会  津  の  著  名  人

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《 こ 》 幕 末 よ り 前

 小栗山
  喜四郎
 こぐりやま きしろう、延宝4(1676)年〜享保7(1722)年7月1日 (47歳)
 小栗山村の農民。
 年貢に耐えかねて一揆 (会津御蔵入騒動) を起こした指導者の1人。
 幕府に直訴し受理されたが、裁定が長引いた。
 路銀調達で村に戻っていたところ捕縛され田島で斬首され晒された。
 喜四郎の首は息子/岳右衛門により、堂平の墓地に埋葬された。
 墓は田島丸山歴史公園

会津御蔵入騒動  五万石騒動、南山一揆とも。
 南山御蔵入領とは、寛永20(1648)年に保科正之公が会津藩23万石で移封の際、幕府直轄領とした上で会津藩の預りとして成立した5万石強の領である。 実質的には会津藩領と同様に扱われ会津藩の実高28万石、御三家である水戸藩を超えてしまうため、預り領とした配慮であった。
 領域は、現在の南会津全域と大沼郡の大半、河沼郡/柳津の一部。
 その後、幕府直轄が4回/43年間あったが、会津藩直轄は5回/175年と実質的にも会津領であった。
 享保5(1720)年10月、幕府直轄 (天領) になってから年々厳しくなる年貢に耐えかねて、下郷枝松の洞窟で代表47人が協議した上、農民7〜8百人が竹槍・鍬・鋤・棍棒を持って、田島代官所 (代官/山田八郎兵衛) を取り囲んだ。
 享保6(1721)年1月、代官所では埒が明かず代表18人が江戸へ出立、2月に幕府勘定所に年貢の減免や郷頭 (村支配の役人) の廃止など訴状13ヶ条を提出した。
 本来、幕府直轄の年貢は少ないのが一般的なので、直轄からの初の直訴であったため、訴状は受理したものの幕府は苦慮する。
 受理されたことで追加代表17人を江戸に送り、領内271ヶ村の結束は固く代表者33人の江戸滞在費を調達、更に訴状の項目を追加する。
 同年4月、幕府は危機感を持ち始め、本格的な取り調べを開始する。
 郷頭らは不正をしていないと反駁し、領内全戸を1人ずつ呼び寄せるというな取り調べ方法のため農民たちは後難を恐れ、「脅かされて資金を出した・村八分を恐れて加わった」などと態度を豹変、訴人の根底である「代表」の地位が崩れ去り、農民側の敗訴に終わった。
 享保7(1722)年、幕府は一揆を扇動した指導者として、名主3名・百姓3名を斬首、田畑家財没収など科料43人と裁定。
 江戸での取り調べ中、9名が牢死している。
 同時に幕府は、直轄から会津藩預り領に戻すことで「年貢米の江戸廻米の廃止・年貢金納への米納強制の中止・新雑税の一部廃止」などの要求の一部を実現させ、後に代官/山田八郎兵衛・郷頭3人を罷免した。
 犠牲となった6人は「南山義民」として語り継がれる。
 大正9(1920)年、小栗山に義民の頌徳碑が建立。
 昭和16(1941)年、土井晩翠碑「義民の詩」が建立。
 昭和3(1928)年、喜四郎が埋葬された墓域 (丸山史跡公園) に南山義民之碑が建立。
 平成7(1995)年、供養のため六地蔵を再建。

《 こ 》 江  戸  幕  末

 小池 帯刀  御普請奉行。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛。
 禁門の変では、壱番隊大砲隊第一分隊長として活躍。
 戊辰の役で江戸総引き揚げの際には残留し、旧幕府が所有の武器弾薬を調達して会津へ移送する任務に就く。
 任務を終えると、幕軍/第一大隊として奮戦。
 まもなく帰藩し、工兵隊頭 (築城隊) として大平口など各地で奮戦。
 籠城戦になると、城外で奮闘する。
 開城後は高田幽閉(謹慎)されたが、小田山から鶴ヶ城への砲撃に内通した者が極楽寺の僧と聞き、斬殺すべく幽閉地から脱走。
 帰郷すると、すでに武田宗三郎が藩の裏切り僧の斬殺目的を果たし処刑されていたため、晒されていた首を夜陰に紛れて盗み出して埋葬。
 しばらく逃亡したが、烏橋 (新横町) で捕まり、高田幽閉所から脱走した罪で、宗三郎と同じ橋本川原で斬首された (48歳)。
 養子/周吾は、同じく白河城(小峰城)を奪取した時の純義隊/隊長。
 当時、赤子であった次男/洋二郎は、明治15(1882)年に「日本新聞歴史」を発刊するなど東京で文筆活動において活躍した。
 小出 光照  こいで みつてる、
 弘化2(1845)年〜明治7(1874)年2月18日 (享年29歳)
 通称:鉄之助。 号:斗南。
 藩士/篠田覚左衛の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 後に、小出只五郎の養子となる。
 藩校/日新館で頭角を現し、松平容保の小姓に抜擢されるも辞退、江戸への遊学が許され、幕臣/古屋佐久左衛門の私塾に入り洋学を学ぶ。
 慶応3(1867)年、向学の志を捨てがたく、古屋の勧めで外国への留学を決意し脱藩、横浜で出航に備える。
 出航前の翌年に戊辰の役が勃発すると、急きょ翻意し帰藩する。
 軍事方として越後方面で奮戦後、籠城戦に加わり戦い抜く。
 開城後は、東京幽閉(謹慎)を経て、斗南藩/田名部に移住し大属・司民掛などを歴任。
 廃藩置県後は弘前県中属、松前福山開拓支庁長などを歴任。
 明治6(1873)年、上京し、官職として佐賀県大属に赴く。
 明治7(1874)年、佐賀の乱が起こり反乱軍と奮戦するも戦死。
 妻/操は、山川浩の妹。
 墓は東京/谷中霊園 (乙6号2側) だったが、無縁墓として八柱霊園に移動され不詳。
 小林 愛竹  こばやし あいちく、天保5(1834)年〜明治30(1897)年10月4日 (64歳)
 名:醇。 通称:義介、義助。 字:士清。 号:布山。
 藩士。
 12歳で星研堂に書を学び、文才が花開く。
 元治元(1864)年、禁門の変に参戦。
 慶応4(1868)年、戊辰の役では籠城して戦い抜く。
 開城後は、猪苗代で謹慎中に脱走するが、捕えられて投獄される。
 各地を転々としたのち新潟に移住し、竹木や金石に篆刻・彫刻に精進し、研鑽すること数年で精巧の域に達する。
 後に、金沢、福井に移り住み、篆刻や書を生業として名をあげる。 した。
 朴訥な好人物で、酒をこよなく愛したという。
 小森 一貫斎  こもり いっかんさい、文化12(1815)年〜明治4(1871)年
 幼名:千代吉、久太郎。 藩士/小森悌蔵の長男。
 松平容保の京都守護職就任では、公用人として上洛。
 戊辰の役では、朱雀士中一番隊/中隊頭として楊枝峠の守備に就き、白河に移り白河の戦いに参戦。
 母成峠の戦いには、軍事方として参戦。
、籠城戦では、軍事奉行に就き、戦い抜く。
 開城後は、東京/神田町の佐倉藩堀田邸に幽閉 (謹慎) 中、病死。
 墓は東京/長谷寺とのことだが不詳。
 小森 駿馬  こもり かずま、天保11(1840)年〜明治44(1911)年9月27日
 藩士/小森一貫斎の長男として江戸藩邸にて誕生。
 戊辰の役では、公用人の父/一貫斎が国境警備で転戦していたため、代わりに側用人として松平容保に仕えた。
 慶応4(1868)年8月23日、 鶴ヶ城下に迫ると、江戸を引き払ったため身を寄せていた親戚の西郷邸で家族は自刃した。
   ◇ 祖母/ヒデ (77歳)   ◇ 妻/ミワ (24歳)
   ◇ 子/千代吉 (5歳)、ツネ(10歳)、ミツ (2歳)
 開城後は 東京で幽閉(謹慎)、後に斗南藩/上北郡藤坂村へ移住。
 明治6(1873)年、東京に移住。
 明治44(1911)年、死去し、長谷寺に埋葬される。
 「直伝院坦道英駿居士」。

小池勝吉  小池源五郎勝春  小池繁次郎功成  小池滝江  小池弥久  上崎且馬  国府源十郎・辰次郎・篤三郎  小平常五郎  後藤基充  小沼安任  小林幸太郎  小林平馬  小林祐之進  小林米蔵  小日山友四郎・善次郎・覚次郎  小松忠之進  小檜山包四郎・岩次郎

《 こ 》 幕 末 よ り 後

 上崎 辰次郎  こうざき たつじろう、万延元(1860)年12月〜明治28(1895)年3月14日
 藩士/上崎且馬の次男として鶴ヶ城下にて誕生。  父/且馬は番頭組外様士を勤め、戊辰の役では桑名藩隊の軍目付として戦死した。
 兄/辰太郎は台湾守備砲兵第三大隊長として戦死している。
 明治6(1873)年、水夫として海軍に入る。
 台湾出兵や西南戦争に従軍し、軍功により上等兵曹へ昇進。
 横須賀水雷隊攻撃部、対馬水雷隊攻撃部を歴任。科  第三水雷艇隊附として日清戦争に参戦。
 清国/北洋艦隊の根拠地/威海衛湾の湾口には防材・機雷が敷設されており、日本海軍が接近できないでいた。
 上崎は水雷艇を巧みに操り、機雷群を突破し防材に爆薬を仕掛け破壊を繰り返す戦績を残した。
 明治(1895)年2月5日深夜、第三水雷艇隊に威海衛湾内の敵艦隊攻撃の命令が発令、厳寒の中、10隻の水雷艇が世界初の水雷による夜襲をかけた (威海衛の戦い)。
 上崎が水雷主任であった第六号艇は、自走式ではなく爆薬で発射する水雷であり、発射管の故障により発射できなかった。
 艇長は責任を問うことも無く、連合艦隊司令長官/伊東祐亨が視察の時も水雷が発射管から半分出た状態を見届けると逆に慰労をしている。
 「殊ニ上等兵曹上崎辰次郎沈着機敏ニシテ實二兵員ノ亀鑑ト為スニ足ルモノアリシ
の碑  明治28(1895)年、日清戦争が終結し講和条約締結されるのを見届けると、責は戦功で償えないとして切腹して果てた。
 明治29(1896)年、上崎の忠節を語り継ぐため、埋葬されたが横須賀/龍本寺に顕彰碑が建立され、切腹に使用した軍刀は鑑として海軍水雷学校に納められた。
 顕彰碑は、昭和43(1968)年に海上自衛隊第二術科学校の敷地内に移された。
 碑文には竜本寺に埋葬とあるが、墓碑は確認できず。
 郡 虎彦  こおり とらひこ、明治23(1890)年〜大正13(1924)年 (35歳)
 ペンネーム:萱野二十一。
 私塾経営/鈴木耕水の6男として東京市京橋区南八丁堀 (東京都中央区湊) にて誕生。
 母方の叔母夫婦/萱野寛四郎 (萱野権兵衛の3男) の養嗣子となる。
 明治35(1902)年、養父の勤務地/神戸市から転居し、学習院中等学1年級に編入学。
 上級生の志賀直哉や武者小路実篤と巡り合い、小説「松山一家」で「太陽/博文館」の懸賞に入選し文壇に進出、「白樺」に参最年少の同人として参加する。
 明治44(1911)年、学習院高等学科を卒業し、東京帝国大学文科英文科に入学。 「幻想曲」「鉄輪」「腐敗すべからざる狂人」「道成寺」などを次々に発表。
 大正2(1913)年、東京帝大を中退し、ヨーロッパへ渡る。
 大正6(1917)年、著書の「鉄輪」を英訳して発表すると、ロンドン/クライテリオン劇場で上演される。
 病気のため一時帰国はしたが、すぐにヨーロッパに戻り転々とする。
 大正11(1922)年、「義朝記/英文」を著すと、ロンドン/リトル・シアターで上演され、「タイムズ」紙にも掲載されるなど大評判となり、国内より国外で不動の地位を得る。
 大正13(1924)年、スイスのサナトリウムにて結核で客死。
 郡 長正

 こおり ながまさ、安政3(1856)年〜明治4(1871)年5月1日 (16歳)
 幼名:乙彦。 旧姓:萱野。
 家老/萱野権兵衛と母/タニの次男。
 幼少より文武両道に秀でており、将来を嘱望されていたが、13歳の時に戊辰の役が勃発。
 明治2(1869)年5月18日、父/権兵衛が藩主を護るため謂れ無い戦争責任を一身に背負って、飯野藩/保科邸内で自刃した。
 父/権兵衛が戊辰の役の責任を負ったため家名断絶、嫡男/長準が萱野家の家督相続するが、残りは初代/長則の姓である「郡」に改姓する。
 同年11月、藩ごとの流刑ではあるが、まがりなりにも斗南藩が成立。
 境遇は苛烈を究め、過酷な藩政を引き継ぐ優秀な人材を育てるべく、他藩への子弟留学を決めた。
 明治3(1870)年、選抜された1人 (最年少) として、小倉藩校/育徳館に留学する。 文武両道の修行に励み、瞬く間に頭角を現し、羨ましがられるほどに成長、この羨望が後の事件の1因となる。
 明治4(1871)年、東京に在住していた母への感謝の手紙の中に、食事の量が少ないので「干し柿」を送って欲しいと書き記した。
 16歳の育ち盛りであったのだが、母からの返事は厳しかった。
 「おまえは斗南へ行った人々の苦労を知っていますか 会津の武士の子が食物のことをあれこれ言い 柿を送ってくれとは見下げ果てた根性です 再びこのようなことを言ってよこすなら おまえは萱野権兵衛の子ではありません
 自分の甘えを深く反省し、母の手紙を肌身離さず懐に入れていた。
 しかし、在ろうことか落してしまい、藩校生に読まれてしまう。
 「会津の武士道とは食べ物なのか」「留学の分際で食べ物に不満か」などと大衆の面前で罵倒される。
 幼いながらも自分の不始末は、自分で雪がねばならない。
 同年5月1日、迫っていた藩対抗の剣道大会で全勝した後、会津武士の誇りを守るため育徳館南寮で自刃して果てた。
 母に伝えられた自刃の日付けは、なぜか「5月18日」だった。
 墓は甲塚墓地 (福岡県みやこ町豊津) と天寧寺
 長賊の末末は、ここでも最近、捻じ曲げた戯言を持ち出している。
 小西 重直  こにし しげなお、明治8(1875)年1月15日〜昭和23(1948)年7月21日
 幼名;代吉。
 米沢藩士/富所幸吉の子として山形県米沢市にて誕生。
 幼き頃に父が死去、藩も消滅しており、生活苦から母子心中を企てたが一命を取りとめている。
 母の従弟にあたる会津藩士/小西馬之允の養子 (11歳) に迎えられ、私立日新館 (後の会津中学校) に学ぶ。
 第二高等学校 (東北大学) を経て東京帝国大学を卒業、ドイツへ留学し哲学者/フォルケルトに師事。
 帰国後、広島高等師範学校、文部省を歴任。
 文部官僚/澤柳政太郎の招聘により、京都帝国大学/教授に就任。
 昭和8(1933)年、同じ会津出身の総長/新城新蔵の後任として、京都帝国大学の総長に就任するが、程なく学問の自由と大学の自治を脅かす「滝川事件」が勃発し、文部大臣/鳩山一郎から繰り返される強要を最後まで拒否し続け、総長を辞任する。
 玉川学園や成城学園などの創立に関わり顧問を歴任。
 山鹿素行などの哲学に景仰し、自らの教育論「アジアを支える技術者育成」を実現すべく興亜工業大学 (千葉工業大学) の創設に関わる。
 立命館大学予科や立命館中学校の学監などを歴任。
 太平洋戦争後は、幼少時代の体験による教育哲学「敬・愛・信」から、戦争孤児の教育に尽力する。
 著書「教育の本質観」「労作教育」「感謝の生涯」など。
 小林 栄  こばやし さかえ、
 万延元(1860)年7月23日〜昭和15(1940)年7月28日 (79歳)
 藩士/兵右衛門の子として猪苗代にて誕生。
 慶応4(1868)年、戊辰の役により藩校/猪苗代学校に入る予定が中止となり、勉学の機会を失ったことで後に教育の道に進む芽出となる。
 父/兵右衛門と兄/英徳は出征し、兄/英徳が戦死とのこと。
 開城後、父/兵右衛門は越後/高田藩に幽閉 (謹慎)、釈放後も斗南藩には移らず、猪苗代に戻ったとのこと。
 明治 3(1870)年、見祢山に開設された幼学所に入学。
 明治 6(1873)年、猪苗代の小林恒三宅に開設された小学校に入学。
 明治 9(1876)年、若松 (会津若松市) の師範学校を受験して合格。
 明治11(1878)年、師範学校3校が福島に統合され、その福島師範学校同校 (福島大学) の一期生として首席で卒業、校長から福島で赴任するよう慰留されるが断り、故郷の猪苗代高等小学校の教職に就く。
 「教職は 自分自身の出世のための仕事ではなく 後進の教養向上 子孫たちの幸福こそ 真の教育である
 同校の主席訓導 (教頭)、校長を歴任。
 明治21(1888)年、三ツ和小学校に試験官として赴いた際、受験生の清作 (野口英世) と運命的に出会う。 指の手術の支援、高等小学校進学の説得など英世の成長に後見人として大きくかかわることになる。
 明治26(1893)年、千里小学の校長に就任。
 明治38(1905)年頃、 徴兵検査の学力試験官に携わった時、やさしい試験問題なのに答えられない受験生が多いのにショックを受け、学校設立を決心する。
 大正2(1913)年、千里小学の校長を辞任。
 大正5(1916)年、農閑期に通学できるように考慮した「猪苗代日新館」を創立し、館長に就任。
 運営が苦しいことを知るや、英世は大金を寄贈し、毎年 運営資金を寄贈、栄が死去するまで開校され続けた。
 設立前年に帰国した際、「猪苗代日新館」の額を揮毫している。
 小日山 直登  こびやま なおと、
 明治19(1886)年4月26日〜昭和24(1949)年8月28日 (満63歳)
 士族の子として鶴ヶ城下にて誕生。
 極貧のため小さな水車小屋で生活していたという。
 明治38(1905)年、会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業。
 明治45(1912)年、東京帝国大学英法科を卒業、文官高等試験に合格し、南満州鉄道に入る。
 大正7(1918)年、撫順炭鉱 (満鉄の管理下) に就く。
 昭和2年(1927)年、南満州鉄道/理事に就任、次いで国際運輸株式会社/代表取締役に就任。
 昭和10(1935)年、北満州金鉱会社/社長に就任。
 昭和12(1937)年、昭和製鋼所/社長に就任に就任。
 昭和13(1938)年、満州重工業開発会社/理事に就任。
 昭和16(1941)年、鉄鋼統制会/理事長に就任。
 昭和18(1943)年、南満州鉄道/総裁に就任。
 昭和20(1945)年、第5代/輸通信大臣に就任、初代〜第2代/運輸大臣、貴族院議員、石炭庁長官を歴任。
 閣議でポツダム宣言受諾の意思を示す。
 昭和21(1946)年、公職追放となる。
 小室 直樹  こむろ なおき、
 昭和7(1932)年9月9日〜平成22(2010)年9月4日 (満77歳)
 父/隆吉と母/チヨの子として東京府多摩郡多摩川奥沢村 (世田谷区奥沢町) にて誕生。
 昭和12(1937)年、5歳の時に父の急死で、母の故郷/柳津町に移住。
 昭和20(1945)年、会津中学校 (県立会津高等学校) に入学。
 昭和24(1949)年、会津中学校を卒業し、県立会津高等学校に進学。
 会津高校の時代にも弁当を持参できないほど生活は貧しく、それを知った同級生で後の政治家/渡部恒三が下宿に弁当2個を頼んでくれたため、やっと昼食にありつける始末だったという。
 昭和26(1951)年、会津高校を卒業し、京都大学理学部数学科に入学。
 京大受験の時、帰りの交通費が無くなり、京都から会津まで歩いた。
 昭和30(1955)年、京大を卒業、大阪大学大学院経済学研究科に進学。
 昭和34(1959)年、阪大大学院を中退したが、留学生に推薦されアメリカのミシガン大学大学院に留学し本場の経済学を学ぶ。
 その後も、マサチューセッツ工科大学大学院、ハーバード大学大学院で経済学を研鑽する。
 昭和37(1962)年、留学限度3年により帰国。
 昭和47(1972)年、東京大学から法学博士号を取得し、東京大学非常勤講師に就任。
 経済学者、法学者、社会学者、評論家として活躍。
 平成18(2006)年、終生の仕事となる東京工業大学世界文明センター特任教授に招聘され就任。
 平成22(2010)年、ロッキード事件の際には田中角栄を徹底的に擁護し、立川談志からは「師匠・大先生」と慕われ、天才とも奇人とも呼ばれた人生を、心不全により東京大学医学部附属病院で終えた。
 著書は「ソビエト帝国の崩壊」「アメリカの逆襲」など60冊を超え、共著10冊ほど、再出版10冊ほどある。
 小山 知一  こやま ちいち、明治26(1893)年7月17日〜没年不詳
 喜多方にい誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) を卒業し、第四高等学校 (金沢大学)に入学、その後に東京帝国大学へ進む。 在学中に文官高等試験に合格。
 大正8(1919)年、東京帝国大学を卒業し、警視庁に就く。
 警視庁警部、警視庁保安部保安課長、愛知県警察部特高課長を歴任。
 その後は、福岡県内務部社会課長、高知県学務部長、岩手県経済部長などを歴任。
 昭和12(1937)年、第32代/佐賀県知事に就任。
 昭和14(1939)年、文部省普通学務局長に就任するが、年末に第35代/高知県知事に転身、
 昭和16(1941)年、第35代/高知県知事を辞任、
 戦後は、弁護士として活躍していたという。
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