《仁平元(1151)年》
三条高倉に邸宅 (高倉館) があったことから、高倉宮と称される。
第77代/後白河天皇と母/成子 (藤原季成の娘) の第三皇子として京都の高倉で誕生。
兄/守覚法親王が仏門に入ったため、第2皇子とも表記される。
幼くして出家し天台座主最雲法親王に師事するが、応保2(1162)年に還俗 (12歳)。
《永万元(1165)年》
秘密裏に近衛河原の大宮御所にて元服。
《安元元(1177)年》
父/後白河法皇が平氏打倒を画策。
《治承 3(1179)年》
平清盛が「治承三年の政変」で京を制圧し、父/後白河法皇が幽閉・追放される。
以仁王の知行地/城興寺領も没収される。
《治承 4(1180)年》
4月 | 源頼政の勧めで平氏討伐を決意、全国の源氏に平氏追討の「令旨」を発する。 |
5月 8日 | 自らも最勝親王と称し挙兵を試みたが、計画が平氏方に漏れてしまう。 |
5月15日 |
平氏打倒は失敗し、土佐国への配流が決まる。 その日の夜、身代わりを残して園城寺に逃れ、そこも見つかってしまう。 |
5月26日 |
平家の家人/藤原景高や藤原忠綱ら追討軍によって南山城の加幡河原で5月26日に戦死とされるが、以仁王の顔を知る者はおらず、遺体も見つかっていない。 京都府の墓とされるものも、後世に造られたものである。 伝承では、平氏の追討軍に追われた以仁王が平等院で自害を決意した時、家来/足利又太郎忠綱が身代わりとなり討たれ、逃亡に成功する。 その場から逃走する際には、子/鶴丸と乳兄弟/六条助大夫宗信の2人だけを伴なって、女装して逃げたという。 ◇ 高倉神社 (京都府木津川市) この地の光明山寺の鳥居前で流れ矢に当たって死去との説。 ◇ 高倉神社 (京都府綾部市) 光明山寺で死去したと偽り逃走したが、 腹に受けた矢傷が悪化し当地で死去との説。 ◇ 高倉宮以仁王墳墓 (新潟県阿賀町上川/旧会津領) 会津へ逃れることに成功するが、追討軍に襲われ自決。 など様々な説も残っているが、会津に逃れたとの説が有力とされる。 さらに、明治に入り何としても会津を歴史から抹殺したい長賊の意向に与した福島県令の極悪人/三島通庸などが似非学者を使い、会津に伝わる資料を強制的に略奪し破棄した上で、似而非で偽造した結果を歴史として押し付けたが、良識ある学者の多くは東国へ逃亡したとの説を支持している。 似非学者は言い伝えが多く残る片品村 (群馬) や越後各地は調査しておらず、旧/会津藩領だけの内容であり、目的は真実の調査でないことは明らかである。 良心の呵責に苛まれたのか、後に事実を告白している。 「余高倉宮御墳墓の事の於いて疑いを懐く 〜 春日神 (山城国相楽郡綺田郷鳥居村) にして廟にあらず、古事によりて合祀するものにして御墳と認めるもの更になし。 ここに至り東蒲原郡東山村中山高倉嶺の御墳の真なるを信ずる也」 裏付ける貴重な資料を失ったので月日の経過以上に混迷してしまい、口伝のため日付などの矛盾もあるが数多くの伝承の中で、会津における行動の概要は下記のようである。 |
5月15日 |
源頼政が宇治平等院で戦死したため京の南から逃れ、源頼之の領地/小国へ向かうべく、東海道から甲斐・信濃・信州から碓氷峠を越え、上野国/沼田を経て尾瀬へ向かう。 大半が舟荷に紛れての川舟であり、バレる危険は少なかった。 |
7月 1日 |
沼田より沼田街道を通り沼山 (尾瀬ヶ原) へ入る。 これからは、主に陸路での移動となるが、船旅と違い大人数での移動は目立ち易く、安全な休息場所や眠る場所の確保が難しい。 さらに、まだ貨幣の流通が極めて頼りなく、高価な調度品 (仏像、宝飾品.手鏡、包丁.刀剣、反物類、茶碗.茶器) などを、人手で運搬する必要があった。 《一行のメンバー》 ◇ 高倉宮以仁王 ◇ 田千代丸 (以仁王の子/鶴丸) ◇ 公家 尾瀬中納言藤原 (源) 頼実 (大納言藤原頼国の弟) 三河 (参川) 少将光明 小椋 (倉) 少将藤原定信 ◇ 良等 (頼兼の変名/頼政の次男) ◇ 乙部右衛門尉重頼 (頼政の末子、婿?) ◇ 渡邊長七唱 ◇ 猪隼太勝吉、率いる北面の武士13名 ◇ 西方院寂了 (長谷部長兵衛信連の一族)、率いる武士/若干名 越後へのルートを探る探索隊を出し休息するが、戻るまで8日間滞在。 |
7月 8日 |
尾瀬中納言藤原頼実を埋葬。 沼山峠の手前で、負傷していた従者/頼実が病気のため死去したため、一行は中沼山にある風光明媚な沼の畔に、「尾瀬院殿大相居士」として手厚く埋葬した (沼より10余町ほど隔てた場所で、一辺2間強・高さ3尺弱の塚)。 《その後の代表的な1つ目の説》 尾瀬大納言藤原頼国は、弟/頼実の眠る地に留まりたい願い出たところ、以仁王も快く了解したため、この地で生涯を過ごした。 《その後の代表的な2つ目の説》 気落ちしたのか、弟/尾瀬大納言藤原頼国も病に倒れてしまったが、追っ手を恐れた以仁王は、頼国の回復を待たず数人の供に託し、先を急いだ。 数日後、ようやく病が回復し以仁王の後を追ったが、途中の追分を どの方角へ向かったのか分からず、止む無く兄の眠る地で暮らすことを決断した。 やがて、残りの生涯を過ごした頼国の姓から、中沼山の地名が「尾瀬」と呼ばれるようになった。 檜枝岐村に「尾瀬大納言藤原頼国の像」の像が建立されている。 越後への山越えは難路のため、走破は無理との報告を受け、檜枝岐へ向かう。 途中に、供の一人が見つけ、喉の渇きを癒した安宮清水が現存している。 |
7月 9日 |
檜枝岐へ入り、2泊。 三河少将光明が死去する、 その地が「三河沢」と呼ばれるようになった。 明治15(1882)年、焼畑した際に塚を発見とのこと。 |
7月11日 |
大桃の村司宅に泊。 小椋少将藤原定信が残留、木地屋部落の頭目として子々孫々 栄えたとも。 |
7月12日 | 尾白沢 (宮沢) の村司/権蔵宅に泊。 |
7月13日 7月14日 |
大新田で昼食、入小屋に泊。 昼食時に大新田村の権八から、平氏側の石川冠者有光へ追討の命が出たと聞き、戸板峠に戻り森戸村で泊、との説も。 戸板峠に戻り、森戸、中山峠、五升橋で休息、 瀧原を経て、田島の弥平次宅に泊。 「木樵等も 後生願いて 御所の橋 かけ渡したる高倉宮」 瀧原村の郷士/藤馬宅へ泊、との説も。 |
7月15日 |
楢原/三五郎宅で休息、串谷 (倉谷) から山本 (大内 ) へ。 本家玉屋(佐藤家)で以仁王が草鞋を脱がれ、休息をとったと言い伝えられている。 「春には喜 空きは錦の紅葉山 あずまの都 大内の里」 の一首が残された。 山本村が京都嵐山の大内村に似ていたから「大内」と詠んだ (宮中の大内裏に ちなんでとも)。 このことから、後に「山本村」を改め、「大内村」と呼ばれるようになった。 |
7月18日 |
山本村を出立し高峯峠を越えようとしたところ、追手に急襲される。 不可思議な天変地異に救われて難を逃れ、山本 (大内) へ引き返す。
《逸話》
先発隊としての頼兼は、永岡館 (会津美里町) に滞在中、襲われる。山本村に逗留との知らせを受けた平氏は、柳津村の石川冠者有光に命じ、即座に軍兵2百余人を差し向けた。 まさに高峯峠にて討ち取ろうとした瞬間、突如として ◇ 雷鳴が天を裂き、近くを追手を落雷が直撃。 ◇ 天候が急変し、追手に大きな氷の塊が降り注ぐ。 ◇ 突然、火の玉が出現し、追手の行く手を遮る。 ◇ 狂風が吹き荒れ、追手に向けて次々と石を飛ばす。 追手一同は神のお告げであると恐れ戦き、以仁王を密かに逃がした。 |
7月19日 |
追手から逃れるべくルートを変え、戸石 (下郷町) へ向かう (五郎兵衛宅に泊)。 |
7月20日 | 高野の馬頭小屋 (南会津) に泊。 |
7月21日 | 針生の村司/七兵衛宅に泊。 |
7月22日 | 駒止峠を越え、入小屋の村司/太右衛門宅に2泊。 |
7月24日 | 澤口 (山口)、稲葉 (宮床) 、井出澤 (界) で十郎左衛門宅に7泊。 |
8月 1日 |
乙澤 (和泉田) 、長濱/淡路宅に泊、楢戸村/龍王院に泊。 宿泊中、再び平家方/石川冠者有光に襲われるが、渡邊丁六唱ら農民たちが武装して立ち向かい、激戦の末に有光を討ち取った。 |
8月 2日 |
叶津 (只見町) の村司/讃岐宅に泊。 讃岐は、村の中から屈強なもの18人を選び、越後への護衛につけている。 |
8月 3日 |
八十里峠に入り、御所平 (洞窟) で泊。 「富士を見ぬ 人に見せはや 陸奥の 朝草山の 雪の曙」 |
8月 4日 |
39人で峠を越え、猪隼太を小国頼行への使者として送る。 吉ケ平で泊。 |
8月 5日 11月10日 年代不詳 4月 3日 |
加茂神社前で小国城主の使いと合流。 源頼の弟/小国頼之の小国城 (長岡市小国町) へ。 安生地と思われるほど安穏の生活を送る。 やがて平氏方に知られ、頼之の領地/小川庄の高出 (阿賀町日野川高出) へ向かう。 東山村の山中、深山幽谷の僻地に居住を構え、隠遁生活が始まる 。 従臣は、周囲に防塁を設け、警護に専念する。 やがて、追討軍に発見されてしまう。 応戦するも多勢に無勢、山中の三方分で自害。 山中には以仁王の首塚・胴塚が現存。 天寿を全うしたとの説も残る。 |
薬 水
古来より、様々な病に効くと伝えられる湧水。
高倉宮以仁王を追っていた櫻木姫は病に伏してしまうが、全快を願って喉を潤したところ、一時的にではあれ回復したと伝わる。 飲み干した紅梅御前は、たちまち長旅の疲労が回復し、京の都の名水より美味しいと評したと伝わる。
▲(下郷町大字大内字薬水地内)
櫻木姫の墓
正室/紅梅御前の付添として、16歳になった頼政の娘/鈴姫や、少数のお供と共に高倉宮以仁王を追った。
しかし、慣れない長旅のためか、病に臥してしまう。
願い叶わず、大内宿の地で力尽き果てた。
▲(下郷町大字大内地内 村外れ)
紅梅御前宮 (御前社)
正室/紅梅御前は、戦いに敗れ逃れた高倉宮以仁王を追っが、すでに出立してしまい、身を置くどころがなく、戸口村の山中に居を構える。
気落ちしたためか病に伏せ、まもなく死去してしまう。
憐れんだ村人により、渓流沿いに御前社「紅梅御前宮」として祀られた。
やがて、住まいのあった山が 御前ヶ岳 と呼ばれるようになった。
境内に至る川の橋は、悲しみのためか。架けても架けても流れてしまうとのこと。
▲(下郷町戸赤地内)
お鈴の壇 (恩錫津之檀 遠祖 鈴姫之墳)
鈴姫は、源頼政の娘。
父/頼政は高倉宮以仁王と挙兵を計画するが露呈してしまい、宇治平等院の戦いで自害。
心身共に疲れ果てた鈴姫 (16歳) は、西方の庄に入ると銭森長者/藤原保祐の館に投宿する。 長者は我が娘の如く可愛がっていたという。
満月の夜には、以仁王ゆかりの横笛「小枝」を吹き、昔を懐かしむのが常だった。
2年後、以仁王との再会が叶わぬまま、山里にて18歳の生涯を終えた。
毎朝、姿を映した「化粧清水」や、「お化粧坂」と呼ばれていた道を知る者は、今やいない。
昭和の初期に墓/鈴姫塚は崩れてしまい痕跡が無くなってしまったが、墓の中から横笛が出土したと伝わる。
今や「お鈴の壇」の名が残るだけだが、爽やかな微風が吹くと笛の音のように聞こえるという。
▲(三島町大字西方)
紅梅御前宮・櫻木姫・鈴姫は高倉宮以仁王と一緒に都落ちしたとの説もあるが、病の櫻木姫はともかく、元気な紅梅御前宮と鈴姫を大内村に置き去りにしたとは考えにくく、やはり後を追って来たのが正解だろう。
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