《岩屋観音との追分道標》 岩屋山上にあった岩屋観音 (今は照谷寺の境内に移築) との分かれ道。 子授けの観音として、多くの人に信仰されていた。 「文化八辛未三月 右 たじま日光 左 いわや観音」 |
面川宿
宝積寺口から南へ出て、大川沿いを進む。 最初の宿場。 |
《面川荒川の道標》 「若松駅へ一里三十三丁廿間五尺 田島日光街道 上三寄駅へ一里九丁廿四間三尺」 |
香塩宿
参勤交代の際に、藩主が休憩する御殿が設けられていた。 |
小塩宿
闇川橋をわたった先の宿場。 これから、舟子峠を越える。 |
小出宿 (下郷町)
桑原宿と同じく大川湖畔にあるが、水没を免れた。 桑畑宿との間に大川の渡船場があり、多くの旅人が足を休めた。 |
弥五島宿 (下郷町)
主な任務は、小出宿と松川宿への継ぎ送り。
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《赤岡地蔵堂前の道標》 「右ハ のぎわ道 和田村 左ハ やま道 寶暦十四癸未 (甲申?)」 |
《大松川の 首なし地蔵》 |
駐車スペースから200メートルほど入る。
《上之村道標》 「右 のぎわ 左 せひし (勢至堂)」 |
《杉ノ沢の道標は、 消滅 》 |
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《田島道との別れ道/観世音道標》 「右 松川 みち 左 たじま みち」 |
《観音沼手前の観世音道標》 「天保八年 右のキハ○○ 閏四月十七日 左○○」 |
観音沼の駐車場近くの笹薮の中に、2基の名残りが残っている。
「一里塚 (松川街道) 左二十米」が目印。
野際新田宿(野際新宿) (下郷町)
元禄8(1695)年、会津藩は氏家を結ぶ松川街道を新たに開削し、藩境の険しい大峠の両端に宿を新たに設けた (北側に野際新田宿、南側に三斗小屋宿)。 |
《戊辰戦争で焼け残った家》 |
《倉沢の石像群》 |
《奥州駒返し坂》 「元禄八年 奥州駒返坂」 |
《有賀左司馬戦死之地》 |
《日暮の滝》 |
三斗小屋宿 (黒羽藩領)
元禄8(1695)年、会津藩は氏家を結ぶ松川街道を新たに開削した。 険して藩境の大峠は険しく登り口に宿を設ける必要があったが、黒羽藩は費用の用立てができず、会津藩が宿駅を整備した。 |