兄の将軍/家光から委託された遺言を忠実に守り、11歳の家綱の後見人として幕政に全精力を注ぐ。 武力による「武断政治」から、信頼関係を基本とする「文治政治」へと転換させ、その後の長きにわたる平和な徳川幕府の礎を築いた。 家光との約束を守るべく23年間も藩には家老へ指示をするだけで、帰国できなかったため遺構は少ないが、天命を全うし磐梯山の見祢山で安らかに眠っている。 保科正之公の略歴については、こちら。 |
元々は天寧寺の湯であったが、保科正之公の入府で一般庶民に解放された。
藩の湯治場としても整備され、その後は奥座敷として発達し、大いに栄える。
▲(会津若松市東山町湯本〜石山)
↓ 東山温泉入口の駐車場から 徒歩380m
↓ 2. 5 Km
保科正之公に従って会津へ移って来た“お供寺” ただし、戊辰の役で焼き払われ、灰燼に帰した。 現在の建物は、明治以降に再建されたもの。 建福寺▲(会津若松市建福寺前7-3)・鶴ヶ城から 1.8 Km 淨光寺▲(会津若松市宝町4-25)・鶴ヶ城から 0.8 Km 善龍寺▲(会津若松市北青木13-33)・鶴ヶ城から 2.7 Km 大龍寺▲(会津若松市慶山2-7-23)・鶴ヶ城から 2.4 Km 大法寺▲(会津若松市御旗町1-9)・鶴ヶ城から 1.8 Km
埋葬地3ケ所を選定
学問所/稽古堂 竹巌廟に五輪塔寛文5(1665)年、先封/蘆名盛氏公などの竹巌廟に、新たな五輪塔を建立。▲(会津若松市門田町 大字黒岩字花見ケ丘76−2) ・鶴ヶ城から 1.9 Km |
↓ 460m
山鹿素行/生誕の地
寛文6(1666)年、戦国時代に当たり前だった下剋上の風潮を終わらせるべく、江戸幕府の朱子学を山鹿素行が非難。
「武断政治」から「文治政治」へと転換するために採用した官学/朱子学を守るべく、山鹿素行を赤穂藩預けの処分とした。
山鹿素行の略歴については、こちら。
▲(会津若松市山鹿町1-25)
↓ 6. 6 Km
本郷焼
正保2(1645)年、保科正之公が瀬戸 (愛知県) 出身の陶工/水野源左衛門らを招き、本格的な陶器の基礎が築かれた。
先の藩主/蒲生氏郷公が鶴ヶ城改修で起業させていた。
公共駐車場は、「会津美里町インフォメーションセンター」を始め、街中の所々にある。 もちろん無料。
▲(会津美里町字瀬戸町 旧/本郷町)
↓ 30. 6 Km (磐越道を利用なら 37. 2 Km)
↓ 4. 8 Km