偉     人     伝

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井深 大 (いぶか まさる) の略歴

 独自の製品開発に徹し電子技術者として、世界のソニーを築いた創業者。
 本田宗一郎氏と並ぶ、戦後日本を代表する技術系創業者でもある。

 生涯は、3つの時代に分けられる。
  ◇  人格形成の時代
    幼く父を亡くし、栃木から愛知へ。
    物心が付く頃に東京に転居し、再び愛知に戻り小学生時代を過ごす。
    母の再婚により兵庫に移り、中学生時代を過ごす。
    各地に移り住むが、その地を理解できる期間を過ごしている。
    様々な風土、対人関係などを身に付け、様々な視点から見れる土壌が形成される。
  ◇  天才技術者として開花
    大学在学中に「走るネオン」を発明し、天才発明家の片鱗を発揮し始める。
    会社を設立するや、一般消費者の利便性を追求した研究に没頭、次々に商品化。
    日本が電子化立国となる礎を築く。
  ◇  幼児教育に尽力
    事業が軌道に乗ってからは、幼児教育に邁進する。
    娘さんが知的障害児として生れたことも、契機だったのかも知れない。
    世界的な起業家にもかかわらず、著書の多くは幼児教育に関するものであった。
    胎児教育から、超能力への研究まで広げていった。

明治41(1908)年

 4月11日
 父/井深甫と母/さわの長男として、古河鉱業日光製銅所の社宅で誕生。
 栃木県 上都賀郡 日光町 字清滝 (日光市) 。
 父/甫 (たすく) は古河鉱業の技師で、若い頃に日本最古の一つである静岡県御殿場の発電所を設計しており、科学技術の素養がある人であった。
 
《井深 (たすく)》  重喬家の当主/井深基の倅。
 「新渡戸稲造の門下生で札幌中学から東京高等工業学校(通称・蔵前高等工業、東京工業大学の前身)の電気化学科に進んだ。学生時代に洋書を頼りに独力で小さな水力発電をつくったことを評価され、古河鉱業に採用された。
 5年後に日光製銅所に技師として配属された。 〜 〜 〜
 出勤途中、凍結した地面で転び腰を強打した後、結核性カリエスにかかってしまい、大が3歳の時に31歳の若さで亡くなった。
 (ソニーのパンフレットより)

明治43(1910)年    2歳 (数え3歳) 〜 〜

 父が死去したため、碧海郡安城町 (愛知県安城市) に住む祖父/井深基 (旧/会津藩士) へ引き取られる。 2歳 (数え3歳)。
 
《井深 (もとい)》  井深数馬の長男。 戊辰の役では朱雀隊として奮戦 (19歳)。
 父/井深数馬が戦死しため家督を継ぎ、井深家の分家/重喬家の当主となる。
 石山家の養子となり飯盛山で散った白虎隊士/虎之助は、基の実弟である。
 開城後は、斗南藩に移住。
 廃藩置県で斗南藩が消滅、長賊からの想像を絶する差別で転々とする苦労の後、北海道開拓使の役人となり、内務省直轄の北海道官僚/深野一三に重用される。
 明治35(1902)年、愛知県知事となった深野一三に懇願され、愛知県安城市に移住して、商工課長・郡長などを歴任し、多大な功績を残して この地で生涯を終える。
 引き取られた時は、教育関連の業務に従事していた。
 父を早く失い、父に代わる存在であった祖父/基の会津魂は、井深大の人間形成に多大な影響を与え、その後の基礎を築いたといわれている。
 日本女子大学を出て、進んだ考えの若い母は、武士道を貫く義父/基と合わなかった。
 自活の道を求めた母に連れられ、5歳から1年2学期まで東京に転居する。
 日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら、井深を育てた。
 母の勤める幼稚園から、日本女子大付属小学校の1年2学期まで通う。
 母方の祖父が病気になったため実家のある北海道苫小牧に転校する。
 間もなく、母が山下汽船の課長と再婚 (嫁ぎ先が神戸)。
 大正6(1917)年、数ヶ月後の2年生で再び愛知県へ戻り、しばらく祖父母の手で育てられる。
 安城第一尋常小学校 (安城市立安城中部小学校) を卒業する。
 この期間に、祖父から科学者だった父の話しを聞き、次第に科学への興味が芽生える。
 小学五年生になると、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区 (中央区) に転居し、猛勉強して兵庫県立第一神戸中学校を卒業する。
 浦和高校と北海道大学予科に落ち、第3志望の早稲田大学第一高等学院理科に入学。
 大きくなるにつれ、無線機製作などへ没頭していったという。

昭和8(1933)年    25歳

 第一早稲田高等学院を経て、早稲田大学理工学部電気工学科を卒業。
 卒業論文は、「変調器としてのケルセル附 光線電話」であった。
 在学中に「走るネオン」を発明し特許を取得するなど、天才発明家として名が知られていた。
 「走るネオン」は、後のPCL時代に出品してパリ万国博覧会で金賞を獲得している。

 写真化学研究所 (Photo Chemical Laboratory、通称 PCL、現/東宝) に入社。  25歳。
 井深大は、「ケルセルに関する研究成果」の特許申請手続きのため特許庁に出向いた。
 内容を見た審査官が、PCLの入社を勧め、自ら連れて行った。
 即座に採用は決まったが、井深大には入りたい会社があった。
 希望の東京芝浦電気 (東芝) の入社試験を受けたが、不採用だった。
 PCLからは、
  「責任を持たせて、好きにことをやらせるから、早くこい」
といわれ、気持ちは決まった。
 東京帝大卒並みの月給60円、その年末には90円になった。
 
 早稲田の時代、アマチュア無線の仲間/島茂雄の誘いで科学部に入ると、部長がテレビジョンの公開実験に成功した山本忠興教授 (日本の十大発明家の1人) であった。
 さらに、教授の長男と幼稚園時代の友人であった。
 この頃、親類の勧めで富士見町教会の信者となるが、山本も同じの信者であった。
 縁とは不思議なものである。

昭和10(1935)年    27歳

 自動車の免許を取得し、当時としては珍しいオーナー・ドライバーとなった。
 中古の「ダットサン」だったそうだが、1つの夢を叶えた。

昭和11(1936)年    28歳

 日本光音工業株式会社に移籍。
 ※ 朝日新聞/論説委員の前田多門の次女/勢喜子が井深大と結婚。

昭和12(1937)年    29歳

 日本光音工業株式会社の無線部長に就任。
 出品した「走るネオン」が、パリ万国博覧会で金賞を獲得。
 日中戦争が始まり、日本光音工業が測定器のる軍事工場へと変わってしまう。
 ※ 長女/志津子が誕生。

昭和15(1940)年    32歳

 もっと素晴らしい測定器を作るべく、早稲田時代の学友/小林恵吾を誘い、日本測定器株式会社を設立し、常務に就任 (社長:日本光音工業の社長の植村泰二、専務:小林恵吾)。
 日本光音工業が出資した軍需電子機器 (熱線誘導兵器) の開発に従事。
 ※ 次女/多恵子が誕生。

昭和16(1941)年    33歳

 太平洋戦争が始まり、陸海軍から注文が急増する。
 早稲田大学理工学部専門部工科講師として教壇に立つ。
 7年間、続ける。

 11月
 陸海軍の要望であった周波数選択継電器を開発。
 海軍は磁気による潜水艦探知機に応用し、航空機に搭載した。
 海軍901航空隊は、台湾やフィリピン海域で多くの潜水艦を撃沈する戦果をあげている。
 軍官民合同の科学技術の委員を委嘱される。
 この縁で、兵器研究の技術者交流である官民共同「戦時科学技術研究会」にて、海軍技術中尉/盛田昭夫氏と運命的に出会う。

昭和19(1944)年    36歳

 国内にも戦火が及び始め、工場を月島から長野県須坂へ疎開させる。

昭和20(1945)年    37歳

 ※ この年、昭和20(1945)年、長男/亮が誕生。
 8月
 海軍技術将校で終戦を迎える。
 敗戦の数日後、長野県須坂町に疎開していた「日本測定器」を戻すため上京する。
 日本橋大通りで、完全武装した米軍の自動車の行列に出会う。
 その時、痛感した。
  「日本は科学技術で負けたのだ。 科学技術で日本を立て直すしかない

 10月
 行動は、素早かった。
 東京日本橋の旧/白木屋店内の3階配電盤室に、第一神戸中学校の先輩の支援を受け、ソニーの前身である「東京通信研究所」を個人企業として設立。
 最初に手掛けた短波受信機が、朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された。
 次に手掛けた電気炊飯器は失敗作の第1号となったが、事業は徐々に軌道に乗る。

昭和21(1946)年    38歳

 5月
 「東京通信研究所」を株式会社に改組し、「東京通信工業株式会社」に改称。
 終戦まで文部大臣をしていた義父の前田多門を社長とし、井深が賀技術担当の専務、盛田昭夫が営業担当の常務に就任した。
 盛田はGHQの公職追放で職が無く、偶然にも朝日新聞のコラム「青鉛筆」に東京通信工業が掲載され記事を読み、会社設立に合流したのである。
 前田多門も、公職追放されていた。

 資本金19万円で、社員20数人でのスタートであった。
 電気マット(電気座布団)などを販売。
 新しい技術開発にチャレンジし、ユーザーの生活を豊かにする新商品を造り出し、世界的な大企業に成長していく。
   「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快な
    る理想工場の建設
     〜〜〜
    会社の余剰利益は、適切なる方法をもって全従業員に配分、〜〜〜


 この年、受注が増えたため、長野工場 (長野県小布施村) を開設。
 次いで、白木屋の売り場拡張で立ち退きを迫られ、事務所を銀座へ、東京工場を吉祥寺と三鷹台へ移転させた。
 さらに、占領軍の統制下にあったNHKから軍用無線機を放送用の無線中継受信機に改造する大きな仕事があり、品川の御殿山に移転。

昭和22(1947)年    39歳

 10月
 NHKを統括していた米軍の将校からテープレコーダーを試聴し、製作することを決心。

昭和25(1950)年    42歳

 東京通信工業の社長に就任し、盛田が専務になる。

 8月
 苦難の開発の末、国産初のテープレコーダー「G−1型」を発売。
 小売価格16万円 (現在の3百万円位) と高価のため販売不振。
 どんな便利なものでも消費者の立場が必須と悟り、小型の普及機に方向転換する。
 全国の小中学校から、注文が殺到しはじめる。
 さらに、占領軍の統制下にあった電波が民間に開放され、全国でラジオの開局ラッシュが始まり、業務向けも注文が殺到する。

昭和26(1951)年    43歳

 改良普及型テープレコーダー「H型」を発売 (後に通産大臣賞を受賞)。
 次いで、携帯用のテープレコーダー「M−I型」を発売、通称/デンスケとして大ヒット。
 全国の小中学校から、注文が殺到しはじめる。
 さらに、占領軍の統制下にあった電波が民間に開放され、全国でラジオの開局ラッシュが始まり、業務向けも注文が殺到する。

昭和27(1952)年    44歳

 3月
 米国でのテープレコーダー普及状況を調査するため渡米。
 車の洪水を目の当たりにして、米国の国力を痛感する。
 最先端技術を開発しなければ、日本の再生は無い、と悟る。
 実用化は無理と考えられていたトランジスタの開発を決意。

 帰国後、時期尚早との周囲の反対を押し切り、開発を着手し推し進める。
 後に井深は、「よそにないものをつくる」の夢に賭けたが、この時代が最も苦しかったと振り返っている。

昭和30(1955)年    47歳

 米国で開発されたトランジスタの国内生産に成功。

 8月
 本格的なトランジスタ・ラジオ「TR-55」を、商品名「SONY」として発売。
 電子立国である現在の日本の基礎を築くスタートであった。

昭和31(1956)年    48歳

 世界最小のポケッタブルラジオ「TR−63」が完成。
 さらに改良し、イヤフォン方式やハンディタイプなど次々に新製品を出荷。
 乾電池で聞けるトランジスタ・ラジオは、台風シーズンには、瞬く間に完売した。

昭和32(1957)年    49歳

 3月
 スピーカー付きポケットラジオ「TR−63型」を発売。
 世界最小で感度も良く、消費電力も従来の半分であったため、 大人気のヒット商品となる。
 米国の雑誌「ポピュラーサイエンス」に取り上げられるや、米国でもヒット商品となり、クリスマス商戦では完売が続き、チャーター便で納品するほどだった。
 電気製品での輸出の第1号といわれている。

昭和33(1958)年    50歳

 商標名であった「SONY」を、正式な社名 「ソニー」 に改称。
 社員20数人でスタートした会社は、4千人を超えていた。
 トランジスタの大成功にもかかわらず。開発への挑戦は衰えなかった。
 輸入に頼るゲルマニウムから、無尽蔵にあるシリコンのトランジスタ開発に向かう。

昭和34(1959)年    51歳

 ソニーに、全国の小学校を対象に「ソニー理科教育振興資金制度」を設ける。

昭和36(1961)年    53歳

 トランジスタ・テレビの開発に成功。
 世界初の直視型トランジスタ・白黒テレビ「TV8−301型」を発売。
 評判にはなったものの、売れ行きは今一歩であった。

昭和37(1962)年    54歳

 日本映画・テレビ録音協会の初代名誉会員に選出される。
 「TV8−301」を小型化・高性能にした5インチのマイクロテレビ「TV5−303」を発売。

 10月1日
 ニューヨークにショールームを開設し「TV5−303」を発表すると、瞬く間に米国で大ヒットする。

昭和39(1964)年    56歳

 世界初の家庭用白黒ビデオ・テープレコーダーを発表し、翌年から発売。

昭和40(1965)年    57歳

 長い間別居していた妻/勢喜子と協議離婚し、親族/黒沢正徳の次女/淑子と再婚。

昭和42(1967)年    59歳

 トリニトロン・カラーテレビが完成。 クロマトロン方式にチャレンジし失敗の連続であったが、その過程で開発に成功した方式だった。
 日本初から世界初の開発力を持つ会社になっていた。
 この頃から、技術立国には幼児教育が欠かせないと考えるようになっていく。
 さらに、母親の重要性へと打ち込んでいく。

昭和44(1969)年    61歳

 これまでと全く違うシステムのカラーテレビ「トリニトロン KV-1310 」を発売、優位性を確実にした商品であった。
 この商品はヒットし、これまでの開発料を償却できたという。

 財団法人幼児開発協会を設立し、理事長に就任。
 これ以降、残りの生涯を幼児教育の情熱に注ぐ。
  「この人の能力はこれだけだと決め付けていたら、その人の能力は引き出せません

昭和46(1971)年    63歳

 ソニー代表取締役会長に就任し、社長を盛田に譲る。

昭和47(1972)年    64歳

 ソニー教育振興財団を設立し、理事長に就任。
  「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない< 母親は子供にとって偉大な芸術家であり、医者でありますが、何よりもすぐれた教育者であってほしい

 3月
 電子工学関係で世界最大の学会「IEEE (電気電子学会)」からファウンダー賞が贈られる。
 米国人以外での受賞は初めてであり、同賞が設けられたから15人目の授賞であった。

昭和51(1976)年    68歳

 ソニー取締役名誉会長に就任。
 国鉄の理事に就任。
 発明協会の会長に就任。

昭和52(1977)年    69歳

 ソニー名誉会長に就任。

昭和54(1979)年    71歳

 ウォークマンが発売され、世界中にヒットした。
 
 音楽を聴くのが好きな井深は、海外出張の際にも、教科書サイズの小型ステレオ録音機を持ってヘッドホンで聞いていた。
 再生機能だけで良いから「手のひらサイズ」が欲しいと副社長/大賀典雄に伝えた。
 これがきっかけで、ウォークマンは誕生した。
 日本オーディオ協会の会長に就任。
 早稲田大学から名誉博士(Doctor of Science)が贈られる。

昭和60(1985)年    77歳

 ボーイスカウト日本連盟理事長に就任。
 77歳。

昭和61(1986)年    78歳

 勲一等旭日大綬章を受章。
 78歳。

昭和62(1987)年    79歳

 鉄道総合技術研究所の会長に就任。

平成元(1989)年    81歳

 文化功労者に選ばれる。

平成2(1990)年    82歳

 ソニーファウンダーを創業し、名誉会長に就任。

平成3(1991)年    83歳

 エスパー研究所をソニー社内に設立。
 「超能力者」の透視能力やテレパシーの実験、科学的に「気」を検証するなど科学の枠を超えた東洋的な考えに傾倒。
 エスパー研究所は、没後の翌年に閉鎖された。

平成4(1992)年    84歳

 産業人として初の文化勲章を受章。

平成6(1994)年    86歳

 ソニーファウンダーの最高相談役に就任。

平成9(1997)年    89歳 (享年90歳)

 12月19日
 急性心不全により、自宅 (東京都港区三田) にて死去。
 身体は不自由だったが、逝去直前まで頭脳は はっきりしていたという。
   「小さい会社を作って、またいろいろチャレンジしたいね
 墓は、多磨霊園にある。

 同年、勲一等旭日桐花大綬章を没後受勲。
  「日本のエレクトロニクス産業などの製造業発展の基礎を作るとともに、若手技術者育成
   に活躍し、多くの国民に自信と勇気を与えた」

 世界のソニーの創業者なのだが、集合住宅に住んでいた。
 盟友である盛田の自宅は、大邸宅なのに。

会社設立の目的
一、 真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想
   工場の建設
一、 日本再建、文化向上に対する技術面、生産面よりの活発なる活動
一、 戦時中、各方面に非常に進歩したる技術の国民生活内への即事応用
一、 諸大学、研究所等の研究成果のうち、最も国民生活に応用価値を有する優秀なるも
   のの迅速なる製品、商品化
一、 無線通信機類の日常生活への浸透化、並びに家庭電化の促進
一、 戦災通信網の復旧作業に対する積極的参加、並びに必要なる技術の提供
一、 新時代にふさわしき優秀ラヂオセットの製作・普及、並びにラヂオサービスの徹底化
一、 国民科学知識の実際的啓蒙活動
   信条 「たわいない夢を大切にすることから、革命が生まれる。」

 井深の姓は、会津藩にしかいない。
 斗南藩消滅により、藩士たちは全国に散っていった。
 井深家も、その1つである。
 旧/会津藩士の履歴を隠さねば、生きることかすら困難な時代であった。
 井深家の墓域は、大窪山墓地善龍寺などにある。
 大窪山墓地には、7か所ほど広い墓域が点在しており、巨大な墓石が林立している。
 飯盛山で自刃した白虎隊士/井深茂太郎や、石山家に養子となった虎之助は一族であり、国際的に著名な井深八重も一族の子孫である。
 [閑話]
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