墓域は、国道400号沿いで、集落の始めにある。
西方周辺で戦死した第二遊撃隊/相沢隊士を4基の墓に埋葬、自然石と一部は無記名の木標であったと伝え聞く。
埋葬時には墓標の建立すらが許されず、後の区画整理などもあって、今となっては場所すら不明。
四人の合祀墓
慶応4(1868)年9月1日、西方で戦死。
≪高野源太郎≫ 玄蔵の伜。寄合。 29歳。
≪悪原作太郎≫ 勘之助の父。 38歳。
≪山際七五三≫ 永吾の叔父。 41歳。
≪赤埴定蔵≫ 平八の叔父。 54歳。 墓は大龍寺にもある。
三人の合祀墓
慶応4(1868)年9月1日、名入で戦死。
≪長谷川勝蔵≫ 勝太郎の弟。 20歳。
≪高瀬庄助≫ (柳津とも)。 伴助の弟。 25歳。
≪小櫃興三郎≫ (西方とも)。 38歳。
中野留五郎
慶応4(1868)年9月3日、西方 (柳津とも) で戦死。 半蔵の弟。 27歳。
宗川虎松
慶応4(1868)年9月1日、西方で負傷し、18日に大塩で死去。 熊四郎の伜。 17歳。
▲(三島町西方大字上原)