慶応4(1868)年8月16日、再起を図るべく会津へ向かった長岡藩総督/河井継之助は、長岡城攻防戦で受けた傷が悪化し、志半ばで途中の塩沢/矢沢宗益宅にて無念の死を迎えてしまう。
遺体は、終焉の地にある医王寺で荼毘に付され、鶴ヶ城下の建福寺に仮埋葬された。
大隊長/山本帯刀率いる隊士たちも、河井継之助の遺志を継ぎ会津で奮戦しするが、同年9月8日に悲運の死を遂げた。
千本木林吉 山本帯刀隊/銃卒隊長。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 28歳。 本光寺
篠原伊左衛門 銃卒隊長。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で負傷し、8月2日に死去。
倉澤喜惣次 銃卒隊長。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡寺町辺で戦死。
二見虎三郎 山本帯刀隊/軍目付。
慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。 栄凉寺
戸井平四郎 銃卒小隊司令。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡宮原で戦死。
塚本茂八 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
立川寅次 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
高橋吉之助 銃卒。 慶応4(1868)年6月2日、越後/今町で戦死。
竹垣録之助 銃士、小隊司令。
慶応4(1868)年7月1日、越後/荷頃村で戦死。
吉田仙助 銃士、小隊司令。
慶応4(1868)年6月14日、越後/栃窪村で戦死。
横澤吉四郎 銃士、小隊司令。
慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
宮岩太郎 銃士、小隊司令。
慶応4(1868)年6月22日、越後/半蔵金で戦死。
須佐喜幸次 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/草生水村で負傷、8月に津川で死去。
丸山清蔵 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下三之江土手で戦死。
野口和吉 銃卒。 慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。
小林吉郎右衛門 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
中島半太夫 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡西神田丁で戦死。
二見斧右衛門 隊外士分。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町丁口で戦死。
牧野十助 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡発田で戦死。
土屋五兵衛 銃士、嚮導。
慶応4(1868)年6月4日、越後/葛巻地方で戦死。
篠田愛作 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
渡辺束兵衛 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
戸田只弥 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡で戦死。
植村音之助 銃卒。 慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
松本保右衛門 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下今朝白丁で負傷、
8月2日 (26日とも) に会津/坂下で死去。
飯田直太夫 武器方頭取。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下御武芸役所で戦死。
田中信左衛門 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。
村松左仲 銃卒。
慶応4(1868)年8月25日、会津/若松七日町で戦死。
桜井定次郎 銃卒。 慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
荒井錠蔵 銃卒。 慶応4(1868)年5月11日、越後/妙見口で戦死。
武士俣友三郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
植村七五郎 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下寺島で戦死。
近藤平八 砲士。
慶応4(1868)年6月14日、越後/福井村で負傷、後に死去。
大平杢之助
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
桑原良蔵 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下長丁で負傷、
8月21日に会津/若松で死去。
渡辺善蔵 銃士。
慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。 忠死尊霊塔
佐藤伊野七 伊之七とも。 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
佐藤正吉 正吾とも。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
杉野津平次 銃卒。 慶応4(1868)年6月9日、越後/福井村で戦死。
斎藤善五兵衛 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
岩崎丈左衛門 伝令。
慶応4(1868)年7月26日、越後/森立峠で捕えられ、軽井沢村で虐殺。
恩田久右衛門 伝令、銃兵。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で負傷、後に死去。
金津コ之助 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で負傷、18日に死去。 30歳。
寺田善右衛門 善左衛門とも。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
高橋辰蔵 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
今村治兵衛 今井とも。 銃卒。 慶応4(1868)年7月1日、越後/土ヶ谷で戦死。
伊藤豊次右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下寺町で戦死。
長谷川半七 銃卒。 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
平林貞次 銃士。
慶応4(1868)年7月1日、越後/で捕えられ、25日に虐殺。
福島静衛之助 伝令附属士。
慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
柳町茂左衛門 銃士。
慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
三間矢治馬 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下馬場丁で戦死。
久保織右衛門 伝令附卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡宮原で戦死。
吉岡栄八 銃卒。 慶応4(1868)年6月8日、越後/森立峠で戦死。
正山猪三郎 銃卒。 慶応4(1868)年6月2日、越後/今町で戦死。
清水勝左衛門 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
福原良右衛門 弾薬方士分。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。
加藤弥左衛門 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
増井弥平
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
長谷川改之進
慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。 忠死尊霊塔
八木藤太 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
寺田九郎左衛門 隊外卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡寺島で戦死。 光照寺
小林辰太 銃卒。 慶応4(1868)年7月1日、越後/土ヶ谷で戦死。
村田佐平次 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
岡村友次衛門 銃士。
慶応4(1868)年7月1日、越後/荷頃村で戦死。
磯貝粂之進 銃兵。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城で戦死。
和田忠九郎 弾薬方士分。
慶応4(1868)年7月29日、越後/十日町で戦死。
大野禎助 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で戦死。
小林国蔵 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。 光照寺
清水春弥 銃卒。 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で負傷、後に死去。光照寺
小林権四郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月1日、越後/土ヶ谷で戦死。
中村加茂左衛門 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
井上繁之進 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/新保村で戦死。
新井彦兵衛 銃兵、隊外士分。
慶応4(1868)年7月25日、長岡城下大工町で負傷、
8月1日に見附病院で自刃。
瀧澤準次 銃士。
慶応4(1868)年7月1日、越後/土ケ谷で戦死。
酒井貞蔵 号:晦堂。 藩校/崇徳館教授。
慶応4(1868)年7月29日、越後/片田村で戦死。 40歳。 長興寺
丸山菊五郎 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
角田美右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
猪俣佐喜蔵 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/土合村で戦死。
関能嘉膳太 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
小笠原朝之進 銃士。
慶応4(1868)年5月10日、越後/浦柄で戦死。
渡辺強次郎 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下新町村で戦死。
仙田隼人 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/片田村で戦死。
九里波之丞 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡西神田で戦死。
大味伝吉 銃卒。 慶応4(1868)年6月2日、越後/今町で負傷、8月26日に若松で死去。
(6月4日に葛巻で戦死とも)
高橋彦右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。本光寺
大川角太夫 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
大竹此助 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
石垣濱之助 銃兵。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下(越後/福井村とも)で戦死。
山本新吉 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で負傷、翌3日に死去。
三間騎三太 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下長丁で戦死。
松木四郎 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/草生水村で戦死。
大宮平太 兵太とも。 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
佐藤愛蔵 銃卒。
慶応4(1868)年7月29日、越後/土合村で負傷、11月19日に越後/見附で死去。
阿部八百助 銃卒。 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
海津直之進 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
岩崎直吉 銃士。
慶応4(1868)年7月25日(20日とも)、越後/野崎村で戦死。
片山直次郎 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下中島で戦死。
永戸熊太郎 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡栄涼寺前で戦死。
田中小太郎 銃士。
慶応4(1868)年6月7日、越後/大口で戦死。
野口京左衛門 隊外卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡寺島で戦死。 光照寺
阿部信太夫 信太郎とも。 兵卒。 慶応4(1868)年8月1日、越後/見附で戦死。
加藤角七 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
長谷川彦作 慶応4(1868)年、戦死。
福田寅之助 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/豊詰村で負傷、見附で死去。
伊東善之助
慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
金津虎三郎 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で戦死。
鈴木銕之進 鉄之助とも。 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で負傷、
8月23日に会津/若松で襲来の報を聞き自刃。
阿部弥亀太 弥龍太とも。 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
田島十次郎 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
中沢虎市 長沢とも。 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
太田兵次右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年8月1日、越後/見附で戦死?
福島友次郎 銃士。
慶応4(1868)年6月1日、越後/赤坂峠で戦死。
能勢彦次 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新保村で戦死。
大瀬銑蔵 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/福井村で戦死 (浦瀬村で自刃とも)。
九里幸三郎 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。
竹津久馬吉 銃卒。 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
酒井金四郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/亀崎で戦死。 光照寺
金子邦太 国太とも。 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
松本大治 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下袋町裏で戦死。
鳥居留五郎 銃士。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
竹垣鑛次郎 銃士。
慶応4(1868)年7月4日、越後/荷頃口砲台で戦死。
三間銑之助 銃士。
慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
谷口茂 弾薬方、士分。
慶応4(1868)年7月1日、越後/土ケ谷で戦死。
川越辰次 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
加藤庄五右衛門 隊付中間。 慶応4(1868)年7月25日、越後/蔵王村で戦死。
小林時助 隊付中間。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村喰違外で戦死。
今井留蔵 中間。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下中島で戦死。
伊東忠蔵 砲士。
慶応4(1868)年5月26日、越後/文納で戦死。
中島安四郎 銃士。
慶応4(1868)年6月2日、越後/今町で戦死。 25歳。
中嶋文次郎 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で戦死。 22歳。
鳥山岩之丞 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/片田村で戦死。
中村留五郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
森下増蔵 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/草生水村で戦死。
平井甚太郎 甚八郎とも。 隊外中間。 慶応4(1868)年7月29日、越後/筒場村で戦死。
渡辺助三郎 慶応4(1868)年7月29日、越後/草生水村で戦死。
鬼頭熊次郎 銃卒。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
長島金弥 銃士。
慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
横山健三郎 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で戦死。
松井松五郎 銃士。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
滝沢礼七 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡で戦死。
土浦助七 中間。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城内で戦死。
五井幾七 隊付中間。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。 19歳。
大塚瀬兵衛 隊外中間。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下赤川で戦死。
中川音三郎 銃士。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
本木京五郎 銃士。
慶応4(1868)年6月2日、越後/今町で負傷、後に会津で死去。光照寺
本木小太郎
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
丸山斎悦 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/蛇山村 (長岡城下とも) で戦死。
井口政吉 小島久馬右衛門の従者。 慶応4(1868)年7月1日、越後/土ヶ谷で戦死。
長田鶴吉 三間市之進の家来。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
村尾孫平太 隊外士分。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下大工町土手で戦死。
妹尾束 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
渡邊進 銃士隊長。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
(7月29日に草生水で負傷し8月4日に吉ヶ平で死去とも)
斎田轍 銃士隊長。
慶応4(1868)年6月2日、越後/長岡北郊今町で戦死。
花輪彦左衛門 用人、銃士隊長。
慶応4(1868)年7月29日、越後/十日町村 (片田村とも) で戦死。
鬼頭六左衛門 銃士隊長。
慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
佐藤小平太 小平次とも) 銃卒 小隊司令。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で負傷、 8月16日に会津/川口で死去。
高野曽左衛門 銃士、小隊司令。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡御蔵小路で戦死。
杉本庄助 銃卒、小隊司令。 慶応4(1868)年7月1日、越後/土ヶ谷で戦死。
小杉津左衛門 銃卒、半隊司令。
慶応4(1868)年7月27日、越後/長岡三之江土手で戦死。
牧野勘兵衛 銃士、小隊司令。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で負傷、後に死去。 34歳。
桑原文左衛門 銃士小隊司令。
慶応4(1868)年7月29日、越後/摂田屋村で戦死。 30歳。
九里孫次郎 銃士、小隊司令。
慶応4(1868)年6月22日、越後/半蔵金で負傷、7月15日に加茂で死去。
松井策之進 砲手伍長。
慶応4(1868)年5月12日、越後/妙見口で戦死。
須藤金太郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
新井兵蔵 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡新町村で戦死。
加藤安太夫 銃卒。 慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
神保国之丞 銃卒。 慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
亀倉恭之進 銃士。
慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
村上藤左衛門 砲士伍長。
慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。 忠死尊霊塔
野村竜太郎 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡呉服丁で戦死。
倉沢弥五兵衛
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
渡辺三平 山本帯刀家来。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。本光寺
新井嘉次太 銃士。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
田部建五郎 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡寺島で戦死。
渡辺建蔵 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
藤田竹松 銃卒。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
匹田幸太郎 銃士。
慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。 忠死尊霊塔
中島軍四郎 砲士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城内で自刃。
稲垣喜助
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
能勢彦太郎 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
小野与平次 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下新町村で戦死。 光照寺
小池根松 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
小林孝之助 孝之丞とも。銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/土合村で戦死。
伊東道右衛門 砲士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下発田で戦死。 62歳。
栂野半左衛門 隊外士分。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡西神田で戦死。
平野銕之丞 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡神田口門で戦死。
村松清太夫 銃士。
慶応4(1868)年6月22日、越後/半蔵金で戦死。
大崎豊左衛門 銃卒。 慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で戦死。
関川文吉 銃卒。 慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
堀口良次右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。 長興寺
大崎直太 銃卒。 慶応4(1868)年、戦死。
市野又十郎 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で負傷、
8月11日に会津/只見で死去。
加藤五郎左衛門 銃士。
慶応4(1868)年7月1日、越後/荷頃村で負傷、後に死去。
土屋彦太郎 隊外士分。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡兵学所橋付近で戦死。
弓削貞太郎 隊外士分。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下西神田で戦死。
岡本甚十郎 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
安田大太郎 代太郎とも。 銃卒。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。本光寺
風間太五右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。 西厳寺
小出養輔 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡三之江土手で戦死。
柿村勘次右衛門 銃卒。
慶応4(1868)年6月8日、越後/森立峠で戦死。
宮原岩次郎 銃士。
慶応4(1868)年7月2日、越後/大黒村で負傷、同月29日夜に死去。
中島文次右衛門 夫方差配。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡上田町で戦死。
中川文蔵 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡富島村で戦死。
平沢時左衛門 銃卒。 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
永戸九郎左衛門 銃士。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
川上孫兵衛 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/蔵王村で戦死。
清塚仲右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下新町村で戦死。
雨谷寄右衛門 銃卒。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
山本伊助 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/蛇山村で戦死。
横山市郎右衛門 隊外士分。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下御蔵小路で戦死。
武丈右衛門 銃士。
慶応4(1868)年6月8日、越後/森立峠で負傷、9日に死去。
尾井宇右衛門 砲士。 慶応4(1868)年5月18日、越後/蔵王村で戦死。
有坂亥吉郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下で戦死。
高橋孫太夫 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡高橋小路で負傷、後に死去。
清水倉右衛門 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下三之江土手で戦死。
吉田充太郎 重太郎とも。 銃卒、足軽。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 15歳。 本光寺
長沢金太郎 崇徳館教授、使番。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 49歳。 本光寺
長島平八 兵八とも。 銃士。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
大野治助 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/片田村で戦死。
永相亀太郎 亀次郎とも。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
藤井嘉平治 銃士。 慶応4(1868)年6月19日、越後/福井村で戦死。
長沢金太 銃卒。 慶応4(1868)年5月26日、越後/文納で戦死。
秋元友之助 銃卒。 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
隅田鷹四郎 銃士。
慶応4(1868)年7月1日、越後/土ケ谷で戦死。
須藤武左衛門 武器方。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡御武器役所焼失で焼死。
赤柴五郎八 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城内の御武芸役所で戦死。
丸田覚左衛門 兵糧方。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下北御蔵前で戦死。
松田右内 銃卒。 慶応4(1868)年8月28日、会津/柳津八十里越で戦死。
酒井冨喜次 銃卒。 慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
宮政太郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で戦死。
永相左一左衛門 伝令附卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/百束村で戦死。
名児耶林之丞 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。
稲葉弥太郎 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/片田村で戦死。
雨宮敬一郎 銃兵。
慶応4(1868)年、会津/飯寺で戦死。 本光寺
吉田正次郎 銃士。
慶応4(1868)年5月13日、越後/朝日山で戦死。 34歳。
室橋政七 茂呂橋とも。 慶応4(1868)年、会津/飯寺で戦死。 本光寺
山口辰次郎 慶応4(1868)年、会津/飯寺で戦死。 本光寺
山内谷右衛門 銃卒。 慶応4(1868)年秋、越後で行方不明 (9日に会津/叶津で戦死とも)。
大松林八郎 銃卒。 慶応4(1868)年8月1日、越後/見附で戦死?
中島庄九郎 銃士。
慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
花輪秀八 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。
森山重五右衛門 ・銃卒。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
小川多忠太 銃卒。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
渡辺駒次 銃卒。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
牧野金太郎 銃士。 慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。 17歳。 普済寺
西郷鈴次郎 慶応4(1868)年8月21日、若松/七日町口で戦死。
酒井米弥 隊外卒。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡寺島で負傷、明治2(1869)年2月19日に死去。
加藤幾太郎 砲士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡地蔵丁で戦死。
笠原宅右衛門 笠井とも。 隊外卒。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下で戦死。
平林味知右衛門 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡北御蔵前で戦死。
佐藤直三郎 銃卒。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡宮内で戦死。
高井湧助 銃士。 慶応4(1868)年6月14日、越後/大黒村で戦死。
保高易八 銃卒。 慶応4(1868)年7月28日、越後/蔵王裏で戦死。
伊藤礼蔵 銃兵。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡草生水村で戦死。
西方喜助 伝令付属卒。 慶応4(1868)年7月26日、越後/森立峠で戦死。
草生鐵三郎 銃士。
慶応4(1868)年6月14日、越後/栃窪村で戦死。
篠崎繁右衛門 銃士。
9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
武山千三郎 銃士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡蝋座土手で戦死。
長島虎一 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新保村 (浦瀬村とも) で戦死。
加藤弥曽吉 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
野口竜右衛門 埜口とも。 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/筒場村で戦死。
栂野六郎兵衛 隊外卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/四郎丸村で戦死。
渡部信七 銃卒。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡落城後に行方不明(8月1日、越後/見附で死去とも)。
古沢直三郎 銃士。
慶応4(1868)年6月2日、越後/今町で戦死。
太田直太郎 道太郎とも。 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/新保村で戦死。 21歳。
樋宮寅太郎 虎太郎とも。 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡西神田で戦死。
三間豊蔵 銃士。 18歳。 普済寺
慶応4(1868)年7月25日、越後/新保村で負傷、
8月25日に会津/若松で戦死 (新保村で戦死とも、浦瀬村で自刃とも)。
中田良平 中間杖突。
慶応4(1868)年8月8月28日、捕らえられ会津/大山祇辺周辺の苦水で虐殺。 常楽寺
中村熊三郎 銃卒。 慶応4(1868)年7月29日、越後/草生水村で戦死。
妹尾林之助 営造方附属。 慶応4(1868)年、越後で戦死。
佐々木角内 慶応4(1868)年、越後で戦死。
太田権四郎 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/新保村(浦瀬村とも)で戦死。 22歳。
中島富弥
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
中島勇蔵 銃士。
慶応4(1868)年6月1日、越後/赤坂峠で戦死。
稲垣安之丞 砲士。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下殿町で戦死。
小沢染次郎 銃卒。 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
林喜十郎 銃卒。 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。
平井又蔵 銃卒。 慶応4(1868)年8月25日若松、若松/七日町口で戦死。
岡村滝左衛門 隊付中間。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下新保橋外で戦死。 光照寺
西郷勇 銃士。
慶応4(1868)年5月11日、越後/妙見で負傷、後に自宅で死去。
16歳。 普済寺
海老沢兼弥 隊外士分。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下玉蔵院丁で戦死。
内藤作之助 銃士。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
原政之進 銃士。
慶応4(1868)年6月22日、越後/福島村で戦死。
佐藤悦七 隊付中間。 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村喰違外で戦死。
後藤峰七 隊外中間。 慶応4(1868)年7月29日、越後/筒場村で戦死。
中村初七 銃士。 慶応4(1868)年7月28日越後蔵王で負傷、9月に死去。
岡村半四郎 中間杖突。
慶応4(1868)年8月28日、捕縛され会津/大山祗辺の苦水で虐殺。 常楽寺
渋谷作之進 銃士。
慶応4(1868)年6月8日、越後/桂峠で戦死。
吉田六次郎 銃士。
慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新村町で戦死。
福島織之丞 銃卒。
慶応4(1868)年7月29日、越後/片田村で戦死。
前田雄之助 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/土合村で負傷、
8月23日に会津/若松で襲来の報を聞き自刃。
佐藤常庵 中間医師。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡追廻で戦死。
大沢五次平 中間。 慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下小頭町で戦死。
宮森右衛門 隊外中間。 慶応4(1868)年7月29日、越後/十日市村で戦死。
吉田久左衛門 慶応4(1868)年、戦死。
本間佐吉 銃士。
慶応4(1868)年6月14日、越後/栃窪村 (越後/土ケ谷とも) で戦死。
鈴木富三郎 銃士。
慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で戦死。
神戸菊五郎 銃士。
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
山本清三郎 銃士。
慶応4(1868)年6月22日、越後/半蔵金で戦死。
渡辺豹吉 山本帯刀従者。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
新与源次 山本帯刀家来。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
須藤岩之助 隊外士分。
慶応4(1868)年7月29日、越後/長岡城下で戦死。
村松一睡 隊外士分。
慶応4(1868)年5月19日、越後/新保村で戦死。
高野秀山 隊外士分。
慶応4(1868)年5月19日、越後/長岡城下今朝白縄手で戦死。
勝沼留吉 望月忠之丞の従者。 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
山本慶山 慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺
桑原良蔵 | 銃士 | 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡城下長丁で負傷、 8月21日に会津/若松で死去。 |
須佐喜幸次 | 銃卒 | 7月25日、越後め早生水村で負傷、 8月に会津/津川で死去。 |
鈴木銕之進 (鉄之助とも) | 銃士 | 慶応4(1868)年7月25日、越後/長岡新町村で負傷、 8月23日に会津/若松で襲来の報を聞き自刃。 |
河井継之助 | 長岡藩総督 | 長岡城攻防戦で負傷し、会津/若松へ向かう途中、 慶応4(1868)年8月16日に会津/塩沢で死去。 終焉の地 医王寺 建福寺 |
市野又十郎 | 銃士 | 慶応4(1868)年7月29日、越後/福井村で負傷、 8月11日に会津/只見で死去。 |
佐藤小平太 (小平次とも) | 銃卒 小隊司令 | 7月29日、長岡城下で負傷、 8月16日に会津/川口で死去。 |
前田雄之助 | 銃士 | 慶応4(1868)年7月29日、越後/土合村で負傷、 8月23日に会津/若松で襲来の報を聞き自刃。 |
鬼頭六左衛門 | 銃士隊長 | 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で戦死。 |
二見虎三郎 | 軍目付 | |
横澤吉四郎 | 銃士 小隊司令 | |
中島庄九郎 | 銃士 | |
柳町茂左衛門 | 銃士 | |
小沢染次郎 | 銃卒 | |
竹津久馬吉 | 銃卒 | |
林喜十郎 | 銃卒 | |
平井又蔵 | 銃卒 | |
平沢時左衛門 | 銃卒 | |
村松左仲 | 銃卒 | |
伊東善之助 | ||
小林吉郎右衛門 | ||
西郷鈴次郎 | ||
清水春弥 | 銃卒 | 慶応4(1868)年8月25日、若松/七日町口で負傷、 後に死去。 光照寺 |
三間豊蔵 | 銃士。 18歳。 | 慶応4(1868)年7月25日、越後/新保村で負傷するも、 8月25日に会津/若松で戦死。 (新保村で戦死とも、浦瀬村で自刃とも) 普済寺 |
松田右内 | 銃卒 | 慶応4(1868)年8月28日、会津/柳津八十里越で戦死。 |
岡村半四郎 | 中間杖突 | 慶応4(1868)年8月28日、 会津/大山祇辺の苦水で戦死。 常楽寺 |
中田良平 | 中間杖突 | |
山本帯刀 | 長岡藩大隊長 24歳 |
慶応4(1868)年9月8日、会津/飯寺で戦死。 本光寺 |
渡辺豹吉 | 山本帯刀従者 | |
新 与源次 (與源太とも) | 山本帯刀家来 | |
倉沢弥五兵衛 | ||
雨宮敬一郎 | 銃兵 | |
稲垣喜助 | ||
増井弥平 | ||
長沢金太郎 | 使番 49歳 | |
篠崎繁右衛門 | 銃士 | |
中島富弥 | ||
松井松五郎 | 銃士 | |
鳥居留五郎 | 銃士 | |
神戸菊五郎 | 銃士 | |
能勢彦太郎 | ||
中川音三郎 | 銃士 | |
寺田善右衛門 | ||
千本木林吉 | 銃卒隊長 28歳 | |
渡部三平 (渡辺とも) | 山本帯刀家来 | |
佐藤伊之七 (伊野七とも) | 銃卒 | |
佐藤正吉 | ||
長島兵八 (平八とも) | 銃士 | |
室橋政七 (茂呂橋とも) | ||
長沢虎市 (中沢とも) | 銃卒 | |
田島十次郎 | 銃卒 | |
内藤作之助 | 銃士 | |
高橋彦左衛門 (彦右衛門とも) | 銃卒 | |
川越辰次 | ||
大平杢之助 | ||
阿部弥亀太 (弥龍太とも) | 銃卒 | |
吉田充太郎 (重太郎とも) | 銃卒 足軽 15歳 | |
山口辰次郎 | ||
大宮兵太 (平太とも) | 銃卒 | |
八木藤太 | ||
岡本甚十郎 | ||
篠田愛作 | 銃卒 | |
高橋辰蔵 | 銃卒 | |
勝沼留吉 | 望月忠之丞従者 | |
辰次 | 中間 | |
永戸九郎左衛門 | 銃士 | |
丸山菊五郎 | ||
安田大太郎 (代太郎とも) | 銃卒 | |
山本慶山 | ||
山内谷右衛門 | 銃卒 | 慶応4(1868)年秋、越後で行方不明 (9日に会津/叶津で戦死とも)。 |
戦いが終わっても埋葬が許されず、鳥獣に食い散らかされ腐敗し、やがて朽ち果てていった。
翌年になって遺骸が埋葬されるも墓標すら立てる事さえ許されず、会津の地での長岡藩士についても、ほとんどの埋葬地が判明できていない。
判明できているのは、下記の方々などである。
◇ 長岡藩士殉節之墓 (本光寺)・・・ 46柱
◇ 長岡藩士の墓 (常楽寺) ・・・ 2柱
◇ 長岡藩士の墓 (光照寺) ・・・ 9柱
◇ 明治戊辰戦死供養塔 (阿弥陀寺) ・・・ 長岡藩士は、4柱
◇ 長岡藩四人墓 (大谷古墳公園)
◇ 長岡藩戦死墓 (安勝寺) ・・・ 御柱数は不明
◇ 河井継之助の荼毘で残った細骨墓 (医王寺)
◇ 河井継之助の仮埋葬墓 (建福寺)
本堂の脇隣りに、西南戦争での殉難者18名が慰霊墓が建立されている。
さらに、その隣に長岡藩主/牧野氏歴代の墓碑群が建っている。
昭和58(1983)年、東京/済海寺から墓碑17基が、牧野氏ゆかりの悠久山に移築された。
現/悠久山公園の地は、長岡藩中興の名君と称される3代藩主/牧野忠辰が佐渡の杉や松、桜などを植栽したのが始まりとされ、9代藩主/牧野忠精が蒼柴神社を造営した。
なぜか、魚雷と機雷が置かれている。