天保6(1836)年 | |
12月29日 | 高須藩主/松平義建の6男として、江戸四谷の高須藩邸で生れる。 幼名は_之丞。 母は側室の古森氏。 |
天保14(1843)年 9歳 | |
後に正室となる敏姫が鶴ヶ城で生まれる。 唯一、成長した松平容敬公の実子である。 |
|
弘化3(1846)年 12歳 | |
4月27日 | 8代藩主/容敬公の婿養子に入り世子となる。 25日とも。 容敬公も高須藩の出身 (公式には松平容住公の3男) で、叔父にあたる。 |
6月11日 | 藩邸に移る。 |
8月15日 | 12代将軍/徳川家慶に初めて拝謁する。 |
12月16日 | 従四位下・侍従兼若狭守に任じられ、_之允から「容保」に改名する。 |
嘉永3(1850)年 16歳 | |
義姉/照姫が、豊前中津藩主/奥平昌服に嫁ぐ。 天保3(1833)年12月13日に親戚筋である上総飯野藩主/保科正丕と側室/佐々木民との娘として誕生し、後に容敬公の養女となり義姉になる。 正式名は「煕姫 (ひろひめ)」であるが、通称名は「照姫」。 以下「照姫」と記す。 |
|
嘉永4(1851)年 17歳 | |
5月 | 江戸を出て、初めて会津入りする (6月2日)。 |
嘉永5(1852)年 18歳 | |
2月 7日 | 会津藩の相続を認可される。 |
2月10日 | 容敬公が死去。 47歳。 |
閏2月25日 | 襲封し、会津藩9代藩主となる。
[肖像]
|
3月 1日 | 肥後守に任じられる。 |
12月26日 | 左近衛権少将に任じられる。 |
嘉永6(1853)年 19歳 | |
4月 | 房総警備地を巡視。 |
10月 | 幕府から品川第二台場の防備を命じられる。 |
嘉永7(1854)年 20歳 | |
1月16日 | 幕府よりアメリカ使節来航についての意見を求められ、「和観すべき」と提言する。 |
2月 7日 | 義姉/照姫が豊前中津藩主/奥平昌服と離縁し、江戸藩邸に戻る |
9月20日 | 幕府より軍事調練を命じられ、10月3日に江戸/駒場野で藩兵を調練する。 |
安政2(1855)年 21歳 | |
3月1日 | 襲封してから初めて会津入りする。 |
8月9日 | 大野原で追鳥狩り。 | 10月2日 | 江戸大地震で上屋敷、中屋敷が焼失 (死者165名)。 |
安政3(1856)年 22歳 | |
8月 | 将軍に謁見。 |
9月19日 | 容敬公の5女/敏姫 (14歳) が正室として輿入れ。 |
12月13日 | 正四位上に叙任。 |
安政6(1859)年 25歳 | |
9月27日 | 幕府の蝦夷直轄地が分与され、警備や開拓を命じられる。 |
万延元(1860)年 26歳 | |
3月24日 | 桜田門外の変が勃発。 水戸藩討伐の裁定に反対し、幕府と水戸藩との調停に尽力する。 |
10月 | 正室/敏姫 (容敬公の娘、宝鏡院) が死去。 19歳 |
12月12日 | 左近衛權中将に叙任。 |
文久元(1861)年 27歳 | |
3月 | 将軍家と水戸家との対立の調整をする。 |
文久2(1862)年 28歳 | |
5月 3日 | 14代将軍/徳川家茂に拝謁、幕政参与に就任する。 |
5月28日 | 京都所司代の内命を固辞する。 |
6月 〜8月 |
松平春嶽が脅迫ともいえる京都守護職就任を迫り続ける。 ・5月 8日、春嶽と幕政参与として初会見をする ・7月28日、江戸詰家老/横山主税を呼び出し京都守護職内命を伝える ・8月 6日、横山主税宅に使者を送り京都守護職就任を説く ・8月 7日、京都守護職就任を強要する書面を送り付ける ・8月 8日、病気で登城できない容保の藩邸を訪れ、京都守護職就 任を直々に説得 この時に、会津藩の家訓を引き合いに出す |
6月29日 | 孝明天皇から御辰韓を賜る。 |
7月27日 | 京都守護職の設置が決定される。 |
7月29日 | 京都守護職の就任を固辞する。 |
8月 9日 | 江戸詰家老/横山主税が京都守護職就任の条件を春嶽に提示する。 ◇ 浪士対策は幕府が決めるべき ◇ 将軍/家茂の早期上洛、むしろ将軍が就任すべき ◇ 京都所司代の人事 翌々日の11日に春嶽は老中らと協議したが、方向は決定されなかった。 12日に条件の1つ/京都所司代に長岡藩主/牧野忠恭の登用を決定する。 |
8月19日 〜20日 |
国許家老/田中土佐と西郷頼母を江戸藩邸に呼び寄せ、京都守護職就任について評議する。 「火中の栗を拾うようなもの」 「薪を背負って火消しをするようなもの」 と家臣一同から大反対される。 |
8月20日 | 評議の席上、京都守護職の拝命を決意する
。 「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」 大反対であった家臣一同も覚悟を決めた。 奇しくも、実父の美濃高須藩主/松平義建が死去した日であった。 |
8月24日 | 横山主税から老中/水野和泉守へ京都守護職就任の内諾を伝える。 |
閏8月 1日 | 京都守護職に就任し、正四位下に任じられる。 |
閏8月 8日 | 在職中の役地5万石を受ける。 |
9月28日 | 黒谷の金戒光明寺を旅宿とする旨、奉行所へ届け出る。 |
10月 1日 | 将軍に拝謁。 |
12月 9日 | 江戸を出発し、京へ向かう。 |
12月24日 | 京都守護職として藩兵1千名を伴って上洛、金戒光明寺に入る。 京都警備の担当/所司代などの幕府組織・9大名は今まで通りの独立したまま存続しており、京都守護職という肩書きだけで全権を委任されていない形での上洛であった。 この時点では、近々上洛する予定であった将軍/家茂の滞京が前提であったからである。 7ヶ月後に全権委任される。 |
文久3(1863)年 29歳 | |
1月 2日 | 初めて参内する。 小御所で孝明天皇に拝謁するや、天盃と緋の御衣を賜る。 さらに、「これを戦袍あるいは直垂に作るべし」と直の御言葉まで賜り、同席者らは孝明天皇が大変な信頼・好意を寄せているのを知った。 感激した容保は、すぐさま陣羽織を仕立て撮ったものが、今に残る陣羽織姿の著名な写真である。 |
1月 7日 | 公用局を新設する。 |
1月27日 | 藩士/丹羽宗源と外島義直を江戸に派遣して、将軍/家茂の上洛を促す。 |
2月11日 | 会津藩士三組を設け、夜間の巡邏をさせることにした。 組頭・物頭の下に小頭1人・甲士7人・与力7人・足軽5人の21人を3組。 「法度を犯す者は捕縛すべし もし反抗の甚だしき者あらば 便宜斬殺するも可なり」 すぐさま「天誅」と称する騒ぎは収まり、市中の夜市も再開された。 |
2月19日 | 学習院警衛の任にあたるよう偽勅を受ける。 尊攘急進派の罠だった。 |
3月 4日 | 将軍/家茂が上洛し身辺の警護にあたるが、4月21日に大坂へと退京し5月11日まで戻らず、6月13日には海路江戸へ帰ってしまう。 実兄の前尾張藩主/徳川慶勝 (慶恕) らなども6月21日に帰国してしまい、守護職就任時の約束は完全に反故にされたうえ、唯一の幕府側として孤立していく。 |
3月10日 | 芹沢鴨・近藤勇たち残留を望む浪士17名が、見廻組/佐々木唯三郎 (只三郎) の執り成しで、容保宛の嘆願書を提出する。 |
3月12日 | 残留を望む近藤勇ら浪士組17名の会津藩預りが決まる。 |
3月15日 | 追加参加を併せ浪士組24名が、正式に会津藩預り (壬生浪士組) になる。 |
3月16日 | 近藤勇たち残留浪士組が、京都守護職邸で容保にに拝謁する。 |
5月14日 | 御所近くで火災が発生、容保自ら3隊を率いて御所の警備につく。 |
5月15日 | 朝廷から近隣火災時の「御所外講九門外警備担当・御所内講六門警守担当」が各藩に示される。 会津藩は、西側3門 (唐門・清所門・准后門前) の警守となる。 |
5月25日 | 朝廷からの命により、姉小路公知の暗殺犯として薩摩/田中新兵衛と似礼源之丞を捕縛し、町奉行所まで送り届け引き渡す。 田中の宿に赴き、名刺を渡して身分を明らかにして中に入り、朝命を伝えて説得した上で同行させている。 公用人/外島機兵衛は、抗議にやってきた薩摩藩/内田政風らに対して、 「天朝の特命は捕縛にあり されど相互武士道を重んずるが為めに、朝命を宣べて 同行せしに過ぎず 想ふに貴藩 もし此命を奉ぜらるえば 又此の如きの他ならん」 と逆に諫めた。 |
7月24日 | 朝廷から、同月28日に御所建春院門前で天覧馬揃えの命が下る。 この不穏な時期の調練は好ましくないと願い出たが、孝明天皇が楽しみにしているとのことで聞き入れられなかった。 |
7月25日 | 「東下&攘夷貫徹周旋」の偽勅が届く。 真意を知ろうと活動したが、公家たちによって阻まれる。 翌々日の27日に孝明天皇から東下を望まないとの宸翰を受取り偽勅と判明、容保を京都から退去させようとの謀略だった。 |
7月30日 | 28日は雨天で順延され、この日も雨天だったため順延と思っていたら決行を望まれていると告げられる。 準備不足との願いも聞き入れられず、藩士800名による馬揃えが実施されたが、1度目の馬揃えを終えた時に夜になってしまい中止となる。 強行したのは会津藩に恥をかかせようとした計略であったが、孝明天皇が大満足したため失敗に終わっている。 |
8月 2日 | 孝明天皇より、天覧馬揃えの際の手際のよさが称賛され、錦陣羽織地二巻と白銀200枚を賜る。 同日の夜、孝明天皇は密かに使者を送り、武備十分に行き届き、事に臨んで支障がない様を深く頼もしく思う」を口達させた。 「兼て武備十分に行届、事に臨み無差支段、深御頼敷」 |
8月 3日 | 再度の天覧馬揃えを行うようにとの朝命が下る。 |
8月 5日 | 会津・阿波・因幡・備前・米沢藩による天覧馬揃えが実施される。 前回の馬揃えで賜った錦を陣羽織に仕立て着用し采配をふるった。 孝明天皇のただならぬ気配を感じた容保は、不測に備え密かに武器類を御所内の凝華洞(お花畑)に搬入した。 |
8月13日 | 秋月悌次郎から、薩会秘密同盟の承諾の報告を受ける。 帰国途上の藩兵を、呼戻すよう命じる。 |
8月18日 | 「八月十八日の政変」で薩摩藩と協力し、長賊ら尊皇攘夷派を京都から追放した。 これにより、公武合体派が勢力を強める。 鳥羽伏見の戦いでは、裏切った薩摩藩が この時の手順などを逆に手本として用いた。 |
8月21日 | 壬生浪士に対し、市中見廻りを昼夜通して実施するよう命じる。 |
9月28日 | 朝廷から、京都に潜伏しているテロ集団/長賊らの取締を命じられる。 |
10月 9日 | 孝明天皇から政変の功を嘉賞され、内密に御宸翰と御製を下賜される。 容保は、生涯を通して肌身離さず持ち続けた。 |
10月15日 | 新選組から録位辞退の上書が、公用方に提出された。 |
11月 | 所司代/千本屋敷の北辺に京都守護職の御用屋敷を築造。 |
12月30日 | 朝廷が任命した朝議メンバーによる「参預会議」が設立される。 ◇ 容保 ◇ 一橋慶喜 (将軍後見職、一橋徳川家当主) ◇ 松平春嶽 (前/越前藩主) ◇ 伊達宗城 (前/宇和島藩主) ◇ 山内容堂 (前/土佐藩主) ◇ 島津久光 (薩摩藩主/島津斉興の5男、翌年の1月13日に任命) 二条城で討議し参内して、天皇の簾前にて朝議に参加する役目。 京都守護職で在京していたものの、現役の大名は容保だけだった。 |
文久4(1864)年 30 歳 | |
1月 4日 | 参預会議のメンバー顔合わせのため参内する。 |
1月 5日 | 参預会議のため参内する。 |
1月 8日 | 参預会議のため参内する。 |
1月11日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
1月13日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
1月17日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
1月18日 | 凝華洞で病床に伏していた容保に、将軍/家茂から見舞いの使者が遣わされ菓子を賜る。 |
1月25日 | 参預二条城会議に出席する。 |
1月28日 | 病気のため参預二条城会議を欠席する。 |
2月 1日 | 四条大橋東詰に、会津藩と新選組を批判する高札が、何者かによって建てられた。 |
2月 2日 | 病気のため参預二条城会議を欠席する。 |
2月 4日 | 新選組に恩賞金を与える。 |
2月 8日 | 病気のため参預二条城会議を欠席する。 孝明天皇が野宮定功を遣わし、極秘の辰韓を賜う。 |
2月10日 | 将軍/家茂は、会津藩に5万石の加増の沙汰を下す。 風邪のため登城できず、家老/神保内蔵助を代理登城させていた。 翌日11日に加増の辞退を申し出る。 |
2月11日 | 京都守護職が免じられ、陸軍総裁職に就任する。 (補) 幕府が松平春嶽に京都守護職を命じる。 |
2月12日 | 朝廷組織の最高機関の1つである参議に任じられるも固辞する。 |
2月13日 | 病気のため参預会議を欠席する。 陸軍総裁職が軍事総裁職と名称変更される。 |
2月15日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
2月16日 | 病気のため参預会議を欠席する。 孝明天皇から伝奏野宮定功を通し、再び内々の守護職復帰を望む旨の宸翰が届けられる。 |
元治元(1864)年 | |
2月24日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
2月28日 | 将軍/家茂が、奥医師を容保に遣わす。 |
3月 2日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
3月 4日 | 病気のため参預会議を欠席する。 |
3月14日 | 今後は御用の際に参内せよとの沙汰で、参預会議が廃止される。 |
3月16日 | 孝明天皇から 秘密の宸翰が届けられる。 |
3月28日 | 病気の理由で、京都守護職再任の辞退を願い出る。 |
4月 6日 | 孝明天皇が幕府に、容保を京都守護職に復職させるよう勅を下す。 |
4月 7日 | 松平春嶽の京都守護職辞任。 家老を名代として登城させるようにとの指示があり神保内蔵助が登城すると、京都守護職復職及び軍事総裁職罷免が命じられる。 病床にあることで直ちに辞退書を提出させたが、受理されなかった。 11日にも家老/横山主税及び神保内蔵助を登城させ、辞職願を提出。 |
4月14日 | 幕府は京都守護職辞職願を却下し、病が癒えたら出勤するよう命じる。 |
4月15日 | 将軍/家茂は、小納戸/木村紀伊守を見舞いの使者として派遣し、親書と見舞品を贈る。 |
4月18日 | 病気回復の時期が不明のため迷惑がかかるとして、京都守護職の辞職願を再び提出する。 |
4月20日 | 幕府は京都守護職の辞表を再び却下し、治癒した後に復帰すればよいとする裁定を下す。 |
4月22日 | 京都守護職の復職を承諾、御門 (蛤門・唐門) の守備に復す。 |
5月 5日 | 将軍/家茂から、鞍鐙を下賜される。 |
5月11日 | 病気療養のため、寺町から黒谷本陣に移る。 |
6月10日 | 幕府からの命で池田屋事件の残党捕縛の探索中に、藩士/柴司が誤って土佐藩士/麻田時太郎を槍で負傷させてしまう。 土佐藩との協力関係悪化を心配し、公用人/手代木直右衛門と小室金吾左衛門、藩医/渋沢昌益を土佐藩邸に派遣し、麻田の傷の診察をさせる。 しかし、翌11日、現場で逃走した上、後ろ傷だったために土佐藩が「士道不覚悟」と恥じて麻田を切腹させてしまう。 12日、事態の処理に苦慮する藩主のため、兄の介錯で柴司は切腹して果てた (明保野亭事件)。 墓は黒谷。 |
6月27日 | 病を押して参内し、孝明天皇に長賊の襲来を奏上する。 長賊の入京拒否せよとの勅があり、御所内の凝華洞を仮本陣とし、御所九門諸藩に門の閉鎖を命じて警戒にあたる。 |
6月29日 | 孝明天皇が 長賊の入京宜しからずの宸翰 (勅命) を下す。 |
7月19日 | 長賊らによるクーデター「禁門の変 (蛤御門の変、元治の変とも)」が勃発、薩摩藩とともに朝敵/長賊らを撃退する。 |
8月23日 | しばらく禁門内の凝華洞で宿衛する事を命じられる。 |
8月 | 砲銃を主とした軍制に改革。 |
10月 9日 | 夜半、孝明天皇の密命で二条斉敬右大臣が訪れ、御宸翰と御製が届く。 口上の際、容保を賞揚したいのだが、1人だけ賞揚したのでは物議を醸してしまうだろうから、感謝と信頼の証の宸翰と御製である、と。 |
慶応元(1865)年 31歳 | |
1月30日 | 将軍/家茂の上洛を促すため、東下を朝廷に願い出る。 |
2月 1日 | 東下の願いが勅許される。 |
2月 4日 | 老中を東下との内旨があり、翌日5日に東下の勅許が撤回される。 |
2月 9日 | 新選組副長/土方歳三が東下を願い出てきたが却下する。 |
3月 1日 | 病のため、本陣を黒谷へ戻す。 |
3月 9日 | 将軍/家茂の上洛が難しいとの報に、急ぎ上洛すべきと説く。 |
3月15日 | 再度、将軍/家茂の上洛を書面にて説く。 |
3月25日 | 日光東照宮勅会の終了まで、将軍/家茂の上洛を猶予するとの報あり。 |
3月29日 | 将軍/家茂の上洛の猶予を奏請する。 |
4月 2日 | 将軍/家茂の上洛を要請するため、公用人/外島機兵衛を東下させる。 |
4月 8日 | 病状が少し回復したため参内する。 将軍/家茂の上洛を促すため、井深宅右衛門を東下させる。 |
4月24日 | 滞京の経費が甚大となり、毎月金1万両の給与を幕府に請う。 |
4月28日 | 召されて参内し、病状回復を祝される。 |
5月22日 | 幕閣内が長賊らの処分で意見対立したため、慎重な対処を提言する。 |
5月28日 | 大坂に下る。 |
閏5月26日 | 再び、大坂に下る。 |
9月 1日 | 京都下立売に京都守護職上屋敷が完成する。 |
9月21日 | 将軍/家茂に従い参内する。 |
9月29日 | 慶喜・定敬とともに下坂を願い出るが、容保だけには許可が出ず。 |
10月 1日 | 慶喜らと共に兵庫開港を天皇に上奏する。 |
10月 3日 | 将軍/家茂が大坂から帰東の報を聞き、徳川慶喜・松平定敬とともに 伏見で迎え、東帰を諌止する。 |
10月 4日 | 朝議により、参内する。 |
10月 7日 | 幕府から、幕政に参与するよう命じられる。 |
12月22日 | 近藤勇の報告を受ける。 |
12月27日 | 参内すると、山陵修復竣工の恩詔を賜う。 |
慶応2(1866)年 32歳 | |
1月22日 | 一橋慶喜、松平容保、松平定敬、板倉勝静、小笠原長行が参内し朝敵/長賊らの処分案 (削封十万石・藩主親子は蟄居) を上奏し許可される。 |
6月 1日 | 近藤勇らが黒谷本陣へ、病気見舞いに赴く。 |
7月19日 | 将軍/家茂に見舞い品を送る。 第2次長州征伐の途上、大坂城で急病に倒れ、典薬寮や奥医師らの賢明な手当ても効なく 7月20日に死去した。 享年21歳。 |
10月17日 | 京都守護職の辞意を呈するも、幕府は認めず。 |
11月27日 | 松坂鯛二が叔父/原掟之進の助太刀で、父/三内の仇を討つ報を受ける。 文久3(1863)年、公用局/松坂三内と平向熊吉が公用出張中、天誅組の仲間と間違われ、大和国郡山藩軍奉行/薮田極人に射殺された。 |
12月18日 | 病に臥した孝明天皇を見舞う。 |
12月21日 | 将軍/慶喜が、容保・桑名藩主/松平定敬のご機嫌伺いに参内する。 |
12月25日 | 夜半に、宮中が異様な雰囲気との報を受ける。 |
12月26日 | 孝明天皇の見舞いを願い出るが謁見できず、「益御機嫌能被成為候 (益々ご機嫌が良くなっておられる)」との御容態書を渡される。 |
12月28日 | 孝明天皇が岩倉具視と妹の女官/堀河紀子によって毒殺され、宮中の近侍者らが大混乱しており、何故かご遺体は俯せにされているとの伝聞を得る。 |
12月29日 | 孝明天皇が、崩御 (4日前の25日) と発表された。 死因は天然痘と流布されたが、京都で天然痘流行などの記録はなく、天皇側近の宮中に誰一人罹患した者もいない。 暗殺されたという話題の他にも、口にするのも憚る恐ろしい「春宮も」との話しが宮中に渦巻いていた。 《Wikipedia》 《参考書籍》 後ろ盾を失うだけでなく、長賊らの次の獲物が己 (会津藩) だと、この時に知る由もなかった。 |
慶応3(1867)年 33 歳 | |
1月 | 京都守護職を辞任し、帰国することを表明する。 |
1月17日 | 登城を拒否し、帰国の準備を進める。 |
2月18日 | 将軍/慶喜から、思い止まるよう親書が届く。 |
3月 | 徳川慶喜の弟/松平喜徳公を養子に迎える (決定は前年の12月1日)。 |
3月11日 | 執拗な命で登城はするが、帰国の意思は変わらないことを告げる。 |
4月 9日 | 朝廷に帰国の許可を願い出るが却下される。 天皇家より、孔明天皇の形見分けとして御遺物5点を賜る。 |
4月23日 | 参議に就任、会津宰相と称される。 |
6月13日 | 新選組隊士10名から、京都守護職邸に嘆願書が届く。 |
6月26日 | 加賀藩主/前田慶寧の長女/礼姫と結納を交わす。 戊辰の役の勃発で履行されず、明治4(1871)年に婚約が解消される。 |
8月 8日 | 再び京都守護職を辞するが許されず職務を遂行。 家臣を諭す。 |
10月14日 | 将軍/慶喜が政権返上を上奏 (大政奉還) する。 |
12月 9日 | 王政復古の大号令。 幕府が廃止され、京都守護職・京都所司代・摂政・関白も廃止。 |
12月11日 | 新選組に対して、伏見奉行所に屯所を移すよう命じる。 |
12月12日 | 将軍/慶喜のいる大坂城に、桑名藩主/松平定敬、備中松山藩主/板倉勝静たちと入る。 |