長岡城を奪われた長岡藩は、加茂の大庄屋市川 邸に本陣を構え、栃尾と見附を拠点に藩兵を配し、城を奪還を目指した。
会津藩と桑名藩も、前線基地として加茂に布陣した。
桑名藩が本陣としたのが、大昌寺である。
加茂では大きな戦いが起きなかったため、大昌寺は負傷者の病院も兼ねていた。
しばらくすると、米沢藩から500名近い援軍も到着した。〜〜
墓域の中央辺りの一画にある。
飯田重孝之墓と向かい合って、各墓が横一列に並んでいる。
過去帳には、「藩籍不明十一名」の記載があるとのこと。
駐屯していた会津藩から日新館をことを聞き、教育の重要性を感じた住職は、代が変わった後に「加茂朝学校 (加茂暁星高等学校)」を開校させている。
▲(新潟県加茂市松坂町6-3 Tel. 0256-52-1036)
久次郎とのこと。 久五郎とも。
朱雀士中四番隊/佐川隊。
慶應4(1868)年6月2日、越後/今町 (加茂とも) で戦死。
2日に負傷し4日に死去とも。
21歳。
惣蔵の倅。
朱雀士中四番隊/佐川隊。
慶應4(1868)年6月9日、越後/福井で負傷、10日に加茂で死去。
22歳。
喜兵衛の弟。
青龍士中三番隊/木本隊。
慶應4(1868)年6月23日、越後/福井 (加茂とも) で戦死。
40歳。
範吾のの父。
青龍士中三番隊/木本隊。
慶應4(1868)年6月3日、越後/長岡で負傷、後に加茂で死去。
福井あるいは大黒とも。
45歳。
廣田秀次郎とのこと。
秀之助の弟。
青龍士中三番隊/木本隊。
慶應4(1868)年6月22日、越後/福井で戦死。
43歳。
桑名藩。
致人隊、銃士。
慶應4(1868)年5月11日、越後/妙見山で負傷、20日に加茂で死去。
42歳。
長岡藩。
銃卒。
慶應4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。