河井継之助の墓については、こちら。
慶応四年(一八六八)八月十六日、長岡藩家老・河井継之助は、塩沢の医師・矢沢宗篤宅で亡くなる。 享年四十二歳。 村民は荼毘にふされた細骨を集めて墓をつくりとむらった。 現在も命日には墓前祭がおこなわれている。 墓地は、医王寺の奥の左手にある。
▲(只見町大字塩沢字上ノ台258)
河井継之助記念館については、こちら。
▲(只見町塩沢字上の台850-5)
この道は慶応四年(一八六八)、長岡藩士と その家族、そして河井継之助が越えてきた峠道である。 ここから沼ノ平にいたる登山道は、天保十四年(一八四三)に開削された八十里越・古道を そのまま利用している。
▲(只見町大字叶津 浅草岳入叶津登山口)
慶応四年(一八六八)九月二十五日早朝、この地で会津藩兵が西軍(新政府軍)の進撃を止め追い返した。 会津戊辰戦争における最後の激戦地となった。
▲(只見町大字只見字沼田原地内)
慶応四年(一八六八)八月五日から十一日まで河井継之助が逗留した目明し清吉の屋敷跡。 河井継之助は ここで七日間静養していた。
▲(只見町大字只見字塚前)
慶応四年(一八六八)六月二十七日、只見で亡くなった長岡藩士の墓。 ここに埋葬された経緯は不明である。 只見字田中の目黒竹市家が墓守りをしている。
墓誌が栄凉寺にある。
▲(只見町大字只見字宮前)
長岡城が落城し、藩主一行三八〇人が、慶応四年(一八六八)五月二十一日、只見に入った。 ここは只見村の沖名主宅跡で、長岡藩老公・牧野忠恭が五日間、宿所とした場所である。
平成29(2017)年、取り壊しされる。
▲(只見町大字只見字沖)
元白虎隊士・篠沢寅之助が明治六年(一八七三)十月から半年間、只見小学校に赴任した際、家族で寄留した場所。 その後、上京して巡査となり、西南戦争に出役して戦死した。 享年二十五歳。
▲(只見町大字只見字田中)
長岡城が落城し、藩主一行三八〇人が、慶応四年(一八六八)五月二十一日、只見に入った。 ここは長岡藩主の姫君が五日間、宿所とした場所である。
▲(只見町大字只見字原)
長岡城が落城し、藩主一行三八〇人が、慶応四年(一八六八)五月二十一日、只見に入った。 ここは只見村原の名主宅跡で、藩主・牧野忠訓が五日間、宿所とした場所である。
昭和13(1938)年、火災で焼失。
▲(只見町大字只見字原)
慶応四年(一八六八)八月、長岡城が落城し、長岡藩士や その家族が多数只見に避難してきた。 会津藩の只見代官・丹羽族は、食料の確保に奔走するが、万策尽き、八月六日、死をもって償った。 その忠義に心を打たれた只見の農民は、わずかな蓄えまで提供して長岡藩の人々を救うことができた。
▲(只見町大字只見字上町)
慶応四年(一八六八)九月、東軍(旧幕府軍)が撤退したあとに、西軍(新政府軍)の宿舎として使用された。
▲(只見町大字只見字寺452)
慶応四年(一八六八)七月、戸数三〇軒の楢戸村に、長岡戦争から逃れてきた長岡藩士の家族五〇八人が十日間、滞在した。
▲(只見町大字楢戸字上ミ方)
慶応四年(一八六八)九月二十四日、東軍(旧幕府軍)と西軍(新政府軍)が ここで戦う。 激戦で双方一名ずつ戦死者がでた。 〜〜 東軍の戦死者は、会津藩河原田隊の渡部長吉だった。
▲(只見町大字坂田字原地内)