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ご   縁   の   あ   る   地

和 歌 山 県 と の“ご 縁”

殉難者については、こちら。

紀州東照宮 (紀伊東照宮)

 元和7(1621)年、家康の10男・紀州藩祖/徳川頼宣が創建、天海大僧正が導師として正遷宮を斎行。
 同時に、別当寺として和歌山天曜寺雲蓋院 (明治に入り廃寺) を開山し、初代別当に就任した。
 斎行の際に江戸から衆僧を60人ほど率いてきたという。
 楼門前の侍坂は、人間の煩悩の数を表す108段 (当時は神仏合祀) の石段がある。
紀州東照宮の石段  後に頼宣を祭神として追加し、現在は東照大権現 (家康) と
南龍大神 (頼宣) の2神を祀る。
紀州東照宮の唐門 紀州東照宮の入口
紀州東照宮の案内図
 ▲(和歌山市和歌浦西2-1-20 Tel. 073-444-0808)

天海の図 (和歌山県立博物館)

紀州東照宮の入口  博物館が所蔵する川中島合戦図屏風に、「南光坊天海」の文字とともに甲冑を着て立っている「信玄謙信一騎打ちを眺める天海」が描かれている。
 天海が近くの山から川中島合戦の様子を見ていたと伝えられており、兵力や状況などが目撃証言として様々な資料に残っているが、真偽のほどは分からない。
 撮影禁止なので、現地を訪れた際のお楽しみ。
 ▲(和歌山市吹上1-4-14 Tel. 073-436-8670)

田辺市に「会津」の名

 まるで会津若松にいるように「会津」の文字で溢れており、親しみが沸沸とわく。
 「会津」を冠する目についたものをピックアップ。

会津川 左会津川 会津川の分岐 右会津川
会津橋 新会津橋

 「会津」を冠する市立小学校、河川 (会津川、左会津川、右会津川)、橋、公園などがある。
 左会津川は果無山脈/槇山を水源とし、右会津川は果無山脈/虎が峯を水源とし、田辺市秋津町で合流し田辺湾に注いでいる二級水系の河川で、合併以前の田辺市内の地域で呼ばれている。
 闘鶏神社の夏祭「田辺祭」では、夕刻に旧会津橋の上に笠鉾が曳き揃えられ、隣の新会津橋へ移動し曳き別れる。
会津/交差点 会津南/交差点 会津/交差点
 地元の古老の話しによると、一時に松平容保の預り地であった時、暴れ川/秋津川の治水工事など善政を布いた恩義に感謝し、明治末期に秋津川を会津川に改称するなど「会津」の名を冠するようになったとのこと。
 没収された一帯は、田辺藩として明治に入ってから立藩。
 ▲(田辺市  秋津町〜下万呂、片町〜高雄、片町など各地)
  [逸話]


 戊辰の役で紀州藩 (和歌山藩) はの恫喝のため表立ってはできなかったが、領内 (由良、海南、紀三井寺など) で会津藩士をかくまっている。
 伊勢部柿本神社 (海南市) では、NHK大河ドラマ「八重の桜 (主人公/山本八重)」の放映に際し、同神社で傷の悪化のため死去した旧会津藩士の刀を初公開したとのこと。

植芝盛平
 明治16(1883)年12月14日〜昭和44(1969)年4月26日 (86歳)
 号:常盛、守高。
 天神真楊流柔術、神陰流剣術、柳生心眼流柔術を学ぶ。
 大正4(1915)年、遠軽の旅館で大東流/武田惣角 (会津藩士の息子) と出会い、31歳という壮健な盛平が、当時54歳で身長150センチにも満たない小柄な惣角に難無く捻じ伏せられ衝撃を受ける。
 心酔した盛平は師事、惣角の巡回指導に随行し、2年後に「秘伝奥儀」の免許を授かり、惣角の門人たちに代理指導するまでに大東流を極める。
 後に、大東流合気柔術から合気道を創始し世に広め、「合気道の開祖」と称される。


植芝盛平翁生誕之地 植芝盛平翁生誕之地

植芝盛平翁生誕之地
 明治16(1883)年、西ノ谷村(田辺市)の富裕な農家/植芝与六と母/ゆきの長男として誕生。 与六が40歳にして待望の男児のため、大変可愛がられて育ったという。
 ▲(田辺市上の山2-12)

駅正面の生誕地記念碑

生誕地記念碑  .

 ▲(JR紀伊田辺駅正面)

植芝盛平の像 (扇が浜公園)
 昭和63(1988)年、第5回国際合気道大会
開催を記念し建立。
 ▲(田辺市扇ヶ浜)

田辺市立武道館の碑

  田辺市立武道館

田辺市立武道館の碑    ▲(田辺市目良44-8)

植芝盛平の墓(高山寺) 植芝盛平の顕彰碑(高山寺)

植芝盛平の墓 (高山寺)

 昭和44(1969)年、肝臓癌のため東京本部道場内自宅で死去 (86歳)。
 「合氣院盛武円融大道士」
 昭和50(1975)年、顕彰式典が開催され「開祖植芝盛平碑」が建立。
 ▲高山寺 (田辺市稲成町392)

和歌山城 (和歌山公園)

 鶴ヶ城と同じ日本100名城 (62番) の1つ。
 徳川御三家/紀州藩紀州徳川家の居城。
 天正13(1585)年、豊臣秀吉の命により弟/秀長が築城。
 元和5(1619)年、徳川家康の10男/頼宣が入封し、幕末まで続く。 名将軍/徳川吉宗を輩出したことで知られる。
 明治4(1871)年、廃城。
 昭和32(1957)年、国の重要文化財に指定。>br>
和歌山城の七福神 ≪七福の庭≫
 天海大僧正が徳川家康に示し広まった七福神に似せた石組みがある。 紀州徳川家の隆盛を祈念して、紀州藩祖/頼宣が本丸御殿の中庭に建立。
 右側が宝船の舳先、次いで恵比壽壽老人辯財天毘沙門天布袋尊大黒天福禄寿、左端が艫 (とも)。
 大正時代に上水場工事のため、現在地に移設された。
 ▲(和歌山市一番丁3 Tel. 073-422-8979)

振姫

 会津藩主/蒲生秀行の正室で、徳川家康の3女。
 秀行の死後、家康の命により熊本藩主/加藤忠広に再嫁、さらに和歌山城主/浅野長晟への再々嫁を命じられる。
 長晟の次男/光晟を出産したが、産後の肥立ちが悪く、16日後に死去。
 「正清院殿泰誉貞安大信女」


吹上寺

 振姫を火葬した寺。
 埋葬は、京都黒谷/金戒光明寺

 ▲(和歌山市男野芝丁17 Tel. 073-423-5720)


振姫の供養墓(光恩寺)

供養墓 (光恩寺)

 紀州に移封し紀州徳川家の家祖となる家康の10男/頼宣が、姉/振姫の菩提供養のため建立。
 ▲(和歌山市大垣内663
    Tel. 073-477-0146)



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