三淵隆衡は、故なき責任を一身に負って自刃した家老/萱野権兵衛の実弟で、家名が断絶させられたため三淵家を名乗る。
元々の墓は正受院にあったが、ここに移された。
本堂の横の3基の中央にある。
明治33(1900)年4月29日、死去。
「隆衡 明治三十三年四月二十九日」
初代最高裁判所長官となる隆衡の長男/忠彦 (三淵忠彦之墓)と、忠彦の3男/震三郎 (三淵震三郎家之墓) の墓が両脇に並び建つ。
なお、長男/章次郎が萱野家を継ぎ再興する。
山門の両脇の石柱から、寺名が剥がされていた。 目印は、本堂に掲げられている扁額「萬年山」。
▲(小田原市板橋820 Tel. 0465-22-6711)
天保14(1843)年、近江国/国友村で誕生。
新撰組隊士/近藤隼雄の実弟。
元治元(1864)年10月、隊士募集で新選組に入隊。
後に、伍長に就く。
鳥羽伏見の戦いで奮戦するも負傷、甲州勝沼の戦いを経て会津へ転戦。
母成峠の戦いの後、蝦夷地 (函館) へ向かう途中、仙台 (途中の米沢城下とも) で捕縛される。
戦後に釈放されると、川村三郎と改名する。
大正11(1922)年7月5日、死亡。 80歳。
「清壽院徹心正澄居士」。
▲(横浜市西区赤門町2-17 Tel. 045-231-4094)