村内の2丁目20番地。
明治23(1890)年、土蔵の建物を借りて若松支店が開設。
安田銀行としては6番目の支店。
明治40(1907)年、新店舗として現/建物が会津若松市大町の地に落成。 火災に強い伝統的な土蔵造をもとに、玄関の石柱、石積の腰壁、鉄格子の窓など洋風のデザインが組み込まれている。
店内には、当時の金庫や電話室などが残されている。
昭和40(1965)年、移築。
平成15(2003)年、国の登録文化財に指定。
会津支店の近く (3丁目25番地) に、野口英世が助手として勤務した北里研究所の本館・医学館 (後に建築) が移設されている。
旧所在地 東京都港区白金
建築年 大正4年
移築年 昭和54年
建築面積 109.1 坪
構造 木造二階建スレート葺
≪博物館明治村≫
歴史的建造物などを収集・公開している野外博物館。
昭和40(1965)年3月18日、開園。
▲(犬山市字内山1 Tel. 0568-67-0314)
正保2〜3(1645〜1646)年、将軍/徳川家光が創建。
当時の住職は、天海大僧正の命による亮盛上人。
「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の6坊を有していたが、明治に入り分離・廃止され、浄蓮院だけが瀧山寺の本坊として残る。
東照宮本殿、幣殿、拝殿、透塀、鳥居、水屋などが重要文化財に指定。
保科正之奉献の燈籠 |
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参道の石段を上り切った本堂前の両側に保科正之が奉献した2基の燈籠がある。 「奉献上 石燈籠弐基 三州額田郡瀧山寺 東照宮大権現御寳前 慶安四辛卯年四月十七日 會津従四位上少将源朝臣正之敬白」 1つ隣りに、 「播州赤穂城主従五位下 浅野内匠守永直」 とあるが、有名な討ち入り時の藩主ではなく、赤穂藩初代藩主が寄進とのこと。 いずれにしても、赤穂と会津には何がしかの因縁があるようだ。 |
瀧山寺本堂の後ろに、日吉神社 (日吉山王社) が鎮座している。
正保2(1645)年、保科正之の兄/徳川家光が瀧山東照宮を建立の際に再建した建物だそうで、ずいぶん朽ちており、トタンで覆われていた。
▲(岡崎市滝町山籠107
Tel. 0564-46-2516/東照宮
0564-46-2296/瀧山寺)
元和5(1619)年、尾張藩初代藩主/徳川義直 (家康の9男) が名古屋城/三の丸に創建し、同年9月17日に天海大僧正が導師として創祀。
三之丸東照宮とも。
戦前まで、名古屋三大祭 (東照宮祭、天王社/天王祭、若宮八幡社/若宮祭) の中で最大の祭りだった。
現在では、出世開運・商売繁盛・厄除・学業成就・勝負運・金運・縁結びに御利益があると地元で評判とのこと。
▲(名古屋市中区丸の内2-3-37
Tel. 052-231-4010)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (44番) の1つ。
金鯱城、金城とも。
慶長14(1609)年、保科正之の祖父/徳川家康が9男/義直 (尾張藩) のために、天下普請によって築城。 大阪方への備えのために、東海道の要所に築いたと云われる。
明治4(1871)年、廃城。
、昭和27(1952)年、国の特別史跡に指定。
▲入場有料 (名古屋市中区本丸1-1 Tel. 052-231-1700)
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鶴ヶ城と同じく日本100名城 (45番) の1つ。 龍城、龍燈山城とも。 享徳元(1452)年、西郷稠頼と倅/頼嗣が築城。 康正元(1455)年とも。 保科正之の祖父/徳川家康は、この城内で誕生。 家康の産湯井戸や、銅像、遺訓碑などがある。 明治6(1873)年、廃城。 |
[逸話]
▲(岡崎市康生町561 Tel. 0564-22-2122)
景行天皇43(113)年に創建と伝わる。
織田信長が戦勝を祈願して、桶狭間の戦いで勝利したことでも有名。
その年の豊作を祈願する日本三大御田植祭の1つの御田植祭「夕田植え」。
◇ 昼田植え/
伊佐須美神社
◇ 朝田植え/伊勢神宮
▲(名古屋市熱田区神宮1-1-1
Tel. 052-671-4151)
平成元(1989)年、歴史のまちづくりとして、清洲城などを再建。
銅像は信長6歳の桶狭間出陣の雄姿を模したとのこと。
平成24(2012)年、傍らに寄り添うように正室/濃姫像が移設。
▲(清須市清洲古城448)
豊臣秀吉を主祭神として祀る神社。
明治18(1885)年、秀吉の生地に創建。
▲(名古屋市中村区中村町字木下屋敷68 Tel. 052-411-0003)
鶴ヶ城と同じ日本100名城 (46番) の1つ。
永正5(1508)年、菅沼元成が築城。
天正3(1575)年5月21日、織田信長と徳川家康連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千が激突した戦いで知られる。
鉄砲を駆使した信長軍の戦死者60人 (全戦いでは6千) に対して、武田軍は1万人を超える甚大な被害を出した。
これ以降、武田家は急速に衰退する。
城跡の一部は国指定史跡。
跡地に長篠城址史跡保存館がある。
勝頼の姉/見性院は、藩主/保科正之の養育母。
織田信長の次女/冬姫 (相応院) は藩主/蒲生氏郷の正室であり、6女/三の丸殿 (韶陽院) は氏郷の養女として豊臣秀吉の側室となる。[関連項目と併記]
▲(新城市長篠)
鶴ヶ城と同じく日本100名城 (43番) の1つ。
白帝城とも。
文明元(1469)年、織田広近が築城 (木ノ下城)。
元和3(1617)年頃、成瀬正成が現在の形に改修。
昭和10(1935)年、旧/国宝に指定。
昭和27(1952)年、国宝に再指定。
▲入場有料 (犬山市犬山北古券65−2 Tel. 0568-61-1711)
松平忠和は、松平喜徳の兄。
嘉永4(1851)年2月12日〜大正6(1917)年 (67歳)
幼名:余六麿。
父/徳川斉昭、養父/松平忠愛。
肥前島原藩/8代藩主 (最後)。
「信竜院殿潜山源英大居士」
▲(幸田町大字深溝字内山
Tel. 0564-62-1626)
保安4(1123)年〜平治2(1160)年1月3日 (38歳)
平安時代末期の武将。
父/源為義、母/藤原忠清の娘。
平治の乱で敗走し再起を図るべく東国へ向かうも、尾張国で入浴中に謀殺される。 「勝定寿院」
「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされ、石塔には無数の木刀が供えられている。
源義朝の側室が佐原義連の妹。
織田信長の3男/信孝や、平清盛の継母/池禅尼、腹心の家来/鎌田政家と妻の墓が取り囲んでいる。
血の池 平治の乱で敗れ、野間に落ち延びた「源義朝公」。 謀反を起こした家来「長田忠致・景致」により殺された「源義朝公」の首を洗った池。 |
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国に変事が起こると、池の水が赤くなるといわれている。 |
慶長15(1610)年、清洲越しで城下町ごと総見寺も名古屋に移り、遺跡となる。
正保元(1644)年、総見寺址に総見院として再興された。
寺宝として織田信長焼兜 (伝) を所蔵とのこと。
▲(清須市大嶋1-5
Tel. 052-400-3322)
かつての上菱野城の郭内に建立された石碑。
(尾張山口城とも、山口町から矢形町の一帯)
寺伝に「天正元年六月二十六日甲州太守武田大膳太夫信玄公法性院殿機山玄公大居士 当所尊体を埋む」の記載があるとのこと。
4月12日の死去とされる日にちとは合わず、立ち寄ったか、死去の噂を聞き賜っていた遺品とともに供養した、ともされる。
墓とされる碑は大名とは思えないほど小さいが、秘していたことを考慮すると納得か。
傍らに重臣筆頭/馬場信房の塚がある。
▲(設楽町田口字居立19 Tel. 0536-62-1555)
かつての上菱野城の郭内に建立された石碑。
(尾張山口城とも、山口町から矢形町の一帯)
[逸話]
▲(瀬戸市矢形町)
寛永2(1625)年7月29日
〜元禄13(1700)年10月16日 (76歳)
幼名:五郎八、五郎太。 初名:徳川光義。
尾張藩主/徳川義直の長男、母/歓喜院。
尾張藩/2代藩主。
「瑞龍院殿天蓮社順譽源正大居士」
徳川光友の正室/千代姫が、藩士/岡重政の孫 (曾孫とも) であり、保科正之の兄/徳川家光の長女。
▲非公開 (名古屋市東区筒井1-7-57
Tel. 052-935-3845)
天正11(1583)年、織田信長の次男/信雄が父の菩提を弔うため、伊勢国大島村/安国寺を清洲城下に再興し、総見寺として創建。
慶長16(1611)年、現在の地に移る。
境内には信長・信雄の廟。
寺宝として織田信長画像を所蔵とのこと。
▲非公開 (名古屋市中区大須3-23-38 Tel. 052-264-1116)