慶長16(1611)年、後陽成天皇の勅命により天海大僧正が現在地に移築し、再興を開始。
寛文5(1665)年、天海の遺志を継いだ高弟/公海により再興が完成。
公海は、天海大僧正の没後、寛永寺に移住し、東照宮のある日光山も管領するが、この地で没した。
大宝3(703)年、行基菩薩が出雲寺として創建と伝えられる。
延暦13(794)年に最澄とも。
本尊は、毘沙門天。
護法山安国院出雲寺とも言う。
天台宗京都五箇室門跡の一つ。
▲(京都市山科区安朱稲荷山町18 Tel. 075-581-0328)
現在では、こじんまりした建物だが、創建当初は日光東照宮に比すべき荘厳であったと云う。
住職/以心崇伝の吉田神道「明神」は、天海大僧正の主張した山王一実神道「権現」と争い敗れた。
応永年間(1394〜1427)、室町幕府4代将軍/足利義持が創建し、大業徳基 (南禅寺68世) が開山。
徳川家康の信任が篤く、駿府城や江戸城にも開かれた。
▲有料 (京都市左京区南禅寺福地町86-12 Tel. 075-771-3511)
東山区と中京区を結ぶ三条通の鴨川に架かる橋。
慶長8(1603)年、天海が発案した東海道五十三次の終点。
川岸「三条河原」は、処刑や晒し首の場所だった。
東海道中膝栗毛の主人公「弥次さん喜多さん (弥次郎兵衛と喜多八)」の銅像があり、「撫で石」を撫でると縁起が良いとのこと。
平成6(1994)年の建立で、三条大橋西側の下流側にある。
天海大僧正が、大坂の役のきっかけとなる方広寺鐘銘事件を不問に付すよう進言したという。
[逸話]
宗家/蘆名氏の滅亡などを体験し、再び戦乱の世を避けたかったからと伝わる。
梵鐘「国家安康・君臣豊楽」は、慶長17(1612)年に三条釜座の鋳物師/名越 (名護屋) 三昌らによって制作された。
昭和43(1968)年に重要文化財に指定され、日本三大名鐘 (東大寺・知恩院) の1つ。
天正14(1586)年、焼き討ちで焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を豊臣秀吉が発願。
文禄4(1595)年、大仏を安置するための寺として豊臣秀吉が創建し、古渓宗陳が開山。 天台宗。
弥次さん喜多さんが「手のひらに畳が八畳敷ける」「鼻の穴から傘をさして出られる」と驚き、御堂の柱の穴を見つけた弥次さんがくぐり抜けようとするが脇差しのがつっかえて抜けなくなった寺でもある。
▲(京都市東山区茶屋町527-4 Tel. 075-561-1720)
天海大僧正は伏見城に赴き、武家諸法度違反に問われていた福島正則の嘆願書を徳川秀忠に呈した。
すぐさま秀忠は聞き入れ、信州/川中島に厳封されたが存続は許された。
文禄元(1592)年、豊臣秀吉が築城 (指月伏見城)。
地震で倒壊したため、慶長2(1597)年に近くの木幡山へ新たに築城 (木幡山伏見城)。
慶長3(1598)年、秀吉が城内で没。
子/秀頼は大坂城へ移ったため、徳川家康が入城。
慶長7(1602)年、保科正之の曽祖母/於大が城内で没。
元和5(1916)年、廃城。
昭和39(1964)年、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として模擬天守が建設された。
閉館に伴い京都市に贈与され、伏見桃山城運動公園として開放されている。
▲(京都市伏見区桃山町大蔵45)
宝亀9(778)年、延鎮が開基と伝わる。
音羽山 、北法相宗大本山。
本尊は、千手観音。
寛永8(1631)年、天海大僧正により寛永寺境内に清水寺を模した清水観音堂が建立された。
琵琶湖を模した不忍池も造っている。
▲(京都市東山区清水1-294 Tel. 075-551-1234)