墓域は、本堂から離れた田んぼの中にある。
墓碑は朽ちかけているが、両名とも殉難者 (戦死?) と伝わる。
詳細不詳。
本堂裏の少し離れた墓域にある。
募兵に応じ、敢死隊に入隊。
白虎隊とともに戸ノ口原に出陣。
慶応4(1868)年8月23日、笹山で戦死。
41歳。
▲(会津若松市北会津町下荒井16 Tel. 0242-58-2261)
・宝寿院については、こちら。
慶応4(1868)年8月23日に城下へ乱入したが悪逆非道を繰り返す大混乱の最中、医師/河村謙益の妻は幼子/季四郎を見失った。
開城後にも必死に我が子を探し回るが見つからず、悲嘆に暮れて同年10月6日に申し訳ないと自殺した。
墓碑には「川村」とある。
「川村謙益妻高知氏 同末児季四郎 墓」
▲(会津若松市北会津町二日町字五百川原)
明治23(1890)年4月、武術修練所 (通称/角場) の跡地に、松平容大公の篆額による記念碑が建立された。
裏面に戊辰の役による12名の戦死者名が刻まれている。
道標「館ノ内村」や時計台の傍ら。
▲(会津若松市北会津町中荒井729辺り)
8月23日、城に入らない藩士の家族や町人など数万人が、西方の山野へ逃れるべく 大川 (阿賀川) の船渡し場に殺到したので、渡し場の至る処で大混乱した。
川幅が広く、流れも急なため架ける事ができず、当時の往来は渡し舟を使っていた。 折り悪く、前日の暴風雨 (台風) の影響で水嵩が増し、濁流と化していた。 城下町から逃れようとする老人や婦女子たちが、川岸にあった多くの小舟に先を争って乗り込んだ。 過剰に乗り込んだ重さのため、川の中程で転覆する船が続出する。 溺れる者を助けようとするが、その舟も人を満載しているので助ける事ができない。 舟に乗れない者の中には、衣類を脱いで泳いで渡ろうとし、溺れる者も数多く出た。 大混雑の中、希望を失せて、濁流に身を投じる人々まで出る有様だった。 そのような最悪の状態の中、溺死者が少ないのは、沿岸の農民たちが必死に溺れる者の救助にあたったからであった。 |
青龍士中一番隊/有賀隊付。
戊辰(1868)年9月14日、諏訪社で戦死。
26歳。
武術修練所跡の紀念碑に記載。
▲(会津若松市町北町中地)
慶応4(1868)年8月23日、蚕養口で戦死。
17歳。
▲(会津若松市河東町広田字塩新90辺り)
※ 線路脇
高畑村の農民。
農兵。
戊辰(1868)年9月18日、高畑で戦死。
36歳。
▲(会津若松市河東町谷沢字高畑47辺り)
熊野堂村の住人。
慶応4(1868)年8月20日、死去。
詳細不詳。
8月23日に石筵で戦死、17歳とも。
▲(会津若松市河東町熊野堂字村内)
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