会 津 若 松 市 の 見 ど こ ろ
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建福寺で眠る魂魄 (ネットで墓参)
▲(会津若松市建福寺前7-3 Tel. 0242-28-3892)
・建福寺については、こちら。
幼名は千松、後に左衛門、波門、晩年には如弓と称した。
幼き頃から天象、地理に長じ、文政10(1827)年に蝦夷、相州/浦賀の調査と天文学の習得を命じられる。
最先端の知識を得たが、当時は誰も理解できなかった。
◇ 陰暦と陽暦の関係や、違いについて解説。
◇ 「この地下に、日本の数百倍も大きいアメリカ州がある」
安政元(1854)年6月29日に病没、67歳。
「[禾+皇]堂霞賓居士」、後に神式に改め「[禾+皇]堂神霊」
彦太夫、後に弥三左ヱ門、弥一右衛門、尚房とも称する。
福島で医業を営む伯父の養子となるが、剣を目指し、若松に戻る。
自ら太子流と名乗り、心清流も極め、太子流師範に就く。
享保16(1731)年に病没、74歳。
「吹毛智劍信士」
目印の木標がある。
丈左衛門、後に安道と称す。
剣術の太子流、眞天流、一刀流溝口派と、生涯にわたって剣術の奥義を追求し極め、会津藩溝口派一刀流の始祖とされる。
享保2(1717)年、番代外様士に就く。
明和4(1767)年2月2日に病没、80歳。
「量外丈仙居士」
目印の木標がある。
池上安康
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池上安通の次男。
兄/権之助 (安尋) が早世したため、指南役を継ぐ。
久五郎、後に安康と称す。
きたはら うねめ てるつぐ
天正16(1588)年、高遠藩主/保科正光の庶子として誕生。
幼名は仙千代、後に円敬に改める。
父/正光の長男であったが、後に正室 (真田安房守昌幸の娘) に男子が生まれたため、自ら保科の名を返上し北原家を興す。
父/正光の養子ととして高遠に入った保科正之公に仕え、山形藩、会津藩への移封に従う。
正之公とは義兄弟であるが、生前に口にすることなく、義弟/正之公を影ながら支えた。
会津入り後、徳川家康・秀忠の法要、大坂城での徳川家茂薨去、慶喜の二条城着任の際などで、正之公の名代を務めている。 義兄への感謝の意であったのだが、生い立ちを知らぬ藩内では様々な憶測が囁かれていたという。
延宝2(1674)年4月28日に病没 (90歳)。 「心王圓敬大居士」
恵倫寺と善龍寺の境に埋葬されたが、貞享年間に建福寺墓域となる。
以降の一族の墓もある。
一瀬勘助忠春
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寛永2(1625)年〜元禄10(1697)年
藩主/保科正経公に召し抱えられ、供番として仕官。
会津一瀬家の初代となり、勘助が通り名となる。
文武の教授にも就任。
長男/雑賀九郎左衛門忠の末裔には戊辰の役で大活躍の雑賀重村、次男/忠英の末裔に一ノ瀬大蔵がいる。
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