偉     人     伝

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天 海 大 僧 正 の 略 歴

 天海大僧正の生涯は、大きく3つの時代に分けられる。
 ◇ 雲水の学問僧の時代
  名刹/龍興寺で天台宗の教義に触れ、仏門に生涯を奉げることを決意する。
  粉河寺比叡山観学院(園城寺)興福寺足利学校善昌寺蓮馨寺
  さらに甲斐や越後など宗派を超えて仏法を修め続けた。
 ◇ 表舞台で活躍する時代
  家康との知遇・帰依を得て、飛躍が始まる。
  幕閣として江戸幕府の基礎を造り、江戸の都市計画などに参与する。
  戦国時代に荒廃した寺院を再興し、再び戦乱の世に戻さない策に尽力する。
 ◇ 仏法による国家安寧に邁進する時代
  秀忠・家光の帰依を受け、東照宮の建立を手段として、武闘派の時代から
  残りの生涯をかけ、保科正之公とともに文治政治への移行を推進する。
  宗家/蘆名氏の滅亡などを体験し、国家安寧こそが民の幸せとの行動だった。

仏 法 に よ る 国 家 安 寧 に 邁 進 す る 時 代

元和2(1616)年/丙辰    81歳

  4月
 17日  徳川家康が死去、遺言通り直ちに亡骸を久能山に移す。
 19日夜 竣工した仮殿に移し、儀式を執り行う。

  7月
 13日、天海の働きかけで、家康の神号が「権現」に勅定される。
 27日、大僧正となる。

 10月26日
 天海の提言を受け、コ川秀忠が日光東照社の創建を命じる。

元和3(1617)年/丁巳    82歳

  1月22日
 日光東照社/仮殿遷宮や居礎(いしずえ)式の日取りなどを提言。

  2月21日
 天海の朝廷への働きかけにより、徳川家康に東照大権現の神号が与えられる。

  3月〜4月
 3月15日 日光東照社(東照宮)が完成。
 3月15日早朝、天海自らが鋤鍬をとって、久能山に埋葬されている家康の霊柩を移す。
 天海が行列の先頭に立ち、続いて叡山の高僧などが付き従い、本多正純・松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝・永井直勝ら約300騎と、綾錦を身にまとった1,000名もの兵による煌びやかな大行列「金の輿」が、日光への遷座に出立。
    この日は、善徳寺址近くの御殿御茶屋 (富士市)に1泊 (行程/約9里強)。
 3月16日〜17日 三島宿の世古本陣 (三島市) に2泊 (行程/約5里半弱)。
     久能山東照宮 善徳寺址 世古本陣

 3月18〜19日 小田原城/本丸御殿 (御成御殿、小田原市) に2泊 (行程/約10里強)。
 3月20日 御殿御茶屋/中原御殿 (平塚市) に1泊 (行程/約5里半弱)。
 3月21〜22日 御殿御茶屋/府中御殿 (府中市) に2泊 (行程/約12里弱)。
     久能山東照宮 中原御殿 府中御殿

 3月23〜26日 喜多院 (同年に仙波東照宮が建立、川越市) に4泊 (行程/約8里弱)。
        天海による「山王一実神道」にて大法会を執り行う。
 3月27日 忍城 (行田市) に1泊 (行程/約7里)。
 3月28日 館林で休息し、惣宗寺 (佐野市) に1泊 (行程/約6里)。
     喜多院 忍城 惣宗寺

 3月29〜4月3日 薬王寺 (鹿沼市) に4泊 (行程/約10里半弱)。
 4月4日 日光の奥の院/座禅院へ到着 (行程/約7里半弱)。
     現在の日光「千人武者行列」は、この時の様子を模したもの。
 4月8日 東照社 (東照宮) 奥之院の木造多宝塔の地下に埋葬。
     天海の「山王一実神道」で家康神霊遷座の儀を執り行う。
     薬王寺 日光東照宮の入口
 4月17日 小祥忌 (一周忌) の法会を執り行い、東照大権現が日光に鎮座する。

  6月
 上洛し、後陽成上皇の病気見舞いをする。

  9月
 9月に崩御した後陽成上皇の初月忌で、法会の導師を務める。

 10月
 日光山に赴き、東照遇造営の建築位置を定める。

元和4(1618)年/戊午    83歳

  4月
 江戸城に紅葉山東照原廟が完成し。正遷宮の導師を執り行う。

元和5(1619)年/己未    84歳

  4月17日
 徳川秀忠の日光東照社参拝に際し法会を執り行う。

  5月 5日
 宮中に赴き、論議する。
 桓武天皇の廟塔を修造する。

伏見城

  6月
 伏見城に赴き、福島正則の嘆願書を呈する。
 秀忠は、すぐさま聞き入れ、信州/川中島に厳封されたが存続は許された。

  8月
 故/後陽成天皇の大祥忌の法会を執り行う。
 伏見城に赴き、論議する。

伏見城

  9月17日
 尾州/名古屋東照社 (東照権現) の正遷宮の導師を執り行う。

 10月
 日光東照権現の祭祀を執り行う。

元和6(1620)年/庚申    85歳

  2月
 花山院忠長の男/久遠寿院公海を養子とする。

  3月15日
 徳川秀忠が日光山・久能山・喜多院寺領の朱印状を渡し、天海に運営を託す。

  8月
 水戸に赴き、東照遇造営の建築位置を定める。

元和7(1621)年/辛酉    86歳

 水戸東照宮  妙道院 1月
 日光釈迦堂跡に妙道院を開創する。

  4月21日
 水戸東照宮の正遷宮の導師を執り行う。

 11月
 紀州東照宮の正遷宮の導師を執り行い、別当寺/天曜寺を開山し初代別当に就任。

元和8(1622)年/壬戌    87歳

  4月
 日光/奥院宝塔と石垣の造営が完成。
 日光山で、東照権現7回忌の法会を執り行う。

  6月
 養子の久遠寿院公海が剃髪する。

 10月
 後陽成天皇の第六皇子/妙法院尭然法親王の潅頂を執り行う。

 11月
 徳川秀忠から、忍岡 (上野公園一帯の古称) の地を与えられる。

 12月
 名古屋にて病に倒れる。
 秀忠は、すぐさま官医を派遣して診療に当たらせる。
 この時の逸話「箱根の狐火」が残っている。

元和9(1623)年/癸亥    88歳

  4月17日
 大納言/徳川家光の日光東照社参拝に際し法会を執り行う。

  4月24日
 常光寺に天台宗に改宗の書状を与える。

  7月27日
日吉東照宮  徳川秀忠・家光に随行し上洛する。
 秀忠が将軍を辞し、家光が3代将軍に就任する。

 この年
 自ら日吉東照社を創建。

元和10年/寛永元(1624)年/甲子    89歳

 春
 病が癒え、江戸城に立ち寄る。
 秀忠が宴を席を設けて祝う。

 この年
 江戸城の鬼門に当たる忍岡に、寛永寺創建を発願する。
 鶴ヶ城/二の丸〜三の丸の南側 (城南町〜城東町辺り) にも、東照社の創建着手。
 建立を要請したところ、当時の藩主/蒲生忠郷公が徳川家康の外孫 (母が家康の3女/振姫) だったため、直ちに許可された。
 戊辰の役で、別当寺/天台宗延寿寺とともに、すべてが焼失。

寛永2(1625)年/乙丑   90歳

三芳野神社

  2月24日
 川越/三芳野神社の遷宮の導師を執り行う。

  7月13日
 徳川家光の日光東照社参拝に際し法会を執り行う。
寛永寺  11月
 東叡山円頓院を開山し、寛永寺の整備を開始する。
 この年、本坊が完成。
 これ以降、天台宗の中心は江戸に移された。

寛永3(1626)年/乙丑   91歳

 夏
 藤堂高虎と協議し、上野にあった藤堂の敷地内に東照権現の祠の建立を決める。
 徳川家光が開基し、天海が開山。
 東叡山寛永寺円頓院と号し、天台宗の関東総本山とする。
 総本山を移された喜多院は、山号を「星野山」に戻した。

  8月
 上洛し、宮中にて論議する。
 久遠寿院公海を九条家の養子にして、毘沙門堂門跡を譲る。

寛永4(1627)年/丁卯   92歳

  4月
東照宮  東叡山東照大権現の神祠 (後の上野東照宮) が上野の藤堂高虎の敷地内に完成。

  9月
 勅旨によって行われた東叡山東照大権現の法会を執り行う。

 12月
 寛永寺の法華堂、常行堂の2堂が創建される。
 これ以降、子院36院、寺領11,790石を有し、天台宗関東総本山として隆盛を誇る。

寛永5(1628)年/戊辰   93歳

  4月
 日光東照社にて第13回神忌の法会 (徳川秀忠・家光参列) を執り行う。

金地院東照宮

 この年
 南禅寺金地院の東照社の遷宮式を執り行う。


寛永6(1629)年/己巳   94歳

  4月17日
 徳川家光の日光東照社参拝に際し法会を執り行う。

  9月17日
 徳川秀忠の日光東照社参拝に際し法要を執り行う。

寛永8(1631)年/辛未   96歳

  6月
 病床についた徳川秀忠の見舞いをする。

  9月
 日光山にて病に倒れる。

清水観音堂  12月
 秀忠に、神位を望むかなどの遺言を聞く。

 この年
 京都の東山/清水寺に見立てた清水観音堂を建立する。

寛永9(1632)年/壬申    97歳

増上寺安国殿裏の徳川家墓所   1月24日
 徳川秀忠が死去。
 秀忠が死に臨み幻覚があらわれ、紅葉山 (増上寺) に参拝すると言い出したため諫めたと云う。
 増上寺に埋葬される。

  4月17日
 日光山にて東照大権現第17回神忌の法会を執り行う。
 薬師堂法華経万部供養の導師。
 徳川家光は今市に宿営し、井伊直孝が代参。

  7月
 天海などの尽力で、紫衣事件の大徳寺/沢庵宗彭や妙心寺/東源慧等らが特赦される。
 大久保忠隣や福島正則、徳川忠長などの赦免も呈しており、その後に寛永寺が特赦を願い出る慣例となった。

寛永10(1633)年/癸酉    98歳

  1月
 徳川家康の像を造り、喜多院/東照廟の神体とする。

  6月1日
 東照大権現鎮座のため移転した日光/御幸町民に、天海直筆の諸役免除の証文を発行。
 「日光山 東照大権現御勧請以来基立之間号御幸町 依之永代諸役令免許畢 者守此旨 御祭禮其他之御奉公不可有如在者也 寛永十癸酉六月朔日 山門執行探題大僧正天海

  7月17日
 寛永寺に赴いた徳川家光が、帰りの立ち寄り先/先聖殿 (忍岡聖堂) で書経について聞くのに随行する。
 先聖殿とは、林道春 (林羅山) の私塾に付随する孔子廟のこと。 寛永7(1630)年に家光から儒学普及のため上野/忍岡に1千3百坪強と資金を拝領して建設。
 その後、湯島に移築されたが、元禄11(1698)年9月6日の勅額火事で焼失、後に再建されることは無かった。

  8月
 江戸城二の丸に東照社が完成し、遷宮式を執り行う。

寛永11(1634)年/甲戌    99歳

  5月2日
 徳川家光が、日光東照社領として7千石を寄進。

  6月
 上洛する。

日吉東照社

 閏7月
 比叡山の大津側に東坂本東照大権現 (日吉東照社) が竣工、正遷宮を執り行う。

  9月17日
 家光の日光東照社参拝に際し法会を執り行う。
 天海の提言を受けた家光は、東照大権現第21年神忌に向けて、日光東照社の全面改築 (寛永の大造替) を命じる。
 現存する荘厳な社殿が建立される。

 11月17日
 寛永寺の大改修が開始される。

 この年
 徳川家光に説いて、延暦寺/根本中堂などの諸堂の復旧、再興に着手する。

寛永12(1635)年/乙亥   100歳

  5月
 日光東照大権現の仮殿遷宮の件を奉修する。

  6月
 紅葉山東照廟祭祀を執り行う。
 徳川家光から、東照権現縁起の撰述を委託される。
 この縁起は、後に後水尾天皇から宸翰として賜る。

寛永13(1636)年/丙子   101歳

  3月
 日光東照社の大改造が完成、現在の形となる。
 家康の木造多宝塔も、石造宝塔に改造
 天海の功徳により、日光山は20院80坊と隆盛を誇るまでになっていた。

  4月17日
 日光東照社の遷宮と、第21回神忌の法会 (徳川家光列席) を執り行う。
 「東照権現縁起(真名本)」の上巻を完成させる。 描き始めとも。

  5月
 病に倒れる。
 家光は急ぎ老臣を派遣して見舞う。

  6月
 病が癒え、寛永寺に帰る。
 家光は喜び、見舞いに赴く。

  8月
 家光が、寛永寺の本坊に赴く。

 この年
 比叡山大講堂が再建される。

寛永14(1637)年/丁丑   102歳

 3月
 「天海版 大蔵経 (一切経)」の活版印刷する企画を、寛永寺にて明かす。
 仏教経典の全集で、12年後に全6323巻として完成した。

  7月
 乞われて、家光の長女の名を千代姫と命名する。

  8月
 江戸本城が完成し、平穏無事の祈願を執り行う。

  9月
 江戸城二の丸に建立された東照廟正遷宮の導師を執り行う。

寛永15(1638)年/戊寅   103歳

  1月
 川越大火が発生し、山門と経蔵以外の伽藍を全て焼失する。
 徳川家康と同様、家光も天海への崇敬は厚く、すぐさま幕閣に再建を命じた。
 この時に江戸城/紅葉山御殿の一部を移築したため、江戸城の唯一の遺構として「家光誕生の間」「春日局化粧の間」が現存している。

  2月
 徳川家光が、寛永寺本坊に赴く。

 11月
 病床に伏し、寺務を久遠寿院公海に継がせると願い出る。
 家光は病状を調べさせ、天海が山王神道説を発展させた山王一実神道について学び聞く。

寛永16(1639)年/己卯   104歳

  2月
 徳川家光は、老臣を派遣して病の様子を調べさせる。

  3月
 家光が寛永寺本坊に赴き、山王一実神道を受け継ぐ。

  5月
 寛永寺の五重塔や薬師堂が焼失する。
 家光は、すぐさま再建させる。

  閏11月
 家光から天台血脈の相承を求められたが、許可せず。
 世良田長楽寺を晃海に任せる。

寛永17(1640)年/庚辰   105歳

  3月
 徳川家光が、寛永寺本坊に赴く。

  4月
 東照大権現第25回神忌の法会 (家光列席) を執り行う。

  8月
 春日局の東照社参拝に際し法会を執り行う。

 夏
 裁可を求め、法を教授する一身阿闍梨に、久遠寿院公海を任命する。

 秋
 家光は天海の病状を心配し、官医4名を常侍させる。
 「東照宮権現縁起絵巻(仮名本)」全5巻が完成 (文:天海、絵:狩野探幽)。
 「東照権現縁起(真名本)」の中巻・下巻が完成。

寛永18(1641)年/辛巳   106歳

  4月
 徳川家光が、寛永寺本坊に赴く。
 17日、家光の日光東照社参拝に際し法要を執り行う。

  5月
 日光山上に慈慧堂を建て、家光の世子の無事誕生を祈願する。

  8月3日
 後に将軍/家綱となる家光の嫡子が誕生する。
 天海が、竹千代と命名する。

 11月
 病状が悪化する。
 家光へ天台血脈を相承する。

寛永19(1642)年/壬午   107歳

  2月
 紅葉山において、家光の嫡子/竹千代初参の儀を執り行う。

  4月
 徳川家光が、寛永寺本坊に赴く。

  11月
 徳川家光が、寛永寺本坊に赴く。

 この年
 延暦寺の根本中堂が再興 (竣工) された。
 総ケヤキ造りで、梁間6間(約24m)・桁行11間(約38m)・高さ約24メートル。
 歴史的木造建造物では東大寺大仏殿、金剛峯寺不動堂に次ぐ3番目の大きさ。
 

寛永20(1643)年/癸未    108歳

 正月
 紅葉山の斎会を執り行う、

  5月
 天下太平を願う家光の依頼により、日光山の奥院に相輪塔を建立。

  6月2日
 出身の一族である角館城主/蘆名盛俊公が元服の折、家光との拝謁の労をとる。
 拝謁の時、蘆名氏は親族であると明言している。
 「上野南光大僧正江戸ニ登リ呼サレ 〜 蘆名ハ親族ノ因ミナレバ 〜
 しかし、10年後には家督を継いだ幼い蘆名千鶴丸の事故死により、願いも空しく名門/蘆名家は名実ともに滅亡する。

  7月
 江戸城二の丸が完成し、平穏無事の祈願を執り行う。
 28日、病床に伏す。

  9月
 徳川家光が、病を心配して薬を贈る。
 28日、五か条の遺言を述べる。
     一 東照大権現の神威を増すこと。
     二 天台宗を繁栄させること。
     三 天海の後継者に、親王を迎えること。
     四 京都山科の毘沙門堂門跡を再興すること。
     五 天皇の命に違反する罪で配流された人を赦免すること。
 29日、家光が病床にて遺言を受ける。

 10月
本覚院   1日、弟子たちに遺言を守るよう遺命する。
    家光が探幽に寿像(存命中に描く肖像画)を命じる。
  2日、天寿を全うし、寛永寺の子院/本覚院にて入滅。
  3日、遺書遺宝が家光に渡される。
    家光は、激しく嗚咽し続けたと云う。
  7日、全身を沐浴され、納棺される。
 10日、所縁の喜多院などを経由して、日光山に到着する。
 17日、遺言により、家康の眠る日光山 (大黒山) に埋葬。
    天海蔵には、天海の蔵書1万冊が収められたと云う。

慈眼堂 (輪王寺天海墓)
 墓の五輪塔は、国の重要文化財。
 大猷院を見下ろす高台にあり、六部天「梵天、帝釈天、広目天、増長天、持長天、多聞天」に囲まれている。
 ▲(栃木県日光市山内2300 Tel. 0288-54-0531)
  現在、
  参拝は
  できない。

慈眼堂 (開山堂)
 天海が尊崇していた慈惠大師 (良源) も祀ったため、「両大師」とも呼ばれ、大いに信仰された。
 ▲(台東区上野公園14-5 Tel. 03-3821-4433)
天海僧正毛髪塔(上野公園)

天海僧正毛髪塔
 遺言により日光山に葬られたが、旧/本覚院跡に供養塔が建てられ、後に毛髪が納められた塔も建立された。
 ▲(東京都台東区上野公園1  彰義隊の墓の背面)
天海僧正毛髪塔(上野公園)
慈眼堂
 正保3(1646)年、建立。
 「木造慈眼大師坐像」は、国の重要文化財。
 天海が鵜川から移した阿弥陀如来石仏もある。
 ▲(滋賀県大津市坂本4-6-33 Tel. 077-578-0130)
慈眼堂
慈眼堂 (喜多院)
 国の重要文化財。
 将軍/家光が建立。
 死去2ヶ月前の天海を写した木像が安置されている。
 ▲(埼玉県川越市小仙波町1-20-1 Tel. 049-222-0859)

正保元(1644)年/甲申

10月
 2日、東叡山・日光山・星野山の3山で、天海の小祥忌が執り行われる。
 この月、徳川家光が、東叡山日光山比叡山星野山に天海の影堂/慈眼堂の建立を命じる。

開山堂

この年
 寛永寺に、慈眼大師 (天海大僧正) を奉祀した慈眼堂(開山堂)が創建される。

正保2(1645)年/乙酉

  5月21日
 比叡山延暦寺と東叡山寛永寺に天海の影堂が建立される。

 10月 2日
 天海の大祥忌が執り行われる。
 家光は、東叡山寛永寺の影堂に詣でる。

 11月 3日
 生前の天海による朝廷への働きにより、家康の墓所が「東照宮」となる。
 日光東照宮は伊勢神宮と同格になり、幕末に徳川政権が瓦解するまでの200余年、東照大権現の神前に奉る例幣使は毎年欠かさず行われた。

慶安元(1648)年

  4月
 11日、天皇から、慈眼大師の号が追贈される。
    天台宗では最澄・円仁・良源らの5人目。
    7百年ぶりのことで、それ以降も大師は出ていない。
    伝教・弘法・慈覚・智証の後に720余年にして追薦された5番目の聖人。
 18日、未完の「寛永寺版(天海版)大蔵経」が、幕府の援助により完成。
    日本で初めての木活字による経典。
    日光東照宮にも献納される。

慶安3(1650)年

 東源が「慈眼大師伝記」を撰する。

慶安4(1651)年

 徳川家光が死去したため、家綱は4代将軍に就任した。
 家綱は11歳、叔父/保科正之公の後見を受けてのことであった。
 3代にわたって天海に帰依した家康・秀忠・家光は、すでに黄泉の国に旅立っていたが、家綱も天海の喜多院に250石を加増して750石としている。

貞応3(1654)年

  11月
 守澄法親王が寛永寺の第3代貫首に就任。
 天海の次には養子だった公海が継いだものの、その次は遺命通り皇子 (後水尾天皇の第3皇子) を迎えた。
 その後は幕末まで寛永寺の貫首は、皇子または天皇の猶子が務めている。
 公海は、遺命の1つ「京都山科の毘沙門堂門跡の再興」も成し遂げている。

延宝8(1680)年

 胤海が「東叡山開山慈眼大師縁起」を著す。 延宝7(1679)年とも。

天保10(1839)年

  10月
 寛永寺から3年後の慈眼大師二百回忌までに年譜を作成するので詳細を報告せよ、との命が龍興寺の住職/甚雄のもとへ下った。
 甚雄と高田組の郷頭/田中太郎左衛門重好とが精査し、まとめ上げ「慈眼大師誕辰考」として提出した。
 田中家には、草稿の原本が残っているとのこと。

大正4(1915)年

 歴史学者/黒板勝美と初代東大史料編纂所所長/辻善之助/両博士 (後に東京帝国大学教授) が龍興寺の墓域から「景光」の刻印のある五輪塔2基を発見し、調査により天海大僧正の両親である船木兵部少輔景光と妻の墓であることが確認された。
 長賊らが意図的に抹殺した会津の歴史の1つが、再び日の目を見ることとなる。
 歴代住職が秘匿し必死に守り続けた「一字蓮台法華経開結共」は、奇蹟的に現存し、今では明らかにされて国宝に指定されている。
 同年、須藤光輝が「大僧正天海」を著す。

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