県道7号から角を曲がると、緩やかな坂道の先に純白な鳥居が見える。
鳥居の手前、参拝の際の歴代藩主/休憩所 (積慶寮) のあった場所に、近年、駐車場・トイレが設けられた。
現地板(135KB)
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世界的に有名な医聖/野口英世の恩師/小林栄が学んだ見弥山幼学所があった場所でもあるとのこと。
明治11(1878)年12月1日建立。 .
松平容保の撰文ならびに題。 .
奔雷瀑 カエルが、瀧を護っている。
土津神社は、二代将軍秀忠の第四子 会津藩松平家の初代藩主 保科正之公 (一六一一〜一六七二) をお祀りした神社である。
正之公は吉川惟足、山崎闇斎、横田俊益等 当時の最高学者を師とせられ殊に当時殆んど絶えなんとした日本古来の卜部神道の大家 吉川惟足を師とせられ 四重の奥秘を受け継がれ体得されると共に領内の政治、産業、文化、教育、武道の基盤を定められ、是が実践を図られた。
幕府には神道方を置き、神道精神の復興に大きな貢献をされた為、土津霊神の霊号を受けられたのである。 記
祭神 土津大明神正之公の霊号 相殿客神 高良玉垂
武内宿称の神号 相殿合祀 三代〜九代歴代藩主
亀石 (保科正之公の石碑)
日本最大の石碑で、亀跌が支えている。 ∴ .
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字数 一、九四三文字、日本最大のものである。 碑石高 五m四五 (一丈八尺) 幅 一m八三 (六尺) 厚 一m五一 (五尺) 重量 三〇屯余 (八千貫) 台石 (亀石) は土町、碑石は河東村八田野より採石す。 |
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会津初代藩主保科正之公の履歴を刻んだ石碑で、碑文は山崎闇斎が選文し、字数は一九四三、筆者は当時 第一等の能筆家 土佐左兵衛高庸である。
神社の碑石としては日本最大のもので石柱の高さ一丈八尺、幅六尺、厚さ五尺余、土台の亀石は長さ一丈六尺、幅一丈一尺三寸、厚さ二尺五寸で、竿石は八田野 (河東町)、亀石は猪苗代町土町の東から取り出した。
伝説によると、始めの亀石は南向きに置かれたが、眼下には猪苗代湖が見え、亀は一夜のうちに湖まで這い出してしまった。 そのため亀を北向きにしたところ、二度と這い出すことはなかったという。
亀は中国伝来の瑞獣の一つで、松平家の将来の繁栄を祈願したものと考えられる。
猪苗代町教育委員会 (平成八年二月設置)
この右の方向の傍らにも、駐車場がある。
先の石段が男坂、右手が女坂。
秋篠宮悠仁親王の健やかな成長を願う高野槇が植栽されている。
・徳川家や会津松平藩「葵の御紋」のもとである二葉葵
・保科正之公の分霊を祀っている琴似神社から奉納の2樹
その他にも、畑俊六の奉稙1樹
、小泉純一郎 などの著名人も数多く植栽している。 |
御神符頒布所、各種御祈祷受付所。
奥が、土津神社社務所。
とても冷たく、心まで洗われる。
日光東照宮と比されるほど絢爛豪華であったが、惜しむらく戊辰の役ですべて焼失し、現在の建物は明治以降に再建されたもの。
こちらも戊辰の役ですべて焼失し、現在の建物は明治以降に、慎ましく再建されたもの。
拝殿脇の末社裏から、正之公墓所への奥之院参道がある。
今回は車で向かうため、駐車を停めた所へ戻ろう。
「参道石畳遺構解説」の現地板(245KB)
The ancient approach to the grave of Masayuki Hoshina, the first Aizu lord
道なりに山麓を上る。
左手に土津神社、右手に磐椅神社の間の道路を通過。
やがて、奥之院参道を横切る。
奥之院参道を横切って、すぐに右の方へ道なりに進む。
まもなく、正之公墓所の脇にある駐車スペースに至る。
直線距離では500メートルもないが、迂回するので1キロ強。
会津藩初代藩主 保科正之公は寛文十二年 (一六七二) 十二月十八日江戸において、六十二歳で亡くなられた。 正之公は「我 死せば磐椅神社の末社となりて永く奉仕せん」と自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる磐梯山麓に決めていたので、二代藩主 正経は遺言どおり墳墓の造営にあたった。
最初 南北六十間 東西五十間を整地し、その中央に小屋を建て棺を安置し、その周囲 南北三十間 東西三十二間に柵を作り四方に鳥居を立て、三月二十六・二十七の両日にわたって葬儀をとり行なった。 その後 棺の所に円墳を築き頂上に「土津神墳鎮石」と刻んだ八角形の鎮石を建てた。
平成23(2011)年3月11日の東日本大震災で、墓域にある左側の石灯籠が転倒した。
「災害復旧」の現地板 (206KB)
Restoration work in 2013
明暦3(1657)年、“明暦の大火”の時、焼け出された庶民の救済に、幕府の蓄財のすべてを支出するなど、迅速な対応は見事なものであった。
居並ぶ老中や長老たちの大反対を押し切って、今でいう「ハコモノ」は要らぬと無駄な出費をさせず、江戸城の天守閣再建は着手すらさせなかった。
復興後、あれほど反発した老中たちも正之公の手腕に感服し、幕末まで天守閣が再建されることはなかった。
現政権下の無策を、どのような想いで見ておられていたであろうか。
被災地への支給が「“おにぎり”やパン、カップラーメン」と聞くにつけ、「お年寄りの炊き出しは粥にするように」 とまで指示した正之公の心配りが偲ばれる。