隊三番
            ・遠藤清助  34歳 二番小隊四番
            ・山田清太郎 18歳 二番小隊六番
            ・中津豊吉  33歳
            ・坂井源太郎 23歳
  大砲二番市岡組   ・高田正吾  32歳
 長岡藩 (俗名と戒名が刻印)  ・村上藤左衛門
               ・匹田幸太郎
               ・長谷川改之進
               ・渡辺善蔵
 村松藩(東軍側)       ・内倉蔵
  捕えられ翌25日斬殺    ・松井寅七


長岡藩4名の合葬墓

 上記の内の長岡藩4名墓
 戒名が刻まれている。  
 ▲(見附市杉澤町1326辺り)

加       茂       市

大昌寺 (ネットで墓参)については、こちら。

上       越       市

高田藩/謹慎 (幽閉)

 開城後、藩士たちは猪苗代 (後に東京へ護送) と塩川村で謹慎する者とに別けられ、後に塩川謹慎組は、高田藩に永御預けの処分となる。
 明治2(1869)年1月の極寒の中、藩士の護送が開始された。
 越後/高田藩へ永預りとの達しが出ると、塩川謹慎の藩士は手縄付きで護送され、到着と同時に切腹の沙汰とのデマが流れ、脱走する者が相次いだ。
 明治2(1869)年1月9日、長賊監視の中、前後を100人ほどの越前藩士に警備され出立した。
 早朝から雪が舞い、高田に到着するまで止むことはなかった。
 未来に希望がなく寒さに震える移送は、年寄りにとって地獄への旅路に思えた。
 坂下・野尻・津川・山ノ内・分田・加茂・三条・地蔵堂・出雲崎・柏崎・黒井に泊まり、最後の者も21日に到着、難儀な旅は終った。
   ◇ 1月18日 580名
   ◇ 1月19日 585名
   ◇ 1月21日 577名
 心配した切腹の沙汰もなく、負傷者や病人は來迎寺、応接方は善行寺、その他の者は各寺院に割り振られ幽閉された。
 謹慎場所 (寺院) は、こちら。
 藩士預かり費用として約束した3万石を (明治政府) は、高田藩に支払わなかった。
 他藩への預け替えの陳情も無視され、加えて天保以来の大凶作の状況下、酒や餅なども振る舞うなど精一杯の対応をしてくれた。
 しかし、8月に入ると、未来に希望を持てなくなった脱走者が多く出るようになる。

会津墓地

会津墓地

 明治3(1870)年6月に斗南藩へ流刑されるまでの間に、少なくとも 68名が亡くなっており、異郷の地で眠っている。
 士分は寝棺、他の者は坐棺で埋葬されたという。
 各墳墓については、こちら。

会津墓地 会津墓地 会津墓地
 謹慎が解かれた後に留まった者や、子孫などの墓も30基ほどある。 正心学舎/塾長となり教育に貢献した南摩羽峯や、上越の医学界に貢献した中川昌泰などがいる。
 会津に移封前の上杉景勝公の居城地でもある。

 ▲(上越市大貫1477周辺 旧高田市金谷山)
   ・関根学園のグラウンドの手前の左側
   ・日本スキー発祥の地 の800メートルほど手前にある。

新       潟       市

殉節之碑 (新潟大神宮)

殉節之碑(新潟大神宮)

 明治23(1890)年、二十三回忌に建立された。
 会津領であった越後の地に在住の旧会津藩士が、越後で戦死した藩士の鎮魂のため、資金を出し合った。
新潟大神宮  篆額は、松平容保による。

殉節之碑の説明文  越後の山野には、240名を超える会津藩士が眠っている。

 ▲(新潟市中央区西大畑町5195 Tel. 025-222-4212)

慰霊碑、戊辰役東軍慰霊碑 (新潟県護国神社)

慰霊碑(新潟県護国神社)

慰霊碑

 昭和60(1985)年1月23日、新潟大学医学部創立75周年記念事業「有壬記念館」の工事現場から、戊辰戦争東軍戦死者の遺骨92柱が発掘された。 この地は、元招魂場跡地であり、旧新潟大学本部跡地である。
 同年5月、現在地に改葬された。

戊辰役東軍慰霊碑(新潟県護国神社)

戊辰役東軍慰霊碑    .

 昭和62(1987)年、建立。    .


 ▲(新潟市中央区西船見町5932-300 Tel. 025-229-4345)


村       上       市

無名戦士の墓 (大雄寺)

無名戦士の墓

 詳細不詳。
 慶応4(1868)年8月、地元の農民に殺害された会津藩士であるとの云い伝えも。
 墓域ではなく、「金屋の大銀杏」の傍らにある。

大雄寺


 ▲(村上市金屋2214 Tel. 0254-62-3296)

柏       崎       市

竹内武雄紀猶齋 (浄願寺)

竹内武雄の墓

 桑名藩士/竹内惣太夫の長男。
 新選組隊士。新撰組隊士/竹内徳雄の兄。
 桑名藩/大砲方として会津でも奮戦し、戊辰(1868)年9月中頃に仙台で新撰組に入隊し蝦夷へ渡る。
 明治2(1869)年4月6日、戦闘での傷のため、箱館で死去。
 「深真院浄生日貞居士」。

浄願寺

 境内に入ってすぐの左側にある。



 ▲(柏崎市西本町1-5-12 Tel. 0257-23-6557)

竹内武雄 (勝願寺)

竹内武雄の墓

桑名藩士の合葬墓
 新撰組/竹内武雄は、正面に「竹内猶斎」とある。

松平定敬公本陣跡

 勝願寺は、桑名藩主/松平定敬の本陣として使用された。 松平定敬は、会津藩主/松平容保の実弟。

  ≪左面≫ ≪前面≫ ≪右面≫ ≪裏面≫
鈴木雅固吉村宣範平野武光宮村正章
山内正己豊田友順小出得春本多常軌
馬場正勝木破直忠戸狩正勝坂○○○
中島三郎竹内猶齋関矢政久○○久榎
梶川正安 清水久明松野重順
大平正〇(病死者)木原文豪○○利枝
馬場正義 〜〜村田練太郎○○○○
駒木根○肥 〜〜前田利光 
  夏井忠蔵 
  吉岡成忠 
勝願寺

 ▲(柏崎市大久保2-11-28 Tel. 0257-22-4079)

石井勇次郎 (極楽寺)

 源次郎とも。
 桑名藩士/石井文弥の長男。
 新撰組隊士。
 藩を脱走し大鳥圭介軍として会津でも奮戦。
 戊辰(1868)年9月中頃に仙台で新撰組に入隊し蝦夷へ渡り、蝦夷共和国の一員として戦い、何度も負傷するが生き残る。
 明治36(1903)年6月17日、死去。
 58歳 (59歳とも)。
 「誓願院本覚勇哲居士」。
石井勇次郎の墓 石井勇次郎の墓
 著書「戊辰戦争見聞略記」。
 平成13(2001)年、新しい墓碑になった。

 ▲(柏崎市若葉町2-1 Tel. 0257-23-2233)
極楽寺

鯨波古戦場

鯨波古戦場

 慶応4(1868)年閏4月27日、会津藩と桑名藩を主力とする東軍約5百名と、薩長を主力とする約2千5百名が鯨波で激突した。
 圧倒的な兵力の差で初戦は後退したが、桑名藩/立見鑑三郎らと合流し地の利も得て反撃、青海川以西へと撃退した。
 しかし、三国峠から侵入したと小出島で戦闘が始まったため、柏崎を守る意味が無くなり、撤収した。
田中角栄先生顕彰碑
 現在は、御野立公園。
 「田中角栄先生顕彰碑」が建立されていた。

 ▲(柏崎市鯨波2-1)

※ 長岡藩士・桑名藩士については 積極的に調べたのではなく、
会津藩に関連することを調べた際に出会った方々のみ記載。
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