戊  辰  の  役  /  殉  難  者

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [メニュー]  [長命寺]

戊辰戦役 会津藩士戦死者之墓

会津藩士戦死者之墓

 慶応四年 (西暦一八六八年) 戊辰戦争中の八月二十九日、ここ長命寺付近で大激戦があり、会津藩側に多くの戦死者が出た。
 九月二十二日会津藩の降伏開城により戦争は終ったが、城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず、翌年の雪解けまで放置された。
 これを見かねた、時の長命寺住職幸師は、年の暮れに付近の遺骸を密かに埋葬した。 その総数は百四十五体といわれている。  墓碑は明治十一年四月になって、旧会津藩士七十五名の有志によって建立されたが、10余年が過ぎても碑面には「戦死墓」の三文字以外表示することが許されなかった。

財団法人会津弔霊義会    .


会津藩士戦死者之墓

戊辰戦争 長命寺会津藩戦死者の墓
 戊辰戦争中の慶応4年 (1868年) 8月29日、ここ長命寺付近で大激戦となり会津藩側に多くの死傷者が出ました。 9月22日の会津藩降伏開城後も城下の会津藩戦死者の遺骸は、新政府から埋葬が許可されず放置されたままでした。
 これを見かねた長命寺の住職、幸證師は独力で付近の遺骸140余体を集め寺内に埋葬し、翌年三つの塚を築き戦死之墓の墓標を建てました。
 現在の墓は、明治11年(1878年) 旧会津藩士75名によって建てられましたが、碑面に「戦死墓」の三文字以外表示することは許されませんでした。

当初、朽ち果てた遺骸は、ゴミを捨てるように処理された

 遺族が遺骸に触れることすら許されず、翌年になって埋葬を黙認されたが、賤民の手による埋葬しか許されなかったため、生き残った藩士/町野主水の指導のもと伴百悦・樋口清助・佐野貞次郎は自ら身を賤民に落とし、戦友の遺骨を収集し埋葬したのである。
  <附属> 佐藤吾八、奥村封次、石川須麻、樋口勇次 <伴> 飯岡藤助
 
 明治元年戊辰八月以来戦死の者 屍百四十五人 此処へ葬に 相成候事
 南北三間 東西壱間半ずつ壇を三ヶ所築立
 当己七月中出来に相成候。但、同所は八月廿九日討死の者 多分有之候由
一、八月廿七日より廿九日迄三日の間 八宗の僧侶を立て 寸志に大飢餓鬼戦死供供養相勤候事


 伴百悦らが埋葬した場所は、16ケ所であった。
  ◇ 阿弥陀寺  
  ◇ 長命寺 
  ◇ 一ノ堰光明寺 
  ◇ 馬入村 
  ◇ 滝沢峠 
  ◇ 金堀明神下 
  ◇ 強清水辺 
  ◇ 戸ノ口原 
  ◇ 野際村 
  ◇ 関山村 
  ◇ 大内村 
  ◇ 塩川 
  ◇ 猪苗代西円寺 
  ◇ 滝沢妙国寺 
  ◇ 赤留村北羽黒原 
  ◇ 坂下 
  ◆ 計16ケ所総数 2,033体 (1,634体とも)

「戦死之墓所麁絵図 (伴百悦)」    .

墓碑を建立した旧会津藩士75名

 率先して西南の役に参戦し、朋友の仇を返した者の想いが、今なお感じる。

  志田左一郎 東新介 樋口勇治 鈴木英明 清水永栄
 鈴木文吾小櫃彌市日野重晴岡田源吾大久保半蔵
 吉田勝吾鈴木半吾川崎彌力竹井四郎林寛之丞
 武藤彌八神尾虎之助早川宇門新城金吾大関多気衛
 安藤織之助野村唯三郎大竹幾馬永山弘道藤沢啓治
 須田新九郎石山又八蒲生小次郎福島直寿千葉盛胤
 小沢誠介松浦誠実鈴木保衛鈴木勘吾星勇太郎
 竹田重次佐々木八次郎水野軍吾外島八次郎小平佐隅
 藤田豊記宮下理三次大田重次原幸輔仁科義八
 牧正九大塚源太郎富田八重治高橋庄吾高橋久輔
 関清造諏訪栄木間進星清次川井善平
 宝田伝八山崎岩次郎石川勝次郎松永浅治佐野貞之進
 渋川政晴木村四郎佐久間直次郎荒川八郎伊与田政之進
 手代木勝吾粂覚三郎松永直治今田寅三郎原正朔
 安藤常成村岡長範中村賭介池上朝重草刈三郎
[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [メニュー]  [長命寺]