会  津  の  著  名  人

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]

《 ゆ 》 江  戸  幕  末

《殉難者》 湯浅六弥 雪下辰治 湯田忠吾  

《 ゆ 》 幕 末 よ り 後

 湯浅 竹次郎  ゆあさ たけじろう、
 明治4(1871)年10月9日〜明治37(1904)年5月3日 (34歳)
 藩士/湯浅牧五郎の次男として東京牛込区にて誕生。
 母が嘉納邸にいたため、少年期に嘉納治五郎の書生となる。
 後に、講道館柔道六段。講道館柔道殿堂入りしている。
 明治22(1889)年、海軍兵学校に入学。
 海軍兵学校 (19期) を卒業し、艦隊勤務に就く。
 明治27(1894)年、日清戦争に松島」乗組候補生として出征。
 大尉へ昇進し、英国に出張し水雷艇「薄雲」を回航。
 兵学校/砲術教官などを歴任。
 明治37(1904)年、日露戦争に出征し、「厳島」砲術長として出征。
 第三回旅順港閉塞作戦に志願し、閉塞船の1つ「相模丸」指揮官として作戦に突入、悪天候に加え、ロシア軍の激しい迎撃の中、目的地点に到達し艦を爆破・沈没させ、任務を遂行する。
湯浅竹次郎の墓  砲銃撃と荒波の中、総員退去で乗り移った端舟が転覆し戦死した。
 当時、軍人の模範/軍神と仰がれ、死後に海軍少佐へ昇進し、出撃前に記した遺書から、海兵の生徒の教義「従容義ニ就ク境地ニ到達センコト」が生まれたという。
 「古人曰ヘルアリ従容ト義ニ就クハ難シト 今ヤ廿有余ノ勇士ト此難事ヲ決行ス 武士ノ面目之ニ過ギズ 〜
 墓は青山霊園
 結城 司郎次  ゆうき しろじ、明治34(1901)年3月7日〜昭和43(1968)年11月20日
 農業/熊八の4男として奥川村 (西会津町) にて誕生。
 大正15(1926)年、高等試験外交科試験に合格。
 昭和2(1927)年、東京帝国大学法学部政治科を卒業し、外務書記生として英国へ、外交官補としてドイツへ赴任。
 国際連盟の日本帝国代表者/随員、満州国、ポーランドで勤務。
 昭和15(1940)年、外務省/書記官としてアメリカ局第一課長に赴く。
 昭和16(1941)年10月、通商局第三課長に就任。
 同年11月、日米交渉のため急に渡米する来栖三郎特命全権大使の随行員として、ワシントンの日本大使館に赴き事務方に就く。
 東京裁判で、
 「大使館は交渉妥結の希望に支配され、覚書で即時対米開戦となる
  とは予想しなかった」
 「東京も攻撃開始直前僅々30分間に重大な結果を伴う通告を終え
  るきわどい芸当をする以上、訓令はもう少し親切であるきだった」
と証言し、双方の過失を公平・客観的に指摘。
 親族には、「実際に知ったのは攻撃後」と話している。
 昭和27(1952)年、スウェーデン公使 (デンマーク公使兼任) に就任。
 昭和30(1955)年、セイロン (スリランカ) 大使に就任。
 昭和32(1957)年、トルコ大使に就任。
 昭和36(1961)年、日本大学拓植学科の講師に就任。
 昭和41(1966)年まで外務委員会の専門員を務める。
 訳書「スカンジナビア/リモンド・イネス著」
   「低開発国の経済学/H.ミント著」など。

 妻/鶴との娘が女優/結城美栄子。
 息子はスウェーデン女性と結婚し、その娘がモデル/結城アンナ。
 雪下 勝美  ゆきした かつみ、   <海軍少将、戦艦「長門」艦長>
 明治20(1887)年3月12日〜昭和42(1967)年5月27日 (満80歳)
 若松市 (会津若松市) にて誕生。
 後に義祖父/雪下熊之助が戦死したため、雪下家の養子になる。
 会津中学校(会津高校)を4年で修了(中12回)し、海軍兵学校に進む。
 明治41(1908)年、海軍兵学校を卒業 (36期)。
 海軍大学校乙種を経て、海軍大学専修/航海術を卒業 (17期)。
 少佐に昇進し、皇太子裕仁親王の欧州訪問の「香取」航海長に就く。
 「生駒、阿蘇、香取、風」の乗組、「松江、天龍」の航海長、呉海軍工廠艤装員、第三艦隊参謀などを歴任。
 「金剛」受領のため英国へ出張もしている。
 人事局局員、米国大使館附武官補佐官、「那珂」副長、第三戦隊参謀、海大戦略教官、「山城」の副長などを歴任。
 昭和 4(1929)年、海軍大佐へ昇進。
 ブラジル兼アルゼンチン大使館附武官兼チリ公使館附武官、軍令部第七課長、「長門」艦長、呉鎮守府軍需部長などを歴任し、少将へ昇進。
 佐世保警備戦隊司令官を最後に予備役編入となり、海軍大学調査事務嘱託兼海軍省事務嘱託の就く。
 昭和16(1941)年、再召集を受け、アルゼンチン大使館附武官兼チリ公使館附武官として南米に赴任、年末に太平洋戦争となる。
 昭和19(1944)年、アルゼンチンとの国交断絶まで対米情報を送信。
 雪下 熊之助  ゆきした くまのすけ、   <藩士、海軍軍人>
 嘉永7(1854)年3月12日〜明治10(1877)年3月11日 (満22歳)
 藩士/雪下熊蔵と母/サタの3男として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役には、母/サタ、兄/豊治が戦死している。
 斗南藩へ移住。
 明治4(1871)年、藩が消滅したため上京し、海軍兵学校に入る。
 明治7(1874)年、海軍兵学校 (第3期) を卒業し、「雲揚艦」乗組に就く。
 1875年(明治8(1875)年、「筑波艦」乗組に就き日本海一周航海の後、日本初の練習航海であるアメリカへの航海の任に就く。
 明治9(1876)年、帰国し「清輝艦」乗組に就き、少尉補に昇進。
 同年、父/熊蔵が死去。
 明治10(1877)年、西南戦争に「清輝艦」乗組として出征し、熊本県船津沖にて小汽艇に乗り換え測量中、銃撃を受け負傷し長崎/海軍仮病院に搬送されるも死去。
 海軍兵学校出身者として初の戦死者であった。
 墓は佐古墳墓地。

 後に雪下家の養子 (熊之助の義孫) となった雪下勝美は、戦艦「長門」艦長、海軍大学校教官などに就任し、海軍少将となる。
 湯田 運吉  ゆだ うんきち、文政8(1825)年〜明治22(1889)年  <和算学者>
 名主/湯田粂右衛門の子として伊与戸 (南会津町舘岩) にて誕生。
 湯田家に逗留していた和算家/八島外記から寝食を忘れて学び、奥義を伝授される (21歳)。
 嘉永 3(1850)年 伊与戸熊野神社に「三斜内円四箇」図の算額を奉納するが、イタリアの数学者/マルハッチの世界的に有名な難問 (高等幾何学) を解いたものだった (26歳)。
 明治 6(1873)年 自宅において、熨斗戸小学校を開校する。
 その後、近隣の各小学校で教え、地元の教育発展に尽力。
 明治16(1883)年 熨斗戸鹿島神社に算額を星運吉の名で奉納し、星家を継いで雲吉と改名する。
 弓田 円蔵  ゆみた えんぞう、文化11(1814)年〜明治17(1884)年
 呉服商(勧農家)/弓田家の子として南山御蔵入松川組塩生村 (下郷町) にて誕生。 代々の襲名が円蔵。
 若い頃から在郷商人として商売に励み、財を成した。
 この地区は山が迫り、カヤなどが茂るだけの荒地が広がり、“あわ”や“ひえ”、良い所でも麦や蕎麦しか収穫できない土地だった。
 商売で他の地を訪れるたびに、村人に美味しい米を食べさせたいとの願いが強くなっていく、
 大川から水を引くことを決意、役所や村人と相談を重ねる。
 文久 2(1862)年、私財を投げ打って工事に着手する。
 固い岩を掘り進めるなど、予想を遥かに超える難工事であった。
 慶応 2(1866)年、大雨により洪水で、堰が決壊してしまう。
 慶応 4(1868)年、戊辰の役で、中断を余儀なくされる。
 明治 3(1870)年、堰を深くしたり水の流れの向きを変えるなど、設計を大幅に見直し、工事を再開する。
 明治16(1883)年、総延長約2キロの豊成堰 (円蔵堰) が完成する。
 私財2千5百両 (1億1千万円強) を注ぎ込み、人夫延べ2万人強を動員し、工期21年を要する難工事であった。
 明治17(1884)年 60ヘクタールもの水田が集落を囲むのを見届け、堰が完成した翌年に死去した。

弓田円蔵の顕彰碑  岩上神社に顕彰碑がある。
 ▲(下郷町豊成字屋根畑554)

岩上神社

結城牧秋 湯田玉水 弓田亨      

ツールチップあり .
[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]