会  津  の  著  名  人

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《 さ 》 幕 末 よ り 前

 西郷 近房  さいごう ちかふさ、
 寛永14(1637)年〜元禄16(1703)年3月15日 (67歳)
 幼名:吉十郎。 通称:頼母 (歴代の当主が継ぐ)。
 老家/西郷家の祖。
 肥前西郷氏の嫡流が三河に移って「三河西郷氏」となる。 肥前に残された者が薩摩藩の下級武士として仕え、子孫に西郷隆盛が出た。
 末裔の西郷元次と会津藩家老/保科正近の長女との次男が近房。
 慶安2(1649)年、養父/正長と外祖父/正近が相次いで死去したため家督を継ぐが、程なく養父/正長の妾から遺児が生まれたため、生家の西郷姓に復す。
 近房は名臣と讃えられ、徳川光圀も諸国名士の一人に挙げている。
 西郷 近思  さいごう ちかもと、文化2(1805)年〜万延元(1860)年
 幼名:恒千代。 通し名:頼母。
 家老/西郷近光の長男。
 藩士/澤田名垂野矢常方安部井帽山に師事し和漢や和歌を学び、幕府の儒学者/林家の門に入り儒学・朱子学を修める。
 文政 2(1819)年、父/近光の死去により家督を継ぐ (15歳)。
 文政 7(1824)年、若年寄に就任。
 文政10(1827)年、家老に就任。
 安政 4(1857)年、家老職を辞して、嫡男/近悳に家督を譲り、隠居。
 斎藤 阜雄  さいとう ふゆう (はやお)、安永8(1779)年〜元治元(1864)年
 幼名:浜吉。 通称:楢右衛門、岡右衛門、直右衛門。
 号:除風庵、物見居。  <呉服商、俳人>
 塩川町にて誕生。
斎藤阜雄の墓  若松の根本精器と並び称され、「会津の俳聖」とも呼ばれる。
 越後の佐藤乙良、須賀川の山辺清民、江戸の橘田春湖などとも交流があった。
 昼間は家業の呉服商に専念し、決して俳諧を語らなかったという。
 絵画や書、篆刻などにも優れていた。
 墓は塩川町/斉等家墓所。
 「齋藤阜雄之墓 享年八十六卒
  元治元甲子年 九月十八日

 界村
  兵左衛門
 さかいむら へいざえもん、生年不詳〜享保7(1722)年
 界村の名主。 齋藤兵左衛門とも。
 年貢に耐えかねて一揆 (会津御蔵入騒動) を起こした指導者の1人。
 幕府に直訴し受理されたが、裁定が長引く。
安照寺の義民齋藤兵左衛門供養碑  路銀調達で村に戻っていたところを捕縛され、新遠路村久次右衛門と滝沢村喜左衛とともに江戸に送られ、入牢中の黒谷村儀右衛門と布沢村茂左衛門の5人が斬首された。
 会津御蔵入騒動については、こちら。
 墓は安照寺
 坂本 義邵  さかもと よしあき、
 明暦2(1656)年1月6日〜享保12(1727)年2月16日 (72歳)
 通称は覚之進、後に學兵衛。 <神道学者>
 室町幕府最後の将軍/足利義昭の孫と称する。
 一色義房の次男として近江国滋賀郡坂本 (滋賀県大津市) にて誕生。
 「一色」の姓を、出身地の「坂本」に改姓。
 吉川惟足に師事し神道を学ぶ。
 保科正之公の神葬の際、神事を執り行った1人。
坂本義邵(higasi-下)  正之公の葬儀が縁で藩への出入りが許され、山岡塩山が会津領内に広めた垂加神道は、会津の神道とは違うことを保科正経公に諫言している。
 元禄3(1690)年、松平正容公に無役組として召し抱えられる。
 元禄8(1695)年、使番に就く。
 享保2(1717)年、鉄砲頭に就く。
 正容公が将軍/徳川吉宗と家重の理髪を執り行なったが、そのやり方を教授したと伝わる。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 桜木姫  さくらぎ ひめ、紅梅御前とも。
 後白河法皇の第三皇子である高倉宮以仁王の愛妾。
 平家との戦いに敗れた高倉宮以仁王を追って、大内宿に辿り着いたが、旅の疲れから、手厚い看護も空しく死去してしまう (18歳)。
 憐れんだ村人たちにより村外れに墓が建てられ、周囲を「御側原」と今でも呼ばれている。
 大内宿の北の外れの旧道沿い。


 笹原
 与五右衛門
 ささはら よごえもん、宝永3(1706)年〜没年未詳 (64歳)
 名:忠一。
 物頭/笹原伊三郎忠義の嫡男。
 享保10(1725)年、正容の8男/長菊丸を生んでいた側室/於伊知を妻とするよう下げ渡された。
 与五右衛門は畏れ多いして辞退したが、都合が悪ければ離縁して実家に帰しても良いとの君命で承知するしかなかった。
 迎えてみると16歳の若さで気立ても良く、舅姑にも孝行を尽くし、自ら裁縫まで手掛け、またたく間に仲睦まじい夫婦になった。
 享保12(1727)年、娘/富子にも恵まれる。
 しかし、城内では兄の3男/正房・5男/正甫が次々に死去し、於伊知の生んだ長菊丸が容貞と改め嗣子となってしまう。
 後継の若君 (容貞公) の母堂が家来の妻では困るとのことから「召し返し」の藩命があるも、与五右衛門も父/伊三郎も納得せず、頑として応じなかった。
笹原与五右衛の墓  最終的には3ヶ月も経ってから「妻の返上願い」を提出するが、笹原家は藩命に背いたとして、禄を没収され滝沢組長原村へ幽閉された。
 享保15(1730)年、幽閉が解かれた後も、身柄は弟に預けられたままの「謹慎」の身は続けられたまま、後に死去する。
笹原与五右衛の墓  墓は秀長寺
 後世に「拝領妻始末」「上意討ち」など小説のモデルになっている。
 笹谷御前  ささや ごぜん、永仁4(1296)年〜貞治6(1367)年
 白河/笹谷七郎の娘、三河守/藤原俊実の娘とも。
 蘆名盛員公の継室で、蘆名直盛公の母。
 建武2(1335)年、中先代の乱で夫/盛員公と嫡男/高盛が戦死したため、まだ10歳と幼少の次男/直盛公の後見として、盛員公の弟/行信の協力を得て政務に就く。
 この年、淨林寺を建立したとされる。
 建武3/延元元(1336)年、戦死した盛員公と嫡男/高盛を弔うために観音堂を創建。 幾度となく再建され出ヶ原観音堂として現存。
 建武4/延元2(1337)年、諏方神社に行信と連名で神器を奉納。
 暦応元/延元3(1338)年、羽黒山東光寺に行信と連名で神器を奉納。
 文和3/正平9(1354)年、小田山の中腹に如意輪観世音菩薩を祀る観音堂を建立 (戊辰の役で焼失し碑が残るだけ)。
 貞治6/正平22(1367)年、小田山/観音堂の下壇に埋葬される。
 康暦元/天授5(1379)年、直盛公が母/笹谷御前を弔うため、埋葬地の側らに宝積寺を開基。 永和元/天授元(1375)年とも。
 「宝積寺殿金峰尊公大姉、宝積寺殿金峰尊公大禅定尼とも」。
 墓は宝積寺/裏手
 佐瀬 種常










 佐瀬 常雄
 させ たねつね、佐瀬大和守種常
佐瀬種常の墓  生年不詳〜天正17(1588)年6月5日
 会津蘆名氏四天王の一人。
 重臣/佐瀬貞藝の子 (養子とも)。
佐瀬種常の墓
 させ つねお、佐瀬平八郎常雄
佐瀬常雄の墓  天正元(1742)年〜天正17(1589)年6月5日 (17歳)
 会津蘆名氏四天王の一人。
 重臣/富田美作の子。
佐瀬常雄の墓  佐瀬大和守種常の養子となる。

 天正12(1584)年に盛隆公が家臣によって殺害され、継いだ蘆名亀王丸も2年後に非業の最期を遂げると、伊達政宗公の弟/小次郎を推す派が敗れ、常陸/佐竹氏から義広公を迎えるが、家中に深刻な亀裂を残す。
 弟の養子に失敗した政宗公が、終に戦いを仕掛けてきた。
 天正17(1589)年、養父/種常に従い常雄共々、磨上原の戦いに出陣。
 開戦初期は優勢であったが、内紛を抱えており徐々に政宗軍に押され始め、劣勢になるや潰走が始まる。
 父子/種常・常雄は、義弘公を逃がすため殿軍となり、攻めよせる政宗軍に突入して奮戦しするも深手を負い、父/種常は居城/小田付館近くで、子/常雄は居城/大寺館近くの湿地で壮絶な戦死を遂げた。
 墓は各々の戦死地。
 後に、松平容敬公金上盛備・佐瀬種常・佐瀬常雄の忠勇を称え、古戦場跡に「三忠碑」を建立した。


≪佐瀬氏≫  本姓:千葉。
 蘆名氏重臣「葦名四天」の松本氏富田氏佐原義連公が会津に入部後に仕えたのに対し、佐瀬氏と平田氏は蘆名氏譜代の直臣。
 しかし、資料に現れるのは、文亀3(1503)年の代官/佐瀬平左衛門尉久常の名が最初である。
 天文年間(1532〜1555)の佐瀬信濃守常和から佐瀬大和守種常の時代に最盛期を迎える。
  ◇ 佐瀬大和守種常  耶麻郡小田付館 (喜多方市)
  ◇ 佐瀬平八郎常雄  耶麻郡大寺館  (磐梯町)
  ◇ 佐瀬将監     会津郡面川館  (会津若松市)
  ◇ 佐瀬若狭     大沼郡西勝館  (会津美里町)
 天正17(1589)年、蘆名義広公が摺上原で伊達政宗公に敗れると、義広公に従い常陸国に逃れる者、伊達家に仕える者、後に保科正之公に仕える者など一族は離散した。
 佐瀬
 与次右衛門
 さぜ よじえもん、寛永7(1630)年〜勝徳元(1711)年6月11日 (82歳)
 幼名:吉十郎。 初名:末盛。
 幕内村 (会津若松市神指町) の肝煎/仁科家にて誕生。
 祖は、佐原十郎義連公の家臣/仁科太郎光盛。
新城寺の「会津農書の碑」  貞享元(1684)年、「会津農書」3巻を著す。
 上巻/「田の部」が稲作について、中巻/「畑の部」が畑作について、下巻/「農家生活全般」が農業経営について。 会津の地に適した農業が網羅されており、これにより会津の農業技術を確立したとされる農業指導者。
 次いで著した「会津歌農書」、婿養子/林右衛門盛之の「幕内農業記」が付随書とされる。
 昭和43(1968)年、功績を称える「会津農書之碑」が新城寺に建立。
 佐竹 永海  さたけ えいかい、
 享和3(1803)年〜明治7(1874)年12月24日 (享年73歳)
 名:永海。 字:周村。 通称:衛司。
 号:盤玉、愛雪楼、九成堂、梅九、愛堂、幽宝子、天水。
 御用蒔絵師の子として北小路町にて誕生。
 幼少の頃、地元絵師/萩原盤山に師事。
 20歳の頃、江戸に出て、谷文晁に師事し画塾/写山楼に入門する。
 刻苦して、塾頭に就任。
 30歳の頃、独立する。
佐竹永海の墓  天保9(1838)年、文晁の推薦により彦根藩主・大老/井伊直亮に気に入られ、御用絵師に就く。
 弘化元(1844)年、しばし会津に滞在。
 安政2(1855)年、剃髪し得度、彦根藩の庇護のもと、「法橋」から「法眼」に叙される。
 文晁の正統な継承者とされるが、16度も結婚し、酒乱で親不孝の奇人画家といわれる。
 墓は谷中霊園
 「横超院譲々斎上善釈永海居士」
 佐藤 伊兵衛  さとう いへえ (いべえ)、
 宝暦12(1762)年〜天保13(1842)年10月14日 (81歳)
 宝暦11(1761)年〜天保12(1841)年とも。
 名:豊義。  <本郷焼の磁祖>
 藩瓦役所/定番の子として本郷村 (会津美里町) で誕生。
 幼くして母を失い出家したが、還俗。
 安永 6(1777)年、藩が江戸から焼物師範役として招聘した楽焼/近藤平吉の門弟となるが、平吉は白磁の製法に通じておらず解職される。
 寛政 9(1797)年、白磁製法の習得を志し、藩に願い出て財政的支援を受け、志戸呂焼・常滑焼・瀬戸焼・信楽焼・清水焼/粟田焼・志度焼などの諸陶場を歴巡。
 どこの陶場でも製法技術は秘密のため、苦難の歴巡であった。
 寛政10(1798)年、帰郷し丸窯を築き、白磁の焼成に着手。
 寛政12(1800)年、白磁焼成の試作に成功。
 文化元(1804)年、町奉行支配下の瀬戸方棟梁に就任。
 同奉行の不正を直訴したため、勝訴するも一時、職を解かれる。
常勝寺の陶祖廟  白磁焼成の研究は門弟/手代木幸右衛門によって継続され、文化13(1816)年に白磁「攻め炊き」の手法が完成した。

 明治13(1880)年、遺徳を偲んだ陶業者有志によって陶祖廟が建立。
 陶祖廟のある常勝寺では、毎年 陶祖祭が開催され、功績を讃えている。
 佐藤 元長  さとう げんちょう、文政元(1818)年〜明治30(1897)年8月7日 (80歳)
 元長の「長」は「草冠に長」。 字:賜長。 号:応渠。
 佐藤重俊の子。  <漢方医、医学館/教授>
 高津平蔵に師事し儒学を修める。
 天保14(1843)年、江戸詰御医師として上京し、幕府奥医師/多紀元堅に師事し医学を学び、頭角を現し程なく塾頭に就任。
 ペリー来航の時に伝わった種痘法を探究。
 嘉永 6(1853)年、会津に帰り、施術して術を広める。
 安政 4(1857)年、幕命により幕府医学校/医学館の医書正に就く。
 安政 5(1858)年、医学館の講師に就任。
 万延元(1860)年、医学館の教授に就任。
 文久 3(1863)年、将軍/徳川家茂に拝謁し、袋杖登城を許される。
 戊辰の役が終わると、千住で医業を営む傍ら、私塾を開き近在の子弟教育を行う。
 明治 5(1872)年、旧知の仲の森静男一家が上京し、一子が佐藤の門下生となり漢詩・漢文などを学ぶ。 後に森鴎外として名を馳せる。
 後に、茨城県下妻/温知病院の院長に就任。
 著書「感詠一貫 初篇」「感詠一貫 二篇」「近世孝子伝」など。
 澤田 名垂  さわだ なたり、安永4(1775)年〜弘化2(1845)年4月30日
 幼名:友治、蕃。 名:成祐、 通称:新右衛門。
 号:花圃、五家園、和気在躬、木隠翁。 <国学者>
 藩士の子として誕生。
 藩校師範/安部井武に師事し、二条派の国学を学ぶ。
澤田名垂(naka-中)  松平容頌公の命により、「日新館童子訓/上下二巻」編纂の中心的役割を果たす。
 文化 2(1805)年、日新館の和学師範に就任。
 藩士の子弟教育のかたわら、学制改革も尽力。
 文化14(1817)年、「家世実紀」の御用係就任。
 歌人としても長けており、「1刻(2時間)110首」詠みあげたことでも有名。
 著書「家屋雑考」「為政雑考」「古字考」「宿直物語」「阿奈遠可志」「桃太郎子傳」など。
 墓は大窪山。
 「沢田名垂先生墓地

《 さ 》 江  戸  幕  末

 雑賀 重村  さいが しげむら、(1836)年〜明治13(1880)9月10日 (45歳)
 名:一ノ瀬帰一。 変名:紀一郎。 別称:雑賀孫六郎。
 藩士/一ノ瀬郷助の3男。
 安政元(1854)年、測量術に秀でていたため、幕臣/堀利煕が箱館奉行に就任して樺太・蝦夷地の調査・巡回をする際に同行。 この時に随行していた榎本武揚と知り合う。
 万延元(1860)年、北方防備のため蝦夷東沿岸へ赴き、紀一郎と名乗って標津代官に就任。
 文久2(1862)年、標津代官を南摩綱紀に引き継ぎ、藩命により長崎伝習所へ赴き、幕府海軍に入り軍艦/回天丸・開陽丸などに乗る。
 戊辰の役では、榎本艦隊へ援軍依頼の使者として新潟港に赴くが、開城の誤報を受け雑賀孫六郎と改名、会津遊撃隊に入隊し榎本軍と共に蝦夷へ渡り、開拓奉行支配組頭に就き室蘭開拓の企画・立案に携わる。
 函館戦争後は、阿波徳島藩での謹慎後に雑賀重村と改名し斗南藩を経て、北海道開拓使に招聘されて室蘭港の築港に尽力。
 「新道開削」の総取締役に就任すると、札幌本道建設の責任者として函館から札幌までの本道を築きあげる。
 退官すると、茅部郡と山越郡初代郡長の在職中に病死。
 墓は住吉町共同墓地
 西郷 頼母  さいごう たのも、
 文政13(1830)年閏3月24日〜明治36(1903)年4月28日 (享年74歳)
 幼名:龍太郎、源蔵。 名:近悳。 号:栖雲、酔月、八握髯翁。
 頼母とは世襲名で11代当主 (家老職9代目)。
 家老/西郷近思と母/律子 (小森悌蔵の次女) との嫡男。
 安政 2(1855)年、家督を相続 (28歳)。
 万延元(1860)年、家老に就任 (33歳)。
 文久2(1862)年、松平容保への京都守護職内命の際には、「薪を負うて火を救うにひとし」と強く諌止した。
 元治元(1864)年7月19日、禁門の変の直後にも上洛して守護職辞任を強く諌止したが、家老職を解任され、草庵「栖雲亭」で隠棲。
 慶応4(1868)年、戊辰の役が勃発すると家老へ復帰、恭順をすべきとの主張は変わらなかったが、長賊らが藩主/松平喜徳公・容保親子の斬首を要求したため、抗戦派へと態度を一変させた。
 白河口方面の総督を命じられ着任するが、実戦を経験していない頼母は決定的な戦術ミスを犯し大惨敗を喫し、最重要拠点である白河城が陥落、この時点で戊辰の役の行く末は決したといわれる。
鶴ヶ城下に乱入するや再び恭順を主張するが、すでに総督を解任されており、嫡男/吉十郎を連れて城を出る。
 妻/千重子や娘たちは、敵が乱入した日に一族と共に自刃
 その後、会津を出て榎本軍に参加し蝦夷/鷲の木に上陸するが、会津遊撃隊と行動を共にせず、行方不明。
 明治 2(1869)年、箱館戦争が終ると捕えられ、館林藩に幽閉される。
 明治 3(1870)年、赦され斗南藩に移住するも西郷家が御取潰しとなり、本姓である保科に改姓し現在の十和田市伝法寺に移り住む。
 明治 5(1872)年、伊豆松崎の郷学校/勤申学舎/塾長に就任。
 明治 6(1873)年、伊豆松崎の大沢学舎/学長に就任。
 明治 8(1875)年、棚倉の都々古別神社/宮司に就任。
 明治12(1879)年、嫡男/吉十郎有鄰が夭逝したため、翌々年に甥/志田四郎 (後の講道館四天王/西郷四郎) を養子にする。
 明治13(1880)年、容保が日光東照宮/宮司に就任で禰宜に就く。
 明治22(1889)年、伊達郡の霊山神社/宮司に就任。
 明治31(1898)年、霊山神社を訪ねた武田惣角に大東流柔術を伝授。
 明治32(1899)年、宮司を辞し、若松市 (会津若松市) へ戻る。
 明治36(1903)年、若松の十軒長屋 (東栄町) で死去。
         「栖雲院殿従七位八握髯翁大居士」
 辞世「会津嶺の 遠近人にしらせてよ 保科近悳 今日死ぬるなり
 墓は善龍寺。 屋敷跡に説明版。 歌碑は母成峠
 西郷 千重子  さいごう ちえこ、天保6(1835)年〜慶応4(1868)年 (34歳)
 藩士/飯沼粂之進の次女。
 家老/西郷頼母近悳に嫁ぎ、多くの子宝に恵まれ、幸せな人生が待っているはずだった。
 その夢は、一気に崩れ去った。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫り、城内に入るよう早鐘が鳴り響く。
 各地での略奪、婦女暴行、殺戮などの悪逆非道を耳にしていた。
 多くの幼き子を抱え、それも女の子であり、敵兵からの恥辱は避けねばならない。 籠城戦での足手まといも避けねばならない。
 選択の余地はなかった。
 夫/頼母と長男/吉十郎の登城を見送り、娘5人、義母と義妹2人を含む一族21名が、各々辞世の歌を詠み自刃し、家老職である夫/の後顧の憂いを絶った。
 墓は善龍寺、一段高い所に二十一人之墓がある。
◇ 義母 律子 58歳  秋霜飛んで金風冷ややかなり
   白雲去って月輪高し
◇ 妻  千重子 34歳  なよ竹の 風にまかする 身ながらも
   たわまぬ節は ありとこそきけ
◇ 義妹 眉寿子(みすこ) 26歳  死にかえり 幾度世には 生るとも
   ますら武夫と なりなんものを
◇ 義妹 由布子(ゆうこ) 23歳  武夫の道とききしを たよりに
   思ひ立ちぬる 黄泉の旅かな
◇ 長女 細布子(たえこ) 16歳  下の句/いざ たどらまし 死出の山道
◇ 二女 瀑布子(たきこ) 13歳  上の句/手をとりて 共に行きなば 迷はじよ
◇ 三女 田鶴子(たづこ) 9歳  
◇ 四女 常盤子(とわこ) 4歳  
◇ 五女 季子(すえこ) 2歳  
◇ 親戚の小森駿馬の家族5人
    祖母/ヒデ (77歳)、妻/ミワ (24歳)、子/千代吉 (5歳)、
    ツネ(10歳)、ミツ (2歳)
◇ 親戚の町田伝八 (軍事奉行) 一家3人
    伝八 (61歳)、妻/ふさ子 (59歳)、姉/浦路 (65歳)
◇ 遠縁 (支族) の浅井信次郎の妻子2人
    妻/たつ子 (24歳)、長男/彦 (2歳)
◇ 西郷鉄之助夫妻
    鉄之助 (67歳)、妻/きく子 (59歳)

 昭和3(1928)年、名前が判明している殉難の婦女子233人を刻んだ慰霊碑が建立された。
 千重子の辞世の句から、"なよ竹の碑"と名付けらた。
 会津武家屋敷には、西郷邸と一族自刃の様子が再現されている。
 西郷 近潔  さいごう ちかきよ、文化9(1812)年〜明治29(1896)年1月12日 (85歳)
 通称:源之助、文吾、勇左衛門。 号:礫洲。
 西郷家の分家/西郷源吾近遠の長男。
 大内流槍術の師範を務める傍ら、野矢常方に歌道を学ぶ。
 家督を継ぎ、奉行職に就く。
 松平容保の京都守護職就任により上洛。
 元治元(1864)年、若年寄に就任し、勇左衛門と改める。
 戊辰の役では、指揮官として越後戦線で奮戦し、後に帰城命令により入城し、籠城戦を戦い抜く。
 妻や娘・孫たち家族鶴ヶ城下に迫るや自邸で自刃し、嫡男/刑部は一ノ堰で戦死。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎/小川講武所) となり、幽閉されている藩士の環境改善をへ折衝するなど奔走。
西郷勇左衛門(近潔)の墓  その後は斗南藩に行かず会津に戻り、家族の菩提を弔う日々を過ごしつつ、熊倉尋常小学校・小舟寺小学校などの教師を歴任し生計を立てる。
 藩士/中村清之助の娘/セイ子と再婚するも、前の全家族を失ったことを忘れず、終生 清貧に甘んじたという。
 墓は泉福寺
 著書「夏草集」「比南物語」など。
 後に、実孫/高畑ステが近潔の遺稿などをまとめた「会津藩士の実録」を著す。
 斎藤 一  さいとう はじめ、
 天保15(1844)年1月1日〜大正4(1915)年9月28日 (享年72歳)
 山口一、斎藤一、山口二郎、一瀬伝八、藤田五郎と改名。
 山口祐助と母/ますの3子として江戸にて誕生とされる。
 父は播磨国出身、会津出身と諸説あるが、江戸藩邸で会津藩士に奉公していたのは事実であり、出生時は旗本/鈴木家に仕えていた。
 文久2(1862)年、口論で旗本を斬ってしまい、「斎藤一」に改め、父の友人を頼り京都/聖徳太子流剣術/吉田道場の師範代に就く (19歳)。
 文久3(1863)年、芹沢鴨や近藤勇ら結成した壬生浪士組 (精忠浪士組) に入隊し、最年少で副長助勤に抜擢される。
 京都守護職預りとなり新撰組と改称、会津藩と係わる契機となる。
 元治元(1864)年、土方歳三隊として池田屋事件に参加。
 間者として長賊らの暗殺だけでなく、新撰組内の粛清にも関与した。
 溝口派一刀流、聖徳太子流、山口一刀流も津田一伝流などの奥義を会得したようで、永倉新八は「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と讃え、沖田総司より強いといったという。
 慶応3(1867)年、伊東甲子太郎らが新選組を離脱し御陵衛士を結成すると、間者として御陵衛士に入隊する。
 大政奉還により、新選組は旧幕府配下となる。
 鳥羽・伏見、甲州勝沼でも最前線で奮戦、江戸を経て新選組隊士の一部を率いて、会津へ向かう。
 会津藩の指揮下に入り、白河の戦い、母成峠の戦いに参加する。
 庄内藩へ向かう土方歳三らと別れ、会津に止まり最後まで戦い抜く。
 「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず
 慶応4(1868)年9月4日、如来堂の戦いで、一時、戦死と思われた。
 開城後も、非道を繰り返す長賊らには降伏できないと戦い続けたが、藩主/容保の使者の説得で戦いを止めた逸話が残っている。
 塩川を経て、「一瀬伝八」 の名で越後高田に幽閉(謹慎)される。
 斗南藩が成立すると、容保より「藤田五郎」のを賜り斗南藩士として五戸に移住し倉澤平治右衛門宅へ居住。
 藩士/篠田内蔵の長女/“やそ”と結婚。 後に元大目付/高木小十郎の長女/時尾と再婚する際、上仲人を容保が、下仲人を佐川官兵衛・山川浩・倉沢平治右衛門が務め、藤田五郎と改名した。
 明治7(1874)年、佐川官兵衛に従い東京に移住も警視庁に就く。
 明治10(1877)年、西南戦争に別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として出征、負傷するが大砲2門を奪取するなど大活躍し、東京日日新聞を大きく飾った。
 麻布警察署詰外勤警部などを歴任。
 明治25(1894)年、東京高等師範学校附属東京教育博物館 (国立科学博物館) の守衛長に就きながら、同校の撃剣師範も務めている。
斉藤一の墓  老いても剣技は冴え渡り、誰も対等に戦えなかったという。
 明治32(1899)年、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛に就任。
 明治42(1909)年、退職し隠居。
 大正4(1915)年、胃潰瘍により東京府東京市本郷区真砂町で死去。
 床の間を背に結跏趺坐で大往生したという。
 遺言により、仲間たちの眠っている阿弥陀寺に埋葬された。
 佐川 官兵衛  さがわ かんべえ、
 天保2(1831)年9月5日〜明治10(1877)年3月18日 (享年47歳)
 幼名:勝。 名:直清。 渾名:鬼の官兵衛、鬼官兵衛、鬼佐川
 藩士/佐川幸右衛門直道の嫡男として鶴ヶ城下にて誕生。
 剣技と馬術などの研鑽に努め、頭角を現す。
 父が死去したため、25歳で家督を継ぐ。
 江戸勤番の時、火災の混乱から火筒隊 (火消) の旗本2名を斬殺し負傷者多数を出す事件を起こし、役目を罷免され国許で謹慎の身となる。
 慶応2(1866)年、謹慎が解かれ上洛し、京都守護職配下の物頭、学校奉行、別撰組隊長、諸生組隊長を歴任 (兼務)。
 鳥羽伏見の戦いでは別撰組を率いて参戦、負傷しても一歩も引かず獅子奮迅の勇姿から「鬼官兵衛」と称され、以降は味方から尊敬され、からは畏怖される。
 その後は家老に昇進し朱雀士中四番隊を率いて北越戦線に従軍、精強な活躍から「一に桑名、二に衝鋒、三に佐川の朱雀隊」と恐れられる。
鶴ヶ城下に迫り、帰城命令を受けて城に戻る。
 慶応4(1868)年8月29日、未明に精鋭9部隊1千名を率いて総攻撃の予定が、前日の大酒で寝過ごし夜が明けてから出陣したため多くの犠牲者を出した (長命寺の戦い)。
 「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」の教えの通り、夜陰に紛れての襲撃など出来なかったのである。
 旧幕軍/大鳥圭介からの挟撃作戦も断り、単独での出陣であった。
 この戦いで、父/直道も戦死している。
 真っ赤な血に染まった下着には、墨文字で黒々と書かれていた。
 「慶応四年八月二十九日討死 佐川幸右衛門直道 生年六十三歳
 その戦いの後は、藩兵の大半を帰城させたが、自身は城には戻らず、秀長寺の戦いで大勝利するなど城外で戦い続け、城内への物質補給などを含め、終戦まで城外にて戦う。
 開城後も、悪逆非道を繰り返す長賊らは王軍ではないと降伏せず、9月24日に松平容保の親書が届くまで戦いを続けた。
 東京で幽閉(謹慎) の後に 斗南藩/五戸町へ移住するが、廃藩後は会津へ戻り大都村で隠遁生活を送る。
 明治7(1874)年、初代大警視 (警視総監)/川路利良 (元薩摩藩士) から「鬼官兵衛」への再三にわたる警視庁奉職の要請を固辞したが、赤貧にあえぐ旧藩士300余名の採用を条件に警視庁一等大警部に就任する。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると、豊後口第一号警視隊一番小隊長/兼第二号警視隊副指揮長として従軍し、かつての屈辱を晴らすかのように奮戦するが、総指揮官/檜垣の戦略ミスで窮地に陥る。
 黒川村で敵将に迫り剣による一騎打ちの最中に、卑怯にも隠れていた敵兵から狙撃され、壮絶な戦死を遂げた。
 最後となる日、警視局指揮旗に自筆で「勝軍」と記し、すべての手持ち品を宿泊所の人に託し、「世話になった」と別れを告げ、それまで見せた事もない穏やかな顔で出陣したという。
 「君が為 都の空を 打ちいでて 阿蘇山麓に 身は露となる
 墓は大分縣護國神社と長福寺。 歌碑は秀長寺。 顕彰碑は鶴ヶ城

 阿蘇の地への進軍の際に、長賊らが繰り返した略奪・暴行行為を部下に対して一切禁止し、地元の人たちには にこやかな態度で接したため慕われたという。
 南阿蘇には、佐川官兵衛の慰霊碑が10数ヶ所も建立された。
 桜井 常四郎  さくらい つねしろう、生没年不詳 (享年46歳)
 軍事方。
 慶応4(1868)年8月22日、 鶴ヶ城下に迫るや、出陣命令が下る。 すでに現役を退いていたが、主力部隊が藩境警備で不在のため総動員となり、自邸を出る際、
 「敵が滝沢峠を越えさせることは命を賭して阻止する
  もし敵が城下に侵入することがあれば我は死んだものと考えよ

と妻/たみ子に言い残し、急ぎ出陣した。
 翌23日早朝、撤退との命令を受ける。
 ここで死守せねば、これまでのの所業から城下は修羅場となろう、との進言が聞き届けられる前に敵影が現れる。
 舟石の上で「御敵退散」の祈祷をおこなった後、敵兵を睨みつつ自刃して果てた。 あまりの見事で気迫の迫る自刃に、敵兵は一発の銃弾も撃てず、会津の城は これまでの藩のように簡単に落とすことはできまい、と戦慄したという。
 自宅で留守を守っていた妻/たみ子は、滝沢峠から銃声がとどろき敵来襲の報が伝わるや、夫の死を悟り自らも夫の後を追った。
 ここにも、運命に翻弄された夫婦がいた。
 佐々木
  只三郎
 ささき たださぶろう、
 天保4(1833)年〜慶応4(1868)年1月12日 (享年35歳)
 唯三郎とも。 名:泰昌。 号:高城。
 藩士/佐々木源八の3男として鶴ヶ城下にて誕生。
 公用人/手代木直右衛門勝任は長兄。
 27歳の時、親類の旗本/佐々木弥太夫 (矢太夫とも) の養子となる。
 会津五流の1つ/神道精武流を極め、特に小太刀の技に優れ「小太刀日本一」と称され、養子に入ると幕府講武所の剣術師範に就任する。
 歌人としても知られ、文武両道に優れた人物である。
 文久3(1863)年、将軍警護の浪士組 (取締並出役) として上洛。
 清河八郎の謀略により浪士組が江戸へ去ったため、兄/手代木を通して残留の近藤勇たちを京都守護職支配下/新選組とさせ、江戸へ戻り清河を麻布一の橋で斬殺した。
 文久4(1864)年、旗本の次男・三男で構成の京都見廻組を与頭として率い再上洛、新選組と協力し最後まで京都の治安維持に努める。
 組頭の浅尾藩/蒔田相模守は名目で、只三郎が実質トップであった。
 慶応4(1868)年、鳥羽伏見の戦いで幕府軍として奮戦するも、八幡の堤 (樟葉) で腰に被弾し重傷を負い、江戸へ帰還の途中で死去、紀三井寺に埋葬された。 「賢浄院殿義岳亮雄居士」。
 「朽ち果てて かばねの上に 草むさば 我が大君の 駒にかはまし
  先がけて 折れし忠義の ふた柱 くづれんとせし 軒を支へて
  弓馬も 剣も鉾も 知らずとも 恥をだに知れ 武士(もののふ)の友

 戦いの最中、酒を馳走になった酒屋の襖に御礼の歌を書き記した。
 「世はなべて うつろう霜に ときめきぬ 心づくしの しら菊の花
 昭和50(1975)年、故郷の会津武家屋敷内に改葬される。
 後に、紀三井寺にも墓のレプリカが再建。
 笹沼 金吾  ささぬま きんご、
 天保5(1834)年〜慶応4(1868)年8月30日 (享年35歳)
 御目付役/笹沼金兵衛の弟。
 慶応4(1868)年8月29〜30日、砲兵隊頭取として南山通りの日光口を守備、大内宿に迫ったに対し奇襲をかけた後、大内峠に後退し迎撃体制をとった。野村悌之助など40名が戦死するほどの激戦であった。
 その中で笹沼金吾は1人残留し、近くの水車小屋に潜み待ち伏せた。
が通り過ぎるのを待って、後方から敵兵12人を斬り伏せ、壮絶な最期を遂げた。
 「時に砲兵隊の部将笹沼金吾踏み止まり路傍の叢中に潜み敵兵過ぐるを待ち刀を揮って躍り出で数人を斬り伏せその身亦数創を負うて死す
 遺体は、逆さ吊りにされ、村外れに晒された。
 哀れんだ村人たちによって、夜陰に紛れて埋葬された。
 墓は正法寺
 佐治 梅坡  さじ ばいは、
 天保11(1840)年4月17日〜明治20(1887)年8月8日 (48歳)
 名:為周、為秀。 通称:次太郎。 字:召南。
 藩士/佐治為政の長男。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任で国事に奔走。
 開城後は、開拓使に就く。
 明治11(876)年、福島師範学校 (福島大学) の教師に就任。
 著書「愛国叢談」「作文階梯」「盤錯録」など。
 佐瀬 得所  さぜ とくしょ、文政5(1822)年〜明治11(1878)年1月2日 (57歳)
 名:恒。 初名:八弥。 通称:八太夫。 字:子象。 号:松城。
 勇八重道の子として会津にて誕生。
 幼い頃から欧陽詢、趙子昂らの書に親しみ、長崎で清人/箋少虎、江元曦と論じ、清国へ留学し書法を研鑽する。
 婦女隊中野竹子に書を教え、江戸藩邸が隣同士だったから備中松山藩主/板倉の姫君の師 (奥祐筆) も務めた。
佐瀬得所の墓  明治3(1870)年、清国への留学から帰国し、左院三等書記生に就任。
 明治6(1873)年、辞任し、東京に書塾を開く。
 門人は、2千人を超えるという。
 著書「新選万字文」「楷書楽志論」など。
 墓は西照寺

 明治11(1878)年4月、子弟たちによって、放生池の傍らに佐瀬愛用の大筆を埋めて、その上に遺徳之碑が建立された。
 佐藤輿左衛門
 佐藤 勝之助
 甲賀町口郭門の門番役、享年74歳
 幼少組井上隊、輿左衛門の孫、享年14歳
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に侵入。
 程なく、甲賀町口郭門に迫る。
 突如、警衛の輿左衛門は、槍を引っさげて敵兵の前に躍り出て1人を刺殺し、返す槍の石突でもう1人の腰を突き倒し、抜き戻す勢いを用いてもう1人を突き刺すも、驚いた敵兵の銃撃で戦死した。
 その瞬間、同じく槍を携えた勝之助が、祖父の名を叫びながら敵陣に突入する。
 初めは、大人の身長の半分にも満たない少年を生け捕りにしようとした敵兵も、1人が刺殺され、果敢に立ち向かう勝之助の槍が鋭くて近寄れず、恐れをなし射殺。
 敵兵らは、夜の席へ「御肴持参」と称して大皿に勝之助の首を載せ、「愉快極まるこの夜の酒宴、中にますらおの美少年」と歌い興じた
 佐藤輿左衛門は十倉綱紀の妻/邦子の実父で、嫡男がいなくなったため邦子は離縁を願い出て佐藤家を継ぐ。

西郷永四郎説近  西郷栄之進  西郷刑部・いは子・糸子・すが子・かね子・敬一郎  西郷常之進  西郷常次郎・常四郎  斎藤久太郎  斎藤清左衛門  斎藤源太  齋藤庄馬  斎藤新吉  斎藤新吾  斎藤甚左衛門・のぶ  斎藤八郎・八三郎  坂本宇兵衛  桜井直太郎  佐々木悦太郎  佐々木佐左衛門  佐々木新六郎  笹沼金六  笹沼泰蔵  佐瀬重威  佐瀬嘉左衛門  佐治治助  佐藤音之助  佐藤喜七  佐藤九右衛門  佐藤源左衛門  佐藤五左衛門の妻  佐藤政治  佐藤次郎八  佐藤清之助  佐藤主計  佐藤操  澤田鉄左衛門・澤田治助  澤田伝吉  沢田富之助  三瓶鉄蔵

《 さ 》 幕 末 よ り 後

 西郷 四郎  さいごう しろう、
 慶応2(1866)年2月4日〜大正11(1922)年12月22日 (享年57歳)
 藩士/志田貞二郎の3男として坂下 (会津坂下町) にて誕生。
 慶応4(1868)年、戊辰の役が勃発したため、会津藩領の西外れの津川 (新潟県阿賀町) へ移住 (3歳)。
 明治14(1881)年、父/貞二郎は朱雀寄合二番隊として奮戦するも幽閉後に死去したため、元家老/西郷頼母の養子となる (16歳)。
 明治15(1882)年、成城学校 (陸軍士官学校予備校) に入学 (17歳)。
 天神真楊流柔術/井上敬太郎道場で嘉納治五郎と出会いスカウトされ、開設したばかりの講道館へ移籍する。
 明治19(1886)年、日本一をかけた警視庁武術大会で、楊心流戸塚派/昭島太郎 (好地圓太郎とも) と対決し得意技「山嵐」で圧勝、講道館柔道が警察の正課科目となる。
 「講道館柔道開創ノ際 予ヲ助ケテ研究シ 投技ノ薀奥ヲ窮ム
 其ノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下未ダ其ノ右ニ出デタルモノナシ〜

 義父/頼母から大東流居合柔術を伝授され、小柄な四郎 (153cm/53Kg) が大男を華麗に投げ飛ばす技は、「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」と称賛され、富田常雄の小説「姿三四郎」のモデルとなる。
 「坊ちゃん」にも夏目漱石は、会津出身の教師/堀田の綽名「山嵐」として登場させている。
 黒沢明監督のデビュー作としても有名。
 明治22(1889)年、講道館の師範代に就任。
 明治23(1890)年、8年かけて近代柔道を基礎を築き、講道館四天王の1人と称されていたが、「支那渡航意見書」を残して講道館を去り、宮崎滔天とともに「大陸への夢断ち難く」に転身し、孫文と交流するなど憂国の大陸問題運動家として活躍する。
 長崎に居住し、鈴木天眼が「東洋日の出新聞」を創刊すると編集長に就任し、柔道や弓道、日本泳法の指導にも尽力する。
 大正11(1922)年、神経痛の療養のため滞在の尾道/吉祥坊で死去。
 「星光院北州達観居士」。
 墓は長崎/大光寺・正法寺、生育の地に石碑・標柱
 銅像は会津武家屋敷 (柔道着/複製)、終焉の地に碑・銅像

 斎藤清については、こちら

 斎藤 常三郎  さいとう つねさぶろう、
 明治11(1878)年11月20日〜昭和26(1951)年7月22日
 斎藤源四郎の3男として若松 (会津若松市) にて誕生。
 <法学者、会津短期大学/初代学長>
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、第一高等学校を経て、京都帝国大学独法科に進む。
 明治37(1904)年、京都帝国大学独法科を卒業し、司法官試補となる。
 大学院で民事訴訟法を専攻。
 明治39(1906)年、判事として、大阪地方裁判所、大阪控訴院に就く。
 大正 8(1919)年、神戸高等商業学校/教授に就任。
 大正15(1926)年、博士号を取得し、神戸商科大学/教授に就任。
 昭和 8(1933)年、滝川事件により多くの教官が辞任しため、京都帝国大学/教授を兼務。
 昭和13(1938)年、京都帝国大学を辞任。
 昭和15(1940)年、神戸商科大学から名誉教授の称号が授与。
斎藤常三郎の墓  その後は、弁護士などで活躍。
 昭和24(1949)年、県立若松商業学校に2年延長の専攻科が設置され、教員に就く。
 昭和26(1951)年、会津短期大学が開学し、初代学長に就任。
 同年、在任半年余りで会津若松市にて死去。
 著作「注釈訴訟記録」「破産法及和議法研究」「民法要論総則」「日本民訴訟法講義案」「日本民法講義」「日本和議法論」など。
 墓は大龍寺
 斎藤 良衛  さいとう りょうえ、
 明治13(1880)年11月15日〜昭和31(1956)年11月4日 (満75歳)
 医師 (旧藩士) の長男として若松町 (会津若松市) にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、東京帝国大学を卒業。
 明治43(1910)年、外交官試験に合格し入省。
 オタワ、ワシントン、中国、本省/通商局課長・局長などをを歴任。
 大正9(1920)年、暴漢に銃撃を受け危篤状態に陥った。
 昭和2(1927)年、外務省通商局長を最後に退官。
 南満州鉄道/理事、関東軍/外交顧問、外務省/顧問などを歴任。
 太平洋戦争では、電波兵器工場で工員として働く一方、陸軍に対して中国から全面撤兵を主張したため憲兵隊に捕まっている。
 故郷に戻り、会津短期大学の第2代/学長に就任。
 早乙女 貢  さおとめ みつぐ、昭和元(1926)年1月1日〜平成20(2008)年12月23日
 本名:鐘ヶ江 秀吉。
 茂一の子として満州/ハルビン (ハルビン市ポツレヤ街10号3番地4) で生まれだが、祖父が藩士で戊辰の役の後にアメリカに渡り、横浜に帰国するも、中国に移住する。
 昭和21(1946)年、太平洋戦争の敗戦で九州に引き揚げる。
 昭和23(1948)年、上京し、しばらくして山本周五郎に師事。
 昭和31(1956)年、歴史小説「鬼の骨」「叛臣伝」で直木賞候補。
 昭和43(1968)年、「僑人の檻」で第60回直木三十五賞を受賞。
 歴史小説を次々に発表し、時代物御三家 (司馬遼太郎、池波正太郎) と称される。
 昭和45(1970)年、「歴史読本」に掲載開始の「會津士魂」は、長賊らが捏造した歴史ではなく、かつ東軍擁護だけでもなく徳川幕府に対しても批判が加えられている。
 昭和49(1974)年、女性初の米国移住「おけい」で吉川英治賞候補。
 昭和63(1988)年、大作「會津士魂」の連載213回 (全13巻) が完結し、第23回吉川英治文学賞を受賞。
 平成13(2001)年、戊辰の役の後の会津藩士を描いた続編「続會津士魂」全8巻が完結。
 平成20(2008)年、胃ガンで死去。
 墓は天寧寺
 笹川 ひろし  ささがわ ひろし、昭和11(1936)年7月9日〜
 会津若松市にて誕生。
 漆塗り職人に就き、平田昭吾たちと「会津漫画研究会」を設立。
 手塚治虫に漫画を投稿し続けていると、雇用を誘う返事がくる。
 昭和32(1957)年、迷わず上京、専属アシスタント第1号に就く。
 昭和33(1958)年、「少年画報」の「探偵学校」で漫画家デビュー。
 昭和34(1959)年、独立し、「鉄腕ベビー」「魔犬五郎」「ワンワン刑事」「少年社長」などを次々に発表。
 虫プロのテレビアニメ「鉄腕アトム」2本の絵コンテを手掛けたことからアニメの魅力に傾倒、「ハクション大魔王」「いなかっぺ大将」などのアニメーション監督や、「宇宙戦艦ヤマト」「天才バカボン」などの演出家としても活躍。
 アニメ「ヤッターマン」の総監督としても知られる
 平成22(2010)年、鶴ヶ城を題材に観光キャラ「お城ボくん」を考案。
 佐治 幸平  さじ こうへい、
 文久元(1861)年11月12日〜大正6(1917)年8月13日 (満55歳)
 地主で醸造業/幸左衛門の子として高田村 (会津美里町) にて誕生。
 藩士/栃木南涯の養子となるが離籍、佐治次左衛門の養子となる。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、福島師範学校に進学し、小学校教員に就く。
 明治15(1882)年、辞職し、在職中に共鳴した自由民権運動を開始。
 同年、極悪人/福島県令の三島通庸が地元民に使役を強要する会津三方道路建設を強行、反対する2千人を超す人を逮捕との暴挙「喜多方事件 (弾正ヶ原事件)」が勃発、好機ととらえた官憲から扇動者として懲役6年の判決が下るが、大審院に上告し無罪を勝ち取る。
 高田村会議員、大沼全村連合会議員、福島県会議員を歴任。
御田神社の頌徳碑  明治20(1887)年、会津協会を設立。
 福島県農工銀行、岩越鉄道会社の役員も歴任。
 明治21(1888)年、県会議員に当選し、政治活動を正式に開始する。
 明治27(1894)年、第4回衆議院議員総選挙/第4区に当選。
 その後、6回の当選を果す。
 明治36(1903)年、平民として初の第4代/若松市長に就任。
 頌徳碑は御田神社
 佐瀬 熊鉄  さぜ くまてつ、慶応元(1865)寝ん〜昭和4(1929)年9月5日 (65歳)
 号:石鴎。
 家老/一ノ瀬要人の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 河沼郡金上村の豪農/佐瀬家を継ぐ。
 後に上京して、海軍軍医学校を卒業。
 明治27(1894)年、朝鮮に渡り、韓国警務庁/医務、監獄署/医務監督などを歴任。
 明治28(1895)年、閔妃暗殺暗殺事件に連座し収監されるが、広島裁判で証拠不十分により釈放。
 明治35(1902)年、第7回衆議院議員総選挙で憲政本党から立候補し初当選、その後は朝鮮の産業開発などに生涯を捧げる。
 佐藤 慶  さとう けい、
 昭和3(1928)年12月21日〜平成22(2010)年5月2日 (81歳)
 本名:佐藤 慶之助。
 会津若松市にて誕生。 先祖は藩士。
 立会津工業学校染織科を卒業し、会津若松市役所/戸籍係に就く。
 地元の新劇愛好会/発表会の日に無断欠勤で免職されるほど没頭。
 昭和27(1952)年、俳優座養成所の第4期生として入団。
 昭和40(1965)年、「鬼婆」でパナマ映画祭/主演男優賞を受賞。
 昭和46(1971)年、「儀式」「日本の悪霊」でキネマ旬報/主演男優賞を受賞。
 日本テレビ「知られざる世界」や映画「東京裁判」など、独特の音声でナレーターとしても活躍。
 昭和56(1981)年、武智鉄二監督「白日夢」で愛染恭子との本番行為で一躍話題になる。
 晩年には、NHK連続テレビ小説「ほんまもん」、大河ドラマ「風林火山」などで貫録ある個性派俳優として味深い演技を演じる。
 平成22(2010)年、肺炎により都内の病院で死去。
 佐藤 駒之進  さとう こまのしん、天保7(1836)年〜大正2(1913)年1月3日 (78歳)
 慶応2(1866)年、別選組として上洛。
 戊辰の役では、日向内記率いる白虎隊士中二番隊の半隊頭として戸ノ口原に出陣し戦死したとされた。
 明治2(1869)年、突如、北海道の開拓移民団として姿を現し、与市/黒川・山田地区開拓に尽力、民間で日本初のリンゴの結実などへとつなげ、与市の発展に大きく貢献した。
 不運にも初陣の少年隊士たちとはぐれ、死に追いやった。
 その責を痛感し、苦悩から帰城できず逃避した。
 戦いが終わると、藩主の助命条件として出された蝦夷地入植に応じ、北海道開拓の先兵となろうと決意したのだった。
 入植しても黙して語らず、懸命に開拓に没頭し、後に推されて黒川村二番村村長に就いている。 彼も殉難者の1人であろう。
 墓は美園霊園
 佐藤 忠八  さとう ただはち (ちゅうはち)、
 文政10(1827)年〜明治36(1903)年4月3日 (享年77歳)
 名:重信。  <数学者>
 刀剣飾具職/渡部氏の次男として鶴ヶ城下て誕生。
 後に藩士/佐藤忠蔵の養子となる。
 幼くして和算を好む。
佐藤先生遺徳碑 佐藤忠八の墓(伝)  明治 9(1876)年、平民となり、小学校や中学校で和算を教授する。
 後に独学で洋算を修め、私塾を開いて若松で初めて洋算を教える。
 明治10(1877)年、県の命令で「和算新書」を著す。
 墓は弥勒寺
 佐藤先生遺徳碑は飯盛山
 佐藤 義長  さとう よしなが、慶応2(1866)年5月20日〜昭和12(1937)年1月8日
 藩士/佐藤大八郎の長男として博労町に誕生。
 幼少時に佐原盛純などに学び、若松予科学校 (県立会津高等学校) に入学するが廃校となったため上京する。
 明治21(188)年、駒場農学校 (東京農工大学農学部) を卒業。
 埼玉師範学校教諭に就き、茨城農業技師、栃木農業技師、京都農事試験場長、京都農学校長を歴任。
 1903年(明治36(1903)年、盛岡高等農林学校の教授に就任。
 宮沢賢治が学んでいるという。
 ドイツ、フランス、アメリカへ留学し帰国後、盛岡高等農林学校の第2代/校長に就任し、農学博士号を取得。
 大正10(1921)年、文部省からの要求を拒否して辞任。
 大正11(1922)年、宇都宮高等農林 (宇都宮大農学部) の創立委員を経て、初代校長に就任。
 昭和4(1929)年、退官し、名誉教授となる。
 著書「東北乃事業」「佐藤博士文集」など。
 佐藤 雄平  さとう ゆうへい、昭和22(1947)年12月13日〜
 下郷町にて誕生。
 昭和41(1966)年、県立田島高等学校卒業。
 昭和45(1970)年、神奈川大学経済学部卒業し、叔父の衆議院議員/渡部恒三の秘書に就く。
 平成10(1998)年、第18回参議院議員通常選挙に初当選。
 平成16(2004)年、第20回参議院議員通常選挙に当選 (2期目)。
 平成18(2006)年、福島県知事選挙に初当選。
 平成19(2007)年、会津鉄道の会長に就任。
 平成22(2010)年、福島県知事選挙に当選 (2期目)。
 同年8月、県民反対の中、福島第一原発のプルサーマル受入れ決定。
 平成23(2011)年、東日本大震災が発生、復興構想会議委員に就任。
 後に、原発3号機が爆発した直後、東京電力に文言「北西の風が吹いており、観測された放射線量から健康に被害が出る心配はない」をいれるよう要請していたことが判明。
 さらに、放射能拡散の予測データ/SPEEDIを公表せずに消去していたことも判明、釈明答弁は「ついつい見逃してしまった」。
 安定ヨウ素剤が配布・投与されなかった件についても、国会事故調査報告書に「知事の権限の不行使が、多くの市町村で配布・服用が行われなかった要因の一つ」と指摘され、事故は人災てはないのかとの県議会本会議でも「国の検証に待つ」に終始し知事がすべき判断から逃げ回り、県民側ではなく国側に立った。
 佐原 盛純  さわら もりずみ、
 天保6(1835)年〜明治41(1908)年12月4日 (享年74歳)
 幼名:佐輔。 初名:貞一。 字:業夫。 号:蘇楳、豊山。
 商家/金上徳兵衛の長男として鶴ヶ城下 (馬場町)にて誕生。
 三忠碑の1人/金上盛備の末裔。
 18歳で江戸に遊学、会津出身の漢学者/添川廉斎や幕府の儒官/杉原心齊、易学/金子霜山に学ぶ。
 文久3(1863)年、外国奉行/池田筑後守長発に随行しフランスに渡る。
 「航海日録/全4巻」を著し、吉井藩主/松平信発の侍講に仕える。
 明治に入り、士族/佐原省三の養子となり佐原盛純と改名、龍ヶ崎藩主/米津政敏に仕える。
 明治 4(1871)年、廃藩置県により、司法省に入り足柄裁判所に赴任。
 明治 8(1875)年、病のため辞職し、若松に帰る。
 明治11(1878)年、教職に就き、若松の各学校を歴任。
 明治15(1882)年、私立日新館の設立で教授に就任。
 明治17(1884)年、白虎隊士の十七回忌を記念して、私立日新館の館長/中条辰頼からの依頼で、今に残る漢詩「白虎隊詩」を創作した。
 「少年団結白虎隊  国歩艱難戍堡塞
    〜 〜      〜 〜
  忠烈赫赫如前日  圧倒田横麾下賢

 振付けは、生徒たちと試行錯誤の上、苦労して決定したという。
佐原盛純の墓 佐原盛純の墓  同年に会津中学校 (県立会津高等学校) 設立で国語と漢文の教師に就任。
 明治34(1901)年、退職。
 明治41(1908)年、脳溢血のため宇都宮の親族の家にて死去。
 墓は正法寺
 佐原先生碑は飯盛山
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