会  津  の  著  名  人

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《 た 》 幕 末 よ り 前

 大円禅師  だいえん−ぜんし、
 寛元2(淳祐4、1244)年〜徳治元(1306)年9月26日 (63歳)
 字:鏡堂。 諱:覚円。
 中国/南宋時代西蜀 (四川省) の禅僧。
 「文永の役」の後、執権/北条時宗は蒙古再来襲に備えるため、情報を得ようと宋から高僧を招請した。
 弘安2(1279)年、大円禅師 (鏡堂覚円) と仏光禅師 (無学祖元) の高僧2人が招きに応じ来日する。
 弘安10(1287)年、葦名泰盛公の招きを受けて会津に入る。
 到着するや紫雲たなびくを見て、めでたいことの起こるしるし/瑞相とし、瑞雲山興徳寺を開山する。 会津に初めて臨済宗が伝わった出来事でもある。
 後に、禅興寺、仏光禅師が開山した鎌倉/円覚寺、建長寺に移る。
 正安2(1300)年、京都/建仁寺に移り、7年後に入滅。
 興徳寺は天下十刹の1つに列せられるほど隆盛し、伊達政宗公の会津侵攻の仮政庁となり、豊臣秀吉の「奥羽仕置き」発令の時の宿舎であり、蒲生氏郷公墓があることで全国的にも知られている。
 戊辰の役では、旧幕府軍頭取/古屋佐久左衛門や桑名藩主/松平定敬の宿舎となるが、戦火で焼失してしまった。
 大道寺 友山  だいどうじ ゆうざん、
 寛永16(1639)年〜享保15(1730)年11月2日 (92歳)
 名:重祐。 通称:孫九郎、号:知足軒、友山。
 元は越後高田藩士だった浪人/大道寺繁久の子。
 小幡景憲、北条氏長らに甲州流の兵学を学び、山鹿素行に師事し山鹿流兵学の奥義を極める。
 元禄10(1697)年、会津藩に召し抱えられる。
 元禄13(1700)年、会津藩を去る。
 晩年は越前/福井藩に仕え、子孫も代々福井藩に仕える。
大道寺友山の墓  著書「武道初心集」「岩淵夜話」「落穂集」「駿河土産」など。
 享保15(1730)年、江戸において死去。
 墓は東京/東北寺。
東北寺
 ▲東北寺
  (渋谷区広尾2-5-11
  Tel. 03-3409-2065)
 高倉宮
   以仁王
 たかくらのみや もちひとおう、仁平元(1151)年〜治承4(1180)年
 邸宅のあった三条高倉の地名から、三条宮、高倉宮と称される。
 第77代/後白河法皇と母/成子 (藤原季成の娘) との第3皇子。
 兄/守覚法親王が仏門に入ったため、第2皇子とも表記される。
 幼くして出家し、天台座主最雲法親王に師事。
 応保2(1162)年、12歳の時に還俗。
 永万元(1165)年、近衛河原の大宮御所にて内密に元服。
 治承3(1179)年、平清盛のクーデター「治承三年の政変」により後白河法皇が幽閉され、以仁王も常興寺領を没収される。
 治承4(1180)年、平家討伐を決意、全国の源氏に平家追討の「令旨」を発し、自らも「最勝親王」と名乗り挙兵する。
 正史では、平家家人/藤原景高や藤原忠綱ら追討軍によって南山城の加幡河原で5月26日に戦死とされるが、遺体は見つかっていない。
 伝承では、平氏の追討軍に追われた以仁王が平等院で自害を決意した時、家来/足利又太郎忠綱が身代わりとなり討たれ、逃亡に成功する。
 その場から逃走する際には、子/鶴丸と乳兄弟/六条助大夫宗信の2人だけを伴なって、女装して逃げたという。
 源頼之の領地/小国へ向かうべく、東海道から甲斐・信濃の山路を越え沼田に着いた一行は、沼田街道を通り尾瀬ヶ原に至り、越後へのルートを探る探索隊を出し休息するが、戻るまで8日間滞在した。
 越後への山越えルートは難路で走破は無理との報告を受け、桧枝岐を抜け伊南村・舘岩村・田島 (南会津町) を経て、柳津村へ向かおうとするが追手の噂を聞きつけ、山本村(下郷町)に向かう。
 山本村に滞在してから出立し、峠を越えようとした時、平氏側である柳津村の石川冠者有光が率いる軍兵2百余人に急襲される。
 天候が急変し大きな氷が降ってきたとか、火の玉が突然 出現したとか、狂風が吹き荒れ有光軍に石を飛ばしたとか、で、敵兵が恐れ惴き敗走したため引き返すことができた。
高倉神社  この御徳を聞いた村人たちは、山本村から大内村へ村名を改め、以仁王を祀る高倉神社を創建した。この後、峠は「氷玉峠=火玉峠」と呼ばれるようになる。
 その後、追ってから逃れるべく、戸石村から田島/針生村を経て、駒止峠を越え、山口、井出沢村を経て楢戸村 (只見町) の龍王院に至る。
高倉宮以仁王の墓  宿泊中、再び石川冠者有光に襲われるが、渡邊丁六唱ら農民たちが武装して立ち向かい、激戦の末に有光を討ち取った、
 楢戸村を発ち、叶津からの八十里越えを通り、蒲原郡小川の荘 (会津領) に向かった。
 ほどなく追討軍に見つかり、旧/会津領の境で自決したとされ、墓が現存している。
 追ってきた愛妾/桜木姫の墓や、清水/薬水安宮清水唱ヶ崎古戦場など、単なる伝説とは考えにくい関連史跡が数多く残っている。
 高津
  [シ+畄]川
 たかつ しせん、天明5(1785)年〜慶応元(1865)年11月20日
 名:泰 (ひろし)、学。 通称:平蔵。 字:平甫。
 藩士/佐藤信庸と母/加賀山蕭山(書家)の妹との4男。
 一時期、実父/信庸の旧姓/樋口を名乗る。
 後に、藩士/高津伝吾成良の養子となる。
 下級武士で貧しかったが、苦学し才能が認められ、江戸に遊学。
 文化5(1808)年、北方警備の陣将/北原采女に従い唐太に布陣し、「終北録」を著す。
 文化8(1811)年、藩命により安部井帽山に従い上京し、幕府の儒学者/林述斎や昌平黌の儒学者/古賀精里らに師事し、朱子学を修める。
 後に、林述斎や古賀精里らに随行して対馬に赴き、朝鮮の使者の通訳 (筆談) を勤め、「対遊記」を著す。
 学校奉行として多くの子弟を育成し、儒学者として松平容衆公容敬公の侍講も勤め、老いて隠居後も命により容保の侍講と、3代の藩主に亘る侍講を勤めた。
双徳碑 高津[シ+畄]川(naka-上)  詩文にも優れ、佐賀藩/草場佩川と並び東西の「儒者二川」と称された。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。 遺言により安部井帽山の傍らに埋葬)。
 「[シ+畄]川先生墓
  慶応元年十一月廿日歿 高津平蔵

 双徳碑は飯盛山
  (安部井帽山との碑)
 高橋 誠三郎  たかはし せいざぶろう、
 天保2(1831)年〜文久元(1861)年5月11日 (31歳)
 名:宗彰。 字:有常。 号:古渓。
 藩士/勝助方孝の3男として五ノ町にて誕生。
 南学館から講釈所に進学し、高津[シ+畄]川に師事し才能を現す。
 江戸/昌平坂学問所(昌平黌)に遊学すると才学を称えられ、数多くの他藩の藩士たちと親交を深めている。
 師の高津[シ+畄]川から松平容保の侍講に推薦されたが、下級士族だったため実現はしなかった。
 万延元(1860)年、会津に戻る。
 自在院に埋葬されたとのこと。
 高橋 徳元  たかはし とくげん、天正17(1589)年〜寛永18(1641)年
 別名:、継方。
 先祖は蘆名氏の家老/富田氏一族で代々典医を勤めたと云われる。
 天正17(1589)年、摺上原の戦いで蘆名氏伊達政宗公に滅ぼされたため、柳久保村 (柳西) に移住し農業に従事することになった。
 しかし、一帯は水の便が悪かったので、馬越村の大川 (阿賀川) からの引水工事を領主に願い出たが、折しも黒川城 (鶴ヶ城) の大修理の最中だったため要望は却下された。
 慶長2(1597)年、決意を新たに私財を投じて工事に着手する。
 雑木などが繁茂する原生林や、河川・湿地帯に石を積んで水路を通し、洞穴を掘ったりと、未許可のため藩に隠れての難工事が続いた。
 寛永3(1626)年、苦節28年余りの歳月を乗り越え、遂に難工事「うつろ堰」は完成し、七ヶ村 (相川村・大石村・福永村・八重松村・大八郷村) 約160町歩の水不足は一挙に解消された。
 寛永18(1641)年、死去すると、恩恵を受けた近郷民らは功績を偲び、碑と徳元堂を建てた。
 ▲徳元堂 (会津美里町本郷道東)

 滝夜叉姫については、こちら

 武田 菊姫  たけだ きくひめ、
 永禄元(1558)年〜慶長9(1604)年2月16日 (享年47歳)
 別名:阿菊御料人、甲斐御前、甲斐御寮人。 院号:大儀院。
 武田信玄と母/油川夫人 (油川信守の娘) との5女 (6女とも)。
 元亀4(1573)年、父/武田信玄が死去。
 天正3(1575)年、兄の武田勝頼が長篠の戦いで織田信長に敗れる。
 天正7(1579)年、織田・徳川連合の攻勢に同じく存亡の危機であった上杉家との同盟締結の証として、上杉景勝公の正室となる。
 かつての敵の娘にもかかわらず、質素倹約を旨とし賢い人だったため、才色兼備の賢夫人として敬愛され丁重に扱われたという。
 天正17(1589)年、小田原征伐に先立ち豊臣秀吉から妻女を在京させる命により上洛、京都伏見/上杉邸で人質としての生活を送る。
 夫/景勝公の会津への加増移封はもちろん、秀吉死後も関ヶ原の戦いで米沢への減封にも京都から離れることはなかった。
媛姫の墓  慶長8(1603)年、病床に伏す。
 慶長9(1604)年、前年から滞在していた夫/景勝公が名医を呼び寄せたり、神社仏閣へ病気平癒の祈願も空しく、伏見/上杉家屋敷にて夫/景勝公に看取られながら死去。
 「大儀院殿梅岩周香大姉」。
 実子には恵まれなかったが、景勝公のみならず家臣たちも大いに嘆き悲しんだという。
 墓は京都/妙心寺亀仙庵 (隣華院)。
 後年に米沢/林泉寺にも墓碑建立。
 竹姫  たけひめ、生没年不詳
 越後の国司/城資国の妹。
 承安2(1172)年、慧日寺最盛期の衆徒頭/乗丹坊へ嫁ぐ。
 兄/城資国は、会津を二分する高寺慧日寺との争いに乗じ、高寺一派と連合し慧日寺を攻めるも失敗する。
 そこで、一変して慧日寺一派と手を組み高寺を滅亡させる。
 その政略結婚であった。
 この時、小川荘 (東蒲原郡) を慧日寺に寄進、明治に入り長賊らにより新潟県に割譲されるまで700年も会津領であった。
 治承5(1181)年、平氏政権から信濃源氏/木曽義仲の追討を命じられた城資国の子/城長茂 (助茂、助職、資職) の要請に応じ夫/乗丹坊は会津四郡の兵を率いて出兵したが、横田河原の戦いにおいて戦死した。
 その後、慧日寺は衰退をたどり、竹姫の消息も不明となる。
 伊達 彦姫  だて ひこひめ、天文21(1552)年〜天正16(1588)年
 蘆名盛興公蘆名盛隆公と2代領主の正室。 伊達政宗公の叔母。
 伊達氏当主/伊達晴宗と母/久保姫との4女として誕生。
 永禄9(1566)年、蘆名盛氏公の嫡男/盛興の正室になる。
 盛氏公の正室も伊達植宗の次女であり、同じ植宗の4女/彦姫を迎えることで伊達家との関係を強化する。
 天正3(1575)年、父/盛氏公からの禁酒令にも従わず、盛興公が酒毒で世継を残さずに早世してしまう (29歳)。
 義父/盛氏公は彦姫を養女にして、人質であった二階堂盛義の長男/平四郎 (盛隆公) を婿養子にし、彦姫を正室に据えた。
 若いながら優れた武将と誉れ高く、幸せな未来を迎えるはずだった。
 天正12(1584)年、9月に嫡男/亀王丸を出産したが、10月に夫/盛隆公が黒川城 (鶴ヶ城) 内で家来/大庭三左衛門に暗殺される。
 享年23歳での早すぎる突然の死により、生後1ヶ月の亀王丸 (隆氏公) が第19代領主に就任するが、翌々年の天正14(1586)年に疱瘡で夭折してしまう。
 天正16(1588)年、蘆名氏の衰退に翻弄された悲運の生涯を閉じた。
 翌年の天正17(1589)年、甥の伊達政宗公によって蘆名氏は滅亡する。

 伊達政宗公については、こちら

 田中 月歩  たなか げっぽ、宝暦13(1763)年〜天保9(1838)年5月20日 (76歳)
 幼名:出来蔵、友蔵。 名:慶名、東昌。 通称:昌之進。
 俳号:草蘿、月歩、再児。
 高田村 (会津美里町) にて誕生。
 寛政 7(1795)年、郷頭に就任 (33歳)。
 寛政11(1799)年、病気を理由に田中重好を郷頭代勤とする。
 享和元年〜文化3年(1801〜1806)年、諸国を遍歴。
田中月歩の墓  行脚した各地で句を詠み、多くの友と交わり、俳諧での門下は1千人を超えると云われる。
 奥義を極めるなど兵法にも長けており、書画にも優れていた。
 文化11(1814)年、「継声館日記」を著す。
 天保 9(1838)年、死去。
 「真壽院賢岳義範居士」
 墓は龍興寺
 天保10(1830)年、一周忌を記念して友人・弟子らが編集した句集「袖塚集」が出版される。
 田中 玄純  たなか はるずみ、文化4(1807)年〜文久1(1861)年
 通称:鉄之丞。
 家老/田中玄宰の従兄弟の子。
 軍事奉行・学校奉行などを歴任。
 安政6(1859)年、幕命により若年寄陣将として蝦夷地警備に赴任。
 本営をシベツ (標津) に設営し、ロシアの脅威に備えた。
 文久元(1861)年、再び東蝦夷領内 (標津、斜里、紋別) を巡回。
 帰路の途中、勇払(現/苫小牧)で病死。
 墓は高龍寺

 嫡男/源之進玄直 (猪苗代城代) は函館市相生町に移り住み、次男/金次郎玄忠は江差の裁判所書記となり、三女/八重の三女/田中アイは函館で看護婦・産婆として活躍。 田中清玄の曾祖父。
 田中 玄宰  たなか はるなか、
 寛延元(1748)年10月8日〜文化5(1808)年8月7日 (享年61歳)
 幼名:小三郎。 初名:玄堅。 通称:加兵衛、三郎兵衛。
 父/田中玄興と母/梶原氏の子。 田中正玄の子孫。
 宝暦10(1760)年、父が早世したため、13歳で家督を継ぐ。
 明和2(1765)年、18歳の若さで使番に就く。
 その後、番頭、奉行などを歴任。
 天明元(1781)年、若年寄、次いで家老に就任。
 天明2〜3(1782〜1783)年、未曽有の「天明の大飢饉」に見舞われ、藩財政は破綻寸前、領民は困窮の極みに達し、士風の乱れは地に落ちた。
 領民救済と藩政改革を提言したが願い出たが受け入れられず、病と称して辞職 (休職) する。
 生駒内蔵助や後藤安之丞たちと兵制改革、松本重堅や浮洲観水たちと経済改革を練りに練り、藩主/松平容頌公に提言し許可を得ため復職して藩制の大改革を断行する。
 長沼流を兵制に採用し心身鍛錬を藩士に徹底させ、能力による積極的な人材登用を実施、将来の人材育成に藩校/日新館を創立、殖産興業 (漆器酒造り絵ろうそく朝鮮人参など) の奨励など画期的な大変革を果敢に推進した。
 京都から蒔絵師や染師など、大阪から酒造りの杜氏などを招き技術の向上を推進し、江戸に直売所を設置し売上の拡大を図っている。
 月毎に家老が担当していた監督を、4部門 (軍事・財政・裁判・庶民) に分割し、各々を専従する組織へと藩政も変えている。
 やがて「天明の大改革」の効果は表れて藩財政は持ち直し士風も復活、名実ともに文武の優れた雄藩として基礎が確立され、「会津藩中興の祖」と称される。
 しかし、大きな禍根も残した。 ロシア海軍が樺太や北海道の漁村で略奪・焼き打ちを繰り返したので、文化4(1807)年に幕府は秋田藩・弘前藩・仙台藩などに蝦夷地へ出兵し防備を命じた。
 親藩である会津藩に任の義務はないのだが、玄宰は藩士の鍛練と称し樺太出兵を願い出た。 幕府への宣伝もあったとされる。
 文化5(1808)年、軍将/内藤源助信周のもと5隊1,558名と人夫などを含め約5千人が鶴ヶ城を出立した。
 この行為が後の江戸湾警備や、再度の北方防備、京都の治安維持及び御所警備は彦根藩など近隣の諸藩が行なう習わしであるのに京都守護職就任へとつながり、会津藩は疲弊し、そして消滅する原点となる。
田中玄宰の墓  文化5(1808)年、樺太出兵の最中、死去。
 「我が骨は 城と日新館の見えるところに埋めよ」との遺言通り、小田山の山頂に埋葬された。
田中玄宰の墓
 田中 正玄  たなか まさはる、
 慶長18(1613)年6月18日〜寛文12(1672)年5月28日 (享年60歳)
 幼名:右京。 通称:三郎兵衛。
 佐渡金山奉行/田中清右衛門正長と母/野本氏の娘との嫡男として佐渡加茂郡沢根にて誕生。
 寛永 5(1628)年、甲斐武田氏の関係から高遠藩主/保科正光に召し抱えられ、養子となった幸松丸 (保科正之公) 付きに任ぜられる。
 寛永8(1631)年、藩主/正光の死去により、藩主に就くべく元服し幸松丸から正之へ改名したのを受け、「正」の1字を賜り正玄と名乗る。
 寛永 9(1632)年、家老に就任。
 寛永13(1636)年、出羽国/山形藩に加増移封の正之公に従う。
 寛永20(1643)年、会津藩に加増移封の正之公に従う。
 寛文 6(1666)年、国家老に就任。
 寛文 7(1667)年、藩の最高責任者である城代に就任。
 家光の遺言を受け幼い将軍/家綱の後見人として幕政に専念する正之公に代わり、会津藩を遠泳し基礎を築く。
 信条は有名で、今でも為政者に仕える者の教訓とされる。
  「君の心を正すこと、士を愛すること、庶民をあわれむこと
 江戸幕府の大老/土井利勝は、名家老として会津藩の田中正玄・尾張藩の成瀬隼人 (正成)・紀伊田辺藩の安藤帯刀 (直次) を挙げ、正玄を3人の中で最も優れていると評している。
 寛文12(1672)年、死去、猪苗代城代を務めた地に埋葬された。
 死を知らされた正之公は、周りを憚らず非常に悲しんだという。
 「若し吾死するも諸人哀惜するのみ 今正玄の死するは四民の不幸是れより大なるはなし 正玄予に事ふること四十六年 一事も私意を挟みたる処置を見ず 又嘗て予大将軍補佐の命を蒙りて久しく江戸に在り 封内の政大小となく挙げて之を正玄に委す 複た顧慮する所なし 山崎闇斎は大儒なれども政を執らしむれば 正玄の如く安堵し難きなり
信彦霊社 田中正玄の墓  正之公が、自分も猪苗代に埋葬するよう遺言した理由でもある。
 墓は、磐椅神社の参道の中程にある。
 土津神社の境内にも御末社「信彦霊社」として祀られている。
 妻の墓は妙国寺に現存
 田村 三省  たむら さんせい、享保19(1734)年〜文化3(1806)年 (73歳)
 町人/酒井伊右衛門の3男として鶴ヶ城下にて誕生。 <考古学者>
 後に藩士/田村清次右衛門の養子に入り武士となる。
 宝暦9(1759)年、養父が死去し禄を減じられるものの、吟味所支配無役として召し抱えられる (26歳)。
 勉学に励み、物書本役、塩方任役などを歴任。
 天明元(1781)年、廃田の耕作で報奨金を下賜されたり、戸の口橋の改修を命じられるなど、土木や勧業の有能な役人と認められていく。
(nisihazure-西)  天明8(1789)年、幕府が派遣する松前巡見使の接待役を命じられ、接待で同行した古河古松軒から物理学・考古学・地質学の知識を得る。
 会津領内の「珍石・奇石」を調査し収集、松平容頌公にも上覧。
 享和3(1803)年、「新編会津風土記」の編纂の1人として参画。
 文化3(1806)年、風土記の完成を見ずして死去。
 墓は大窪山 (現地図に記載あり)。
 著書「会津石譜」「孫謀録」。
 田村 忠長  たむら ただなが、宝暦8(1758)年〜文政7(1824)年
太郎丸  松四郎、四郎左衛門とも。
 <槍術家>
 八右衛門亮央の次男。
 祢津親敏および吉田忠見に師事し、大内流の槍術の奥義を得る。
 文化14(1817)年、大内流の師範に就任。
 技に秀でており、田村流槍術と称されるほどだったという。
 詳細は不詳。
 墓は天寧寺。 「槍擧英信居士」
 太郎丸 掃部  たろうまる かもん、生年不詳〜天正17(1589)年
 太郎丸村 (喜多方市豊川町米室) 拠点とした氏族の当主。
 代々蘆名氏の家臣で、祖は蘆名一族の庶子とされる。
 天正13(1585)年、関柴合戦で伊達政宗公が占領した桧原口の備えとして入田付に派遣されると、そのまま伊達側に寝返った。
 天正17(1589)年、磨上原の戦いでは伊達軍の武将として蘆名軍を苦しめたが、蘆名義広公の武将/富田将監によって討ち取られた。
 2つあったとされる太郎丸館の内、掃部の居館は東館と伝わる。
太郎丸 太郎丸の踏切  太郎丸の名は、地名 (喜多方市豊川町米室太郎丸) に残っているが、宅地化され遺構は何もない。

《 た 》 江  戸  幕  末

 高木 時尾  たかぎ ときお、弘化3(1846)年〜大正9(1920)年 (75歳)
 幼名:貞。
 大目付/高木小十郎と母/克子の長女として鶴ヶ城郭内にて誕生。
 安政5(1858)年、父/小十郎が死去し、祖母/澄江・母/克子・弟/盛之輔とて生活 (妹/民は夭折)。
 慶応4(1868)年、国入りした松平容保の義姉/照姫の祐筆を勤める。
 同年8月23日、 が鶴ヶ城下に迫ると城に入り、負傷者の救護に努めるなど籠城戦を戦い抜く。
 城に入る前、戦死した兄/覚馬 (誤報) と弟/三郎の復讐を誓った山本八重が、戦いに邪魔な髪を切ってもらったのが時尾である。
 高木家は山本家や日向家と隣接していて、八重や日向ユキは時尾の祖母/澄江に裁縫を習うなど仲が良かった。
 戦いが終わってもは戦死者の埋葬を許さなかったが、翌年に腐敗臭に覆われるに及び、ようやく埋葬が黙認されると埋葬に尽力する。
 斗南藩が成立すると移住し、家族と共に小参事/ 倉澤平治右衛門宅に身を寄せ、やがて養女となる。
 明治7(1874)年、同じく身を寄せていた斎藤一と結婚、斎藤一は妻/時尾の母方の姓/藤田を名乗り藤田五郎と改名した。
 婚礼では、松平容保が上仲人、元家老/佐川官兵衛山川浩 (山川大蔵)・倉澤平治右衛門が下仲人を務めている。
 同年、夫が警視庁の警官に就いたため、東京へ移住 ()。
 明治 9(1876)年、長男/勉を出産。
 明治12(1879)年、次男/剛を出産。
 明治19(1886)年、3男/龍雄を出産。
斉藤一の墓  明治40(1907)年、阿弥陀寺に埋葬された殉難者を慰めるべく女性10人たちと桜を植樹し、翌年には安田銀行に口座を開き阿弥陀寺の墓田購入の寄付集めに尽力している。
 大正 4(1915)年、夫/藤田五郎が東京市本郷区真砂町 (東京都文京区本郷4-14) の自宅にて死去。
 大正 9(1920)年、晩年は夫と共に貧しいながらも穏やかな日々を過ごし、生涯を閉じた。
 墓は阿弥陀寺 (夫/斎藤一と同じ墓碑)。
 高木 友之進  たかぎ とものしん、天保12(1841)年〜慶応4(1868)年 (28歳)
 容姿は優しいが心胆は熱血の人で、藩校日新館で武技の研鑽に励んでいたが、鳥羽・伏見の敗報を聞いて江戸へ出て国事に奔走、特に5月頃榎本武揚の軍艦数隻を味方につけようとしたが、榎本が腰を上げないので射殺しようとして失敗した。同僚の浮洲七郎は榎本がこれにより会津藩に敵対するのを恐れ、涙をのんで友之進を毒殺したという。(「幕末維新人名事典/新人物往来社」)
 高木 盛之輔  たかぎ もりのすけ、
 安政元(1854)年9月〜大正8(1919)年2月19日 (66歳)
 幼名:五郎。
 藩士/高木小十郎と母/克子の長男として鶴ヶ城郭内にて誕生。
 安政5(1858)年、父/小十郎が死去し、祖母/澄江・母/克子・姉/時尾の家族の中で育つ (民は夭折)。
 戊辰の役では15歳のため白虎隊には入れず、滝沢本陣戸ノ口原の斥候伝令の任を成し終え城に入り、護衛隊として籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、猪苗代で謹慎中に脱走し、後に東京で幽閉 (謹慎)。
 その後、斗南藩/五戸に移住し、姉/時尾が養女に入った小参事/倉澤平治右衛門宅に同居する
 成長すると司法界の道へ進む。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発するや征討軍別働第二旅団 (山川浩中佐) に従軍し、孤立していた味方の熊本城救援や、人吉城・鹿児島城を攻略するなど、戊辰の役の恨みを晴らすべく大活躍する。
高木盛之輔の墓  「嗚呼足れり 深き恨みも はるゝよの
     月影清し 苅萱の関

 凱旋後は検察官に就き、根室・甲府・山形などの地方裁判所検事正を歴任。
 明治44(1911)年、退官し、福島市で隠居。
 会津中学校 (県立会津高等学校) の創立に尽力した1人。
 著書「櫻山集」「沼澤道子傳」「佐川官兵衛父子傳」「会津籠城中 護衛隊記」など。
 墓は善龍寺
 高島 寿雪  たかしま じゅせつ、文化5(1808)年〜明治27(1894)年
 名:文蔵。 号:寿雪。
 藩の村役の子として大沼郡富岡村にて誕生。
 幼少の頃より書を好み、加賀山蕭山の門に師事し、後に会津の能書家として名声を馳せる。
 画にも優れ、特に大黒天の墨絵を得意とし、米粒に不動明王を描くことでも知られる。
 富岡観音堂の近くに頌徳碑があるとのこと。
 高津 仲三郎  たかつ ちゅうざぶろう、
 文政10(1827)年〜明治10(1877)年 (享年50歳)
 変名:中原成業。
 儒学者の藩士/高津平蔵の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 宝蔵院流槍術と神道精武流を究め、特に槍術は藩内屈指の達人。
 さらに他藩を遊歴して、槍の練磨に努める。
 次男にもかかわらず、扶持を給されている。
 文久2(1862)年、松平容保の京都守護職就任により、別撰組隊士 (京都常詰先備甲士勤) として上洛。
 第二次長州征伐前には、長賊らの動向を探るべく長州へ潜入。
 将軍/慶喜が大阪へ下阪の時、薩摩藩士/揖宿と争いとなり、あっという間に斬殺したことから、その後の戦いで薩摩藩は会津藩との白兵戦を避けるようになったという。
 前将軍/徳川慶喜に従って京から大坂へ退去する際、全兵の引き上げに危機を感じ、家老たちに少なくとも3百人の兵を残すべきと建言するが取り上げられなかった。後に「我が老職にあれば決して負けなかった 馬鹿者の下では戦いに勝てない」と憤慨の書簡を書き残している。
 予期した通り鳥羽伏見の戦いが勃発、善戦するも重傷を負う。
 芝藩邸で療養中、訪れた慶喜に対して屋敷中に響き渡るような大声で敵前逃亡の責を直諫、顔面蒼白の慶喜を同席の小笠原長行が取り成しに苦慮したことは あまりにも有名。
 「鳥羽伏見で一死を顧みずに奮戦苦闘したのは、ひとり会津のみでござった 雲霞のごとき大軍であった旗本らは卑怯未練にも敵に背を見せて踏み止まる者もなく ついに大敗北となり申した これは大軍を見捨てられて江戸へお戻りになられた公のなせることが原因であり そもそも数々の御失策によるものであることは疑う余地がない もはや幕府の末路も見えたも同然!!
 その後、遊撃隊として越後口の各地で参戦し、籠城戦に入ると城外で奮戦し戦い抜く。
 開城後は、居残り組として町野主水たちと遺体埋葬の嘆願を続ける。
 翌年になって埋葬が可能になっても、親類縁者すら遺骸に触ることを許さず、埋葬作業は被差別部落民のみが行なう条件であったため「屍を投げ入れること岩石を扱う如し」であった。
 あまりの惨さに、領内の商人などから3千両を工面し、自ら餞民に身を落とし、戦死者の埋葬に尽力する。
 遺体埋葬地に建立した「殉難之碑」や「拝殿」を撤去させるなど悪政の限りを尽くした極悪人の民生局監察兼断獄/久保村文四郎を、束松峠にて伴百悦たちと共に殺害する。
 投獄されるが脱獄し、中原成業を名乗る。
 明治9(1876)年、永岡久茂中根米七たちと共に思案橋事件に連座し、翌年に市谷で斬首される。
 辞世「ことあらば また魁ん国の為 わか魂を こゝに残して
 墓は源慶寺
 高野 源之助  たかの げんのすけ、弘化4(1847)年〜明治40(1907)年6月15日 (60歳)
 戊辰の役では、山川大蔵の指揮下として日光口に出征。
 開城後は 幽閉 (謹慎) を経て、大阪に移住し実業界に身を投じる。
 明治 6(1873)年、北海道小樽に移住し、旧藩士/大竹作右衛門の大竹回漕店経営に参加、後に取締役に就任。
 小樽商工会議所/2代目会頭などを歴任。
 明治30(1897)年、小樽銀行と改称した取締役に就任。
 明治33(1900)年、北海道拓殖銀行の設立委員に就任。
 明治34(1901)年、商業学校を新設に尽力。
、道議会議員などを歴任。
 明治36(1903)年、第8回衆議院議員総選挙/小樽区 (海派) で当選。
 明治40(1907)年、京都黒谷/会津墓地修理の発起人に名を連ねる。
 墓は、小樽市営中央墓地
 武井 柯亭  たけい かてい、
 文政6(1823)年1月6日〜明治28(1895)年5月23日 (享年73歳)
 名:泰。 通称:万太郎、満之助、完平。 字:通。 号:五峰。
 藩士/武井完平の子。
 嘉永6(1853)年、房州沿岸警備の任に就く。
 安政4(1857)年、江戸勤番に就く。
 文久2(1862)年、会津に戻ったが、松平容保の京都守護職就任に従い上洛し、他藩との外交に尽力する。
 数々の進言したが、との内通を疑われ、帰郷させられる。
武井柯亭墓  戊辰の役では、各地で数々の戦功を上げ、天神橋の戦いでは進撃隊頭としてを撃退した。
 開城後は、新政府 () の旧知から再三 招聘されるも決して受けはしなかった。
 藩校/日新館の書学寮師範/星研堂に書を学び一家を成し、詩や音律 (特に琴) にも秀でていた。
 明治 7(1874)年、息子/庸が伊佐須美神社宮司に就任したため、高田村 (会津美里町) に移住。
 明治28(1895)年、高田村にて死去。
 墓は伊佐須美神社墓地
 武田 宗三郎  たけだ そうさぶろう、嘉永3(1850)年〜明治2(1869)年 (享年20歳)
 藩士/武田藤吾の3男。
 戊辰の役では、朱雀寄合隊として城外の各地で奮戦。
 開城後は、塩川での監禁を経て高田幽閉(謹慎)への護送中に、極楽寺の僧 (蘆名氏の末裔) が裏切り、 鶴ヶ城の弱点である砲撃地/小田山に案内していたことを知り、夜陰に紛れて脱走した。
 すぐさま帰国し裏切りの僧を斬殺、藩士たちの恨みを晴らした後、捕えられて涙橋近くの薬師河原で処刑された。
 小田山は、鶴ヶ城の南東1.6キロメートルに位置し、標高が372メートルと鶴ヶ城が一望できる。 大筒/大砲や鉄砲の戦いに入り、難攻不落の名城といわれた唯一の弱点となり、すでに上杉景勝公の時代に神指城を築き、ほぼ完成したが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため米沢へ減移封となり、神指城は撤去された。
 藩境防備で布陣していた主力部隊が籠城戦の3日目に戻り、小田山に布陣する計画であったが、僧の裏切りで前日に占拠されてしまった。
 晒されていた宗三郎の首は、裏切りの僧を殺害すべく脱走していた別の小池帯刀によって密かに盗み出され埋葬された。
 竹村 俊秀  たけむら としひで、
 弘化2(1845)年〜明治10(1877)年2月7日 (享年33歳)
 通称:幸之進。
 竹村助兵衛の長男として鶴ヶ城下にて誕生。
 藩校/日新館の秀才で、山川大蔵小出鉄之助と親交を結ぶ。
 戊辰の役で籠城戦に入ると、山川大蔵直属の狙撃隊/隊長として本丸に守備し、時折り城外に出て奇襲をかけている。
 狙撃隊は少人数の部隊であったが選抜された精鋭メンバーであり、長命寺の戦いに参加しなかったため精鋭の将士を失うこともなく、攻め入る敵を撃退し続け、籠城戦を支えた。
 開城後は、斗南藩へ移住し、青森県開墾掛頭取などを歴任。
 祖母の墓が斗南の地に現存している。
 間もなく県官と対立し上京、永岡久茂と再会する。
 明治9(1876)年、思案橋事件に連座し投獄され、翌年初めに処刑。
 辞世「白露と 消ゆる命はおしまねど なを思はるゝ 国の行末
 思案橋事件には直接参加しておらず、処刑後に冤罪と判明。
 墓は源慶寺
 田中 土佐  たなか とさ、文政3(1820)年8月1日〜明治元(1868)年8月23日 (49歳)
 幼名:丹後、豊太郎。 名:玄清 (はるきよ)。 号:大海。
 家老/田中玄良の長男として本一ノ丁にて誕生。 田中正玄の子孫。
 文政12(1829)年、父/玄良の死去により9歳で家督を継ぎ、藩主/松平容敬公の側役に就く。
 天保 7(1836)年、16歳で武官の最高位/番頭に就任。
 安政 4(1857)年、文官として若年寄に就任。
 文久 2(1862)年、家老に就任。 幕府より京都守護職の内命が下りると藩主/松平容保に辞退を強く諌言するが、容保が就任を決意するや野村佐兵衛や広澤富次郎たちを率いて上洛し着前の準備に奔走する。
 慶応元(1865)年、病のため職を辞して帰国。
 慶応 2(1866)年、特命により家老に復帰。
田中土佐の墓  慶応 4(1868)年、鳥羽伏見の戦いが勃発すると家老/神保内蔵助梶原平馬たちとの連署で嘆願書を提出し恭順の意を示したが、私怨で錯乱する長賊らは端っから受け取る気など無かった。
 同年8月23日、 鶴ヶ城下に来襲したため、甲賀町口郭門を守り善戦するが銃弾を浴び重傷を負う。 五之丁の医師/土屋一庵邸に入り、家老/神保内蔵助と刺し違えて自刃する。
 「精徹院殿忠亮玄清居士」。
 墓は天寧寺 (墓碑には戦死とある)。
 開城後に、息子/玄光が土屋邸の焼け跡から遺骨を探し出し、天寧寺に埋葬したという。

医師/土屋一庵邸 ≪医師/土屋一庵邸≫
 城下はに破壊されつくされたため、邸宅の痕跡は留めていない。
 場所は、現在の居酒屋/籠太の辺り。
 ▲(旧五ノ丁  会津若松市栄町8-49一帯)
 田辺 軍次  たなべ (たべ) ぐんじ、嘉永3(1850)年〜明治3(1870)年 (享年21歳)
 藩士/田辺熊蔵の長男として佐野村 (湯川村) にて誕生。
 戊辰の役では、白河の戦いを生き延び、後は各地で奮戦。
 開城後は、東京に幽閉 (謹慎) され、後に斗南藩へ移住する。
 会津藩滅亡の主因は、戦いの経験がなく戦略・戦術を持ち合わせていなかった家老/西郷頼母を白河口の総督に据え敗れたことであった。
 副総督/横山主税は武勇・智略にすぐれており、近習で奮戦した経験から、大敗した理由が判らないでいた。
 斗南で艱難辛苦の日々を過ごすうち、の勝利に導いたのは、白坂村の地元住民/大平八郎が間道を案内し奇襲に成功させたから、との噂を耳にする。
 調べてみると、会津藩を惨敗させた功績が鎮台日誌に掲載、感謝状も授受され、白坂宿の取締役にも任命、本人も吹聴していて羽振りの良い生活をしていることが判明、叛応 (裏切り) を確信する。
 明治3(1870)年、斗南を抜け出し1ヶ月をかけて白坂村に至る。
 同年8月11日、白河宿鶴屋にて畜獣/大平八郎を斬殺し、累が及ばぬよう自刃して果てた。 「操刃容儀居士」
 「而シテ白河ノ一敗ハ実ニ大平八郎ノ叛応ニ因ル 八郎ハ幕領白坂村ノ民ナリ 西軍ヲ導キ間道ヨリ出デ我軍ノ不備ニ乗ゼシム 其恩ニ背キ義ヲ忘ル実ニ畜獣ニ等シ
 亡骸は、塩川村観音寺の共同墓地に葬られた。
田辺軍次の墓  葬ったのは、祟りを恐れた八郎の婿養子/直次郎(直之助)であったが、結局いずらくなり白坂村から去っている。
 明治29(1896)年、二十七回忌の際、白河会津会によって激戦地であった稲荷山麓 (白河/松並) 「会津戦死墓」の傍らに改葬された。

高津豊太郎  高橋猪三郎  高橋栄次郎  高橋清左ヱ門  高橋金兵衛  高橋啓四郎  高橋富太郎  高橋伴治  高橋利左衛門  多賀谷勝左衛門・勝次郎・勝之進  多賀谷マキ・シゲ・ヤス・キイ・リセ・政五郎・五七郎  竹崎郷助  武田庫郎  武田真  田代仙太郎  辰野源之進・平太  辰野小十郎  田原重義  田母神金吾

《 た 》 幕 末 よ り 後

 高久 進  たかく すすむ、
 昭和8(1933)年1月11日〜平成21(2009)年7月22日 (満76歳)
 別称:池田和雄、井口真吾など。
 会津坂下町にて誕生。
 県立会津高等学校を卒業し、早稲田大学教育学部に入学。
 早稲田大学を卒業し、大映東京撮影所にシナリオ研究生となる。
 昭和34(1959)年、新東宝「九十九本目の生娘/監督:曲谷守平、主演:菅原文太)」でデビュー。
 1960年代後半から、劇映画からテレビ作品にシフトし、特撮やアニメまで幅広いジャンルのシナリオを手掛ける。
 人気番組「Gメン '75」「西部警察 Part V」や「東映版スパイダーマン」のメインライターとしても有名。
 平成21(2009)年、急性呼吸不全で死去。
 高野 源進  たかの げんしん、
 明治28(1895)年3月15日〜 昭和44(1969)年1月4日 (享年73歳)
 農業/高野源八の長男として北会津村 (会津若松市) にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) ・一高を経て、東京帝国大学法学部法律学科へ入学。
 大正11(1922)年、高等文官試験に合格。
 大正12(1923)年、東京帝国大学を卒業し内務省に入省、警視庁警務部警衛課の警部に就任 (28歳)。
 神田外神田警察署・神田万世橋警察署・本郷駒込警察署の署長、本庁警務課長、滋賀県・茨城県の警察部長、警視庁刑事部長、大阪警察庁警務各部長などを歴任。
 昭和14(1939)年、警視庁警務部長に就任。
 昭和16(1941)年、山梨県知事に就任。
 昭和17(1942)年、太平洋戦争による発令で、南方占領地に陸軍司政長官として派遣され、ビルマ行政府の官房長に就く。
 昭和18(1943)年、帰国し、防空総本部業務局長、大阪府次長を歴任。
 昭和20(1945)年、広島県知事に就任。
 原爆投下の日は同県福山への出張で難を逃れたが、妻は死去した。
高野源進の墓  直ちに戻り、広島市長や地方総監など被爆死していたため唯一の行政トップとして防空本部長を兼任、生き残った職員を陣頭指揮し、被災者の救護・食料の供出などにあたった。
 同年10月、東京に戻され55代/警視総監に就任。
 昭和21(1946)年、公職追放で弁護士に転じ、解かれた後も再び公職に就くことはなかった。
 昭和44(1969)年、急性肺炎により東京都練馬区/自宅で死去。「璋晃院殿源壽進徳善應大居士」
 墓は多磨霊園
 高橋 常四郎  たかはし つねしろう、天保元(1830)年〜明治29(189)年
 名:恒道。 歌人としても名を馳せていた。
 松平容保の京都守護職就任に従い上洛し京都守衛常備隊に就く。
 開城後は、高田/善導寺廣正院へ幽閉(謹慎)。
 明治3(1870)年斗南藩から藩領/山越郡の開墾係を命ぜられ、10余戸30余人 (山越内に7戸1人、残りは長万部村に入植) を引率して、八雲地方初の集団入植による開拓に着手。
 「右者家族共北海道歌棄支配所へ為移住罷越候に付 今日御当所表出起仕候間人馬御印奉願候 高橋常四郎 無役 家族四人
 明治8(1875)年、開拓は成功せず入植者は離散してしまい、神威内 (歌志内) に移住。
 明治13(1880)年、岩内に移り教職に就く。
 明治24(1891)年、岩内私学校を 岩内古宇同修学舎へ改編、
 明治25(1892)年、岩内古宇両郡同修舎 (高橋私学校) を創立し、地元の私学振興に尽力。
 「氏は国学万葉の造詣深く独特の教育方針をもって私学を経営し十年の長きに亘り子弟の教育に尽す所多大なり
 岩内郡副戸長などを歴任。

 昭和39(1906)年、岩内町に「頌徳 高橋常四郎翁碑」が建立。
 老人の 赤き心をあらはして 濃染の梅は 咲きそめにけり
 橋 ヒロシ  たかはし ヒロシ、昭和40(1965)年12月12日〜
 漫画家 (少年漫画)。
 会津坂下町の出身。
 代表作「クローズ」「WORST」など。
 高羽 哲夫  たかは てつお、昭和元(1926)年8月31日〜平成8(1996)年10月31日
 湯川村にて誕生。
 会津中学校 (県立会津高等学校) 卒業後、カメラマンを目指し上京。
 昭和(1948)年、松竹に入社。
 昭和(1964)年、「馬鹿まるだし/主演:ハナ肇」で撮影監督デビュー。
 昭和(1964)年、「馬鹿が戦車でやって来る/主演:松村達雄」。
 昭和(1964)年、「いいかげん馬鹿/主演:ハナ肇」。
 昭和(1965)年、「霧の旗/主演:倍賞千恵子」で第9回三浦賞 (優れた撮影技術を示した劇場用映画の新人撮影監督) を受賞。
 昭和(1966)年、「なつかしい風来坊/主演:ハナ肇」。
 昭和(1966)年、「運が良けりゃ/主演:ハナ肇」。
 昭和(1966)年、「男の顔は履歴書/主演:安藤昇」。
 昭和(1967)年、「愛の賛歌/主演:倍賞千恵子」。
 昭和(1967)年、「九ちゃんのでっかい夢/主演:坂本九」。
 昭和(1967)年、「喜劇 一発勝負/主演:ハナ肇」。
 昭和(1968)年、「吹けば飛ぶよな男だが/主演:なべおさみ」。
 昭和(1968)年、「ハナ肇の一発大冒険/主演:ハナ肇」。
 昭和(1969)年、「男はつらいよ/主演:渥美清」、
        以降、シリーズ全48作の撮影に携わる。
 昭和(1969)年、「喜劇 女は度胸/主演:花沢徳衛」。
 昭和(1969)年、「喜劇 逆転旅行/主演:フランキー堺」。
 昭和(1969)年、「喜劇 婚前旅行/主演:フランキー堺」。
 昭和(1968)年、「喜劇 大安旅行/主演:フランキー堺」。
 昭和(1969)年、「喜劇 一発大必勝/主演:ハナ」。
 昭和(1970)年、「家族/主演:倍賞千恵子」。
 昭和(1972)年、「故郷/主演:倍賞千恵子」。
 昭和(1972)年、「喜劇 社長さん/主演:ハナ肇」。
 昭和(1973)年、「愛ってなんだろ/主演:天地真理」。
 昭和(1975)年、「同胞 はらから/主演:寺尾聰」。
 昭和(1977)年、「幸福の黄色いハンカチ/主演:高倉健」。
 昭和(1980)年、「遙かなる山の呼び声/主演:高倉健」。
 昭和(1986)年、「キネマの天地/主演:渥美清」。
 昭和(1987)年、「ダウンタウン・ヒーローズ/主演:中村橋之助」。
 平成(1991)年、「息子/主演:三國連太郎」。
 平成(1993)年、「学校/主演:西田敏行」。
 記念館は末廣/高羽哲夫記念館湯川たから館
 高峰 秀夫  たかみね ひでお、
 嘉永7(1854)年8月14日〜明治43(1910)年2月22日 (57歳)
 藩士/高嶺忠亮の長男として本四ノ丁 (西栄町) にて誕生。
 戊辰の役では、松平容保の側近小姓として、籠城戦を戦い抜く。
 開城後は、東京で幽閉 (謹慎) される。
 幕臣/沼間守一の私塾で英語を学ぶ。
 明治4(1871)年、斗南藩の命により慶應義塾に入学。 (18歳)
 明治8(1875)年、文部省から師範学校調査のため米国ニューヨーク州/オスウィーゴー州立師範学校 (SUNYOswego) に留学 (22歳)。
 ペニキーズ島/アンダーソン学校、セイラム/夏季動物学校、ニューヨーク州/イサカ大学校などで勉学に励む。
 明治11(1878)年、帰国し、東京師範学校 (筑波大学) 教員に就く。
 明治14(1881)年、東京師範学校 校長に就任。
 明治24(1891)年、東京高等師範学校 (筑波大学) 校長に就任。
 明治30(1897)年、女子高等師範学校 (お茶の水女子大) 校長に就任。
高峰秀夫の墓  明治31(1898)年、東京美術学校 (東京芸術大学) 校長兼任に就任。
 明治37(1904)年、東京音楽学校 (東京芸術大学) 校長兼任に就任。
 明治41(1908)年、東京女子高等師範学(お茶の水女子大学)校長就任。
 留学で学んだ理論的な教育学を実践し近代教育の基礎をつくり、「師範学校の父」と称される。 生物学者でもある。
 墓は染井霊園
 高山 輝義  たかやま てるよし、明治12(1879)年10月4日〜没年不詳
 若松市 (会津若松市) にて誕生。
 会津中学校 (四回生) を卒業後、陸軍士官学校に進む。
 明治33(1900)年、陸軍士官学校 (12期) を卒業。
 明治34(1901)年、歩兵少尉に就く。
 歩兵第六十五連隊/中隊長、同歩兵第六十五連隊/副官、近衛歩兵第二連隊/大隊長などを歴任。
 昭和 3(1928)年、歩兵第七十九連隊/連隊長に就任。
 昭和 6(1931)年、少将に就任。
 昭和17(1942)年、第16代/若松市長に就任。
 昭和20(1945)年、若松市長を辞任。
 武田 惣角  たけだ そうかく、
 安政6(1859)年10月10日〜昭和18(1943)年4月25日 (84歳)
 武号:源正義。  大東流合気柔術の創始者。
 藩士/武田惣吉と母/富 (黒河内兼規の娘) との次男 (4人兄弟) として坂下村御池 (会津坂下町) の武田屋敷にて誕生。
 宮相撲の力士として育つが、父から相撲だけでなく柔術・宝蔵院流槍術を仕込まれ、渋谷東馬から会津小野派一刀流剣術を学び、剣術・柔術ともに優れ「会津の小天狗」と称される。
 一時、武芸百般の黒河内伝五郎の養子に入っている。
 明治6(1876)年、父の許しを得て上京し、父の友人である直心影流剣術の榊原鍵吉に師事。 東京の各剣術道場で他流試合を積み、棒術・槍術・薙刀術・鎖鎌術・弓術など武芸十八般を習得する。
 明治9(1876)年、兄/武田惣勝が夭折したため帰郷して家督を継ぐ。
 明治10(1877)年、西南戦争が勃発すると西郷軍を助けるべく出奔するが叶わず、軽業一座に加わるなどして各地を流浪し武者修行する。
 明治15(1882)年、道路工事の人夫と喧嘩して大勢に怪我を負わせ、1ヶ月近くも警察に拘留の逸話も残っている。
 明治21(1888)年、帰郷し、コンと結婚。
 明治24(1891)年、長男/宗清が誕生し、跡継ぎが出来たとして全国各地を放浪し武者修行する。
 明治36(1903)年、北辰一刀流の剣豪/下江秀太郎との剣術の試合に勝利し、名が知れ渡る。
 明治31(1898)年、霊山神社の宮司をしていた保科頼母から「剣術を捨てて合気柔術を広めよ」との命を受け、大東流合気柔術に没頭する。
 これ以降、道場を持たず、請われれば年齢・出身・身分の差別無く出向き、大東流合気柔術の伝授に勉め、数千人にも及ぶ弟子たちの名前や住所・稽古日、対戦した記録・謝礼金額など2千ページを超える詳細な記録を残している。
 明治37(1904)年、北海道に基盤を持ち、樺太から東北6県・新潟から東京まで勢力下においていた丸茂組を単独で制圧し、大東流合気柔術の実戦性を身をもって証明した。
 大正元(1912)年、北海道で弟子/山田スエと再婚し、これ以降 北海道/網走を本拠地とする。
 武宗、たえ、時宗、榮子、宗光、しずか、宗吉の4男3女を授かる。
 大正4(1915)年、門人/吉田幸太郎の紹介で、植芝盛平が入門。
 昭和4(1929)年、門人の海軍大将/竹下勇が、実話雑誌に「武田惣角武勇伝」を発表し評判となる。
 昭和5(1930)年、東京朝日新聞記者/尾坂与市が取材し、「今ト伝」と称賛する記事を掲載。
 昭和11(1936)年、埼玉県の各警察署で教授・指導。
 同年夏、東京日日新聞社で教授・指導し、大阪朝日新聞社の武道教授に就任。
 昭和18(1943)年、青森県/旅館伊東方で客死。
 墓は、網走/法龍寺とのこと。
 大東流合気柔術の伝承は、今なお日本各地に広まっている。
 会津藩の門外不出の実戦的な秘術/大東流柔術を源流として、弟子/植芝盛平から合気道が生れており、会津が合気道の発祥の地である。
 現在、惣角の玄孫 (惣角の長男/宗清の曾孫)/武田宗光が会津坂下町で大東流合気柔術教室を開いている。  

 元々は、清和源氏の甲斐武田氏の系譜。
 天正3(1575)年、会津での祖/武田国継が武田信玄の遺書を持って、同盟関係の領主/蘆名盛氏公に協力を求める使者として派遣された。
 翌年、長篠の戦いで武田勝頼が大敗、その後、織田・徳川勢により甲斐武田氏が滅亡したため、三浦平八郎盛重と改名し蘆名氏に仕えた。
 伊達政宗公蒲生氏郷公上杉景勝公加藤嘉明公などと変遷する藩主に仕え続け、甲斐武田氏の有力な家臣であった家系の養子として育てられた保科正之公に重用され幕末まで仕える (神職)。
 惣角の祖父/惣右衛門は、西郷頼母に御式内・陰陽道を教授した。
 巨漢であった父/惣吉は、宮相撲の力士 (四股名/白糸、藩士) であり、剣術・槍術・棒術・柔術の達人のみならず学問にも秀でていた。
 戊辰の役では、力士隊として活躍している。
 (補) 惣角の生まれた翌年、もう一人の偉大な武術家である柔道の創始者/嘉納治五郎が誕生している。 嘉納の最強である弟子が姿三四郎こと西郷四郎 (西郷頼母の養子) である。
 竹田 只次郎  たけだ ただじろう、安政4(1857)年〜大正10(1921)
 藩士/善左衛門の次男として鶴ヶ城下にて誕生。
 戊辰の役では、父/善左衛門と兄を失う (12歳)。
 明治3(1870)年、斗南藩へ母と移住し、慣れない開墾に従事するが塗炭の苦しみをなめる生活が続く。
 明治11(1878)年、会津に戻り、苦学の末に師範学校を卒業し教職に就きながら、猛勉強をして測量技師を目指す。
 明治15(1882)年、会津新道開削の技手に就く。
 明治31(1898)年、若松町会議員に当選。
 議員として活動すると、長賊ら政権の悪意から、他の東北の都市と比べて電気普及が大きく遅れていることを危惧して、自ら電気事業の設立を考えるようになる。
 明治32(1899)年、若松市会議員に当選。
 明治33(1900)年、若松市議会/議長に就任。
 同年、発起人として苦難の末に「会津電力」の創立総会を迎える。
 明治35(1902)年、東山発電所 (70KW) が開業、初代社長に就任。
 その後の「会津電力」は、「戸の口堰第一発電所」「同第三発電所」「同第三発電所」の開発などを推進する一方、「喜多方水力電気」「大戸水力電気」「田島水力電気」などの合併も進める。
 昭和初期に建設された会津電力本社の建物 (会津若松市東栄町3-38) は、現在でも「東北電力/会津若松支社」の一部として残っている。
 田沼 文蔵  たぬま ぶんぞう、大正7(1918)年〜平成12(2000)年4月14日
 下郷町にて誕生。
 昭和15(1940)年、在学中に召集をうけ陸軍へ入隊。
 5年ほどの軍隊生活の間に多くの戦友を亡くし、除隊後は社会に役立つ仕事に生涯を奉じる決意をしたという。
 昭和22(1947)年、慶應義塾大学予科食堂を経営 (川崎市登戸)。
 昭和29(1954)年、有限会社グリーンハウス設立 (塾生から公募)。
 昭和34(1959)年、株式会社に改組 (横浜市港北区日吉)。
 昭和35(1960)年、工場給食に進出 (松下通信工業)。
 昭和41(1966)年、レストラン業に進出 (「さぼてん」新宿店)。
 昭和57(1982)年、東京都の公立学校給食センターを受託 (小平市)。
 平成 5(1993)年、代表取締役会長に就任。
 平成 4(1992)年、下郷町の名誉町民。

 平成16(2004)年、
   田沼文蔵記念館が開館
    ▲(下郷町塩生字大石1000
       Tel. 0241-67-3251)
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