内蔵助経周の長男。
修理と初代長崎市長/北原雅長の父。 家老。
慶応4(1868)年8月23日、守備をしていた六日町口郭門が破られたため、五ノ丁/土屋一庵邸で、家老/田中土佐と刺し違えて自刃した。
53歳 (52歳とも)。
「忠岳院殿賢道量義居士」
神保 修理 (2月22日、鳥羽伏見での戦線離脱の濡れ衣で切腹)
雪子 (8月25日、奮戦するも柳橋で戦死)
内蔵助 (8月23日、五ノ丁/土屋一庵邸で自刃)
井上 丘隅 (8月23日、甲賀町自邸で自刃)
トメ 〃
チカ 〃
ユミ 〃
最近になって建立。
神保修理は会津藩の逸材の1人で、白虎隊の生みの親でもある。
墓は、東京白金台/興禅寺にある。
「遺徳院殿仁道義了居士」
神保巌之助
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内蔵助の3男。
明治3(1870)年、豊津小笠原藩(小倉藩)に郡長正らと藩費留学。
郡長正の自刃の際、介錯をした。
明治4(1871)年5月1日、郡長正の自刃により帰藩したが、一緒に切腹しなかったことを、山川大蔵や永岡久茂たちから叱責されている。
4男/孝之は、柔道家/西郷四郎の養子となる。
実兄/北原雅長が長崎市長在任中に上長崎村長に就任。
甚三郎の養子。
朱雀足軽二番隊/小隊長。
慶応4(1868)年7月29日、二本松で戦死。
34歳。
「勇進院教譽義達居士」
名:直道。 初太郎の父。
番頭。
禁門の変、鳥羽伏見の戦いで奮戦。
慶応3(1867)年12月10日、京都御所守衛隊長の任を土佐藩に引き継ぎ渡し、大阪に退く。
戊辰(1868)年9月15日、城内二ノ丸で被弾し戦死。
57歳。
∴
青龍士中一番鈴木隊半隊頭。
慶応4(1868)年5月1日、磐城/白河で戦死。
40歳。
忠八郎とも。 藤沢内蔵丞忠啓の倅。
白井大砲隊として鳥羽伏見の戦いで奮戦。
その後、日光口、白河口、長命寺で戦っている。
戦後は、各地の警察署長・警視庁典獄を務めるかたわら、「会津藩大砲隊戊辰戦記」を著す。
昭和9(1934)年3月19日、死去。 83歳。
「元典獄 正五位勲四等藤澤正啓墓」とある。
白虎士中二番隊で生存した隊士。
明治35(1902)年9月6日、死去。
50歳。 墓碑には「啓治」
「純忠院義白虎勇居士」
常三郎とも。 左隅の弟。
慶応4(1868)年8月23日、米代四ノ丁で自刃。
23歳。
墓碑の中央に、「小平捨次郎」となっている。
本名 : 北村尚衛孝政。
大目付。
遊撃隊/小山田隊頭大目 (組頭)。
戊辰(1868)年9月14日、諏方社で負傷。
同27日に青木病院で死去。 49歳。
「清心院殿律学積義居士」
善龍寺との境にある。
庄太郎の父。
青龍士中三番隊/木本隊。
慶応4(1868)年5月24日、越後/杉沢で負傷。
明治2(1869)年4月12日に謹慎地/高田で死去。
42歳。
殉難者ではない可能性あり。
「十月十六日」 「遊顯院覺忠潔英居士」
詳細不詳。
「正月五日」 .
「勇道院通敏専義」 .
詳細不詳。 .