会 津 若 松 市 の 見 ど こ ろ

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鶴   ヶ   城   内

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説明文/図の写真は現地の説明板。 クリックで拡大。

 鶴ヶ城観光案内所については、こちら。

鶴ヶ城  (若松城)  [桜]  [雪]    

 至徳元(1384)年、蘆名直盛公が東黒川館として築城。
 その後、・伊達正宗公  天正17(1589)年〜
       ・蒲生氏郷公  天正18(1590)年〜
       ・上杉景勝公  慶長3(1598)年〜
       ・蒲生秀行公  慶長6(1601)年〜
       ・加藤嘉明公  寛永4(1627)年〜
       ・保科正之公  寛永20(1643)年〜
へと受け継がれ、完成される。
 蒲生氏郷公が七層の天守閣を建て、鶴ケ城と命名した。
 加藤明成公が五層の天守閣に改築し、大手門としての北出丸西出丸を築き、現在の形になった。
 土地の名である若松から"若松城"とも呼ばれ、会津城、黒川城、小高木城ともいう。
 現在の天守閣は、「天守閣郷土博物館」 になっている。
鶴ヶ城の説明文    ・8時30分〜17時 (入場は、16時30分まで)
   ・休館 7月の第1月曜から4日間、12月の第1火曜から3日間
   ・見学時間 30分

 慶応4(1868)年の戊辰の役では、西軍の必死の攻撃にも耐え、落城はしなかった。
 実戦に耐えた全国でも唯一の城である。
 明治7(1874)に、天守閣を含むすべての建造物は取り壊された。
 明治23(1890)年、鶴ヶ城そのものの消滅を謀り、本丸など残っていた城郭のすべての土地を46分割して競売にかけた。
 これを救ったのが、旧会津藩士の遠藤啓士である
 その後、昭和40年に最初の天守閣が復元されるのに、約90年を要することになる。

 昭和9(1934)年、「若松城跡」として国の史跡に指定
 よって今でも「鶴ヶ城」と「若松城」の2つの名称で呼ばれている。

 太平洋戦争後から、復旧が始まり、
   ・昭和35(1960)年までに、本丸の形状復元、
   ・昭和40(1965)年に、天守閣の外観復興、
   ・平成2(1990)年に、茶室「麟閣」が元の場所に移築復元、
   ・平成13(2001)年に、赤瓦葺きの干飯櫓南走長屋が復元
   ・平成23(2011)年に、天守閣/屋根瓦を会津藩の時の「赤瓦葺」に葺き替え。
されるなど、今でも復元作業は続けられている。

 現在は公園となっており、そのほとんどが国指定史跡。
 日本100名城の1つで、12番に選定されている。
 土井晩翠の「荒城の月」の発祥地の1つ。

 ▲(会津若松市追手町1-1 Tel. 0242-27-4005)   
   ・見学時間 60分〜90分
   ・有料駐車場 西出丸 200台、南口 35台、三の丸 38台
 ※ 北口近くの鶴ヶ城会館 200台 (食事や買い物で無料) ← お勧め

【お勧めルート】
鶴ヶ城の説明文 (現地板より) 鶴ヶ城の説明文 (現地板より)  鶴ヶ城会館に駐車 → 北出丸 →(太鼓門)→ 帯郭 →(鉄門)
 本丸 →(埋門→帯郭→梅坂)→ 西出丸 →(北出丸→太鼓門→帯郭)
 二の丸、三の丸 → (駐車場)

北出丸 (きたでまる)

北出丸の説明文

 椿坂から本丸につながり、3本の入り口(太鼓門、搦手門、廊下橋門)の一つで、桝形の石垣で守られている。
 内側は、城兵が自由に移動できるように石段になっている。
 加藤明成公の時代に、北馬出を出丸に構築された。
 島のようになっており、侵入した敵は、三方からせん滅され、「皆殺し丸」と呼ばれていた。

枡形 (ますがた)、追手門

 寛永16(1639)年、加藤明成公が、北馬出を出丸に造りかえた時に整備された石垣。
 堅固な石垣で、三方から敵を攻撃できる。
 突き当たりの右手に、追手門 (大手門) があった。

遠藤啓士の碑

遠藤啓士の碑文


 明治4(1871)年から開始した廃藩置県は、統廃合を繰り返し、明治22(1889)年に終了した。
 流刑地である斗南藩から若松への帰郷者増大を恐れた明治政府は、明治23(1890)年、鶴ケ城そのものの消滅を謀り、城郭のすべてを46分割して競売にかけた。
 これを聞きつけた仙台の七十七銀行頭取で、旧会津藩士の遠藤啓士は、
 「会津はわがふるさとである。城跡は特に戊辰の逆境にあったとき、弾煙、硝雨の間に幾千の魂魄を留めた古戦場である。これを保存して千古に伝うべし
と私財をなげうって落札し、元/城主の松平家に献納した。

太鼓門跡 (たいこもんあと)

太鼓門の説明文

 北出丸から本丸帯郭に通じる追手門(大手門)である。 至る坂道が「椿坂」。
 多聞形式の渡り櫓門が、両側石垣の上に建ち並び、直径約1.8メートルの大太鼓が置かれていた。
 登城などの合図に、打ち鳴らされたという。

武徳殿

 北出丸にある公共施設の武道場。
 剣道、弓道、空手などに使用されている。
 建てられたのは新しく、昭和9(1934)年。

 会津藩の殿中武術。
  ◇ 剣術  一刀流溝口派、真天流、太子流、神道精武流、安光流
  ◇ 居合  林崎新夢想流、一宮流、無楽流
  ◇ 槍術  宝蔵院流高田派、大内流、一旨流
  ◇ 弓術  日置流道雪派、日置豊秀流、日置流
  ◇ 柔術  神道精武流、神妙流、稲上心妙流、水野新富流、夢想流
        現在の大東流合気柔術 (武田惣角) へと続く
  ◇ 馬術  大坪流
  ◇ 水練  向井流

帯 郭 (おびぐるわ)

 本丸の北と西にあり、本丸を「く」の字に細長く取り囲む空間。
 外部とは北出丸西出丸二の丸の3方の出入り口でつなぐ。
 本丸へは、鉄門と埋門 (本丸奥御殿の勝手口) とで結ばれている。
 埋門とは、本丸の北東にあった桝形の城門。
 低い門構えから「埋門」と呼ばれていた。
 建築当時から蒲生公の時代までは表門であった。

武者走り (むしゃばしり)

武者走りの説明文

 本丸の北面にあり、太鼓門の櫓と帯郭をつなぐ石段。
 緊急時に使用するため、左右に分かれた一対になっていて、石段の積み方や構造が異なっている。

鐘撞堂 (かねつきどう)

 時刻を、城下に知らせていた堂。
 弓門跡の石垣上にある。
 西出丸から本丸へと通じる梅坂を上りきったところに建っている。
 戊辰の役の時には、場外から丸見えの位置にあったため、西軍の狙撃で犠牲者を出しながらも、開城まで正確な時刻を撞き続けられ、味方の志気を鼓舞し続けた。

稲荷神社

稲荷神社の説明文

 至徳元(1384)年、葦名直盛公が東黒川館 (鶴ヶ城) の鎮護として、鎌倉より移した神社。 御神体 (狐を乗せた神) は、鶴ヶ城稲荷神社 (馬場町) にある。
 明治に入り鶴ヶ城が取り壊されたため、蒲生氏郷公が創建した甲賀町稲荷神社に御神体を合祀安置し、鶴ヶ城稲荷神社と改称した。
 その後、遠藤啓士が鶴ヶ城跡地を買い取り消滅が免れたため、再び建立された。
 御利益は、五穀豊穣・商売繁盛・事業繁栄。
 元旦詣り、毎朝詣り、受験合格祈願、9月9日の例祭など訪れる人は多い。
 特に、同じ北向きの愛宕神社の稲荷と宝積寺の稲荷の3ヶ所にお参りすると合格の願いが叶うと信じられており、受験シーズンには大勢の参拝客で賑わう。

 鉄門の近くにも、別の 笠間稲荷神社がある。

上杉謙信公仮廟所跡

 上杉景勝公が豊臣秀吉から会津藩に加増移封されたため、春日山城に葬られていた上杉謙信の墓も移された。
 移された場所が、この地と伝えられている。
 関ヶ原の戦いで西軍に就いたため、上杉景勝公は米沢藩に減封される。
 墓も、再び米沢城に移された。

鉄 門 (くろがねもん)

 帯郭から本丸内に入る表門で、北向きに造られている多聞櫓の城門。
 すべての扉や柱が、鉄で包まれていることから 鉄門と名付けられた。
 天守閣から、表門、干飯櫓までを走長屋でつなぐ構造は、全国の城でも珍しい。

観光案内所

 建物内に、無料休憩所も設置されている。
 人気の土産は、「歴代藩主手ぬぐい」、「白虎隊扇子」と「誠扇子」。


人力車 ボランティアによる無料ガイド
 ボランティアによる無料ガイドもある。

 ガイドしながら巡る人力車(有料)も人気。

武者姿 女武者  運が良ければ、武者や武者姿の姫君に出会える。 通常は、天守閣内での案内をしている。
 連休や土・日・祝日など観光客の多い日に、外に出向いているとのこと。

 帯郭では、季節に応じた様々なイベントや「語りべ」、特産品販売などが行われている。

語りべ

 古来より、会津には数多くの伝説、昔ばなしがある。
 地域に解け込んだ昔ばなしであり、今なお語り継がれている。
 会津の言葉であるから分かりづらい点もあるが、心に残る“温もり”を持ち帰ることができる。
 時おり城内でも開催されており、立ち寄りたい。

本 丸   

 本丸には、3区画に整備された本丸御殿が建ち並んでいた。
  ◇ 表  役人の執務する場所で、行事や藩主の謁見等に使用
  ◇ 中奥 藩主が執務する場所で、日常生活に使用
  ◇ 奥向 藩主の家族や女性が生活する場所で、いわゆる大奥


走長屋、南走長屋 (みなみはしりながや)

 武器庫として使われていた長屋式の建物。
 走長屋は天守閣と鉄門をつなぎ、南走長屋は鉄門から干飯櫓をつなぐ。
 帯郭から本丸への侵入を防ぐための塀の役目も果たし、城兵が走って、行き来できるよう造られている。
 壁には、敵を迎撃するための、いくつもの銃眼があけられている。  構造は、大阪城の続櫓と同様とのこと。
 発掘調査でも、小部屋の跡から、矢の先に付ける"やじり"が見つかっている。
 平成13(2001)年に、干飯櫓とともに、約4年の歳月をかけて復元された。

干飯櫓 (ほしいやぐら)

 保存食である干飯(糒)などの食糧の貯蔵庫として使われていた建物。
 復元された二重櫓は、城内にあった11櫓の中でも最も大きかった櫓。 "糒櫓"とも呼ぶ。
 帯郭から侵入しようとする敵から、本丸を守る重要な位置にある。 堅牢な構造をしていて、西軍の執拗な砲撃にも倒壊していない。 南側のお濠に面しており、敵の侵入を防ぐため、石落しが備えられている。
 城内は、お壕などで区分けされた"郭(くるわ)"と呼ばれる一角には、敵を迎撃するための"櫓門(やぐらもん)"が設置されている。
 両端を石垣に囲まれた道路も、かぎ形に折り曲がった"枡形(ますがた)"をしている。

 復元には、1枚の図面もなく、風景とした写真や鳥瞰図が残っているだけだった。
 平成8(1996)年から発掘調査を行い、平成10年に着工、平成13(2001)年に、南走長屋とともにが復元された。
 取り壊されてから、約130年を要した。
 この時には、諸外国にも問い合わせて、貴重な写真も入手している。

 干飯とは、ご飯を水で洗って粘りを取り、天日に干して乾燥させた保存食の一つ。
 そのまま食べたり、水やお湯で戻して食べられるので、戦闘食としても重要なもの。

馬洗石 (うまあらいいし)

 本丸の南側に、藩主の馬術の稽古場があった。
 馬の口洗いのために用いられた石と、伝えられている。
 鉄門から入ったすぐの所にある。

月見櫓跡 (つきみやぐらあと)

 武器類を収めた二重の塗込櫓があっ24
 本丸の南端に位置し、横矢掛りとしても重要な櫓。
 月影を見るのに絶好な場所であったため、名が付いたといわれる。

茶壺櫓跡

 本丸の東側石垣上には、茶器類や武器を収めた二重の茶壺櫓があった。
 廊下橋からの、敵の侵入を防ぐ横矢掛りとしても重要な櫓。

忍者返し(扇の勾配)

 本丸側の高石垣は、"忍者返し"と呼ばれていた。
 扇の形の勾配で、約20メートルの高さがある。
 最も美しい石垣とされる。

「荒城の月」の石碑

「荒城の月」の歌碑

 明治31(1898)年、土井晩翠は会津の鶴ヶ城を思い描き、七五調の詩を作った。
 旧制高校在学中に修学旅行で会津を訪れ、義を貫き通した会津藩や白虎隊に深い感銘を受けたことをイメージしたという。
 昭和21(1946)年、晩翠は「荒城の月」のモデルが鶴ヶ城であることを明かした。
 滝廉太郎は、詩を読んで感動したという。
 すぐさま、幼少のころ住んでいた大分県の岡城を思いつつ曲を付けた。
 歌碑は、宮城県/青葉城址、大分県/岡城址、富山県/富山城にもある。
 平成17(2005)年、三の丸に土井晩翠の胸像が建立された。

麟 閣 (りんかく)     ネットで見学

麟閣の説明文

 千利休の子の少庵が建てた草庵風の茶室である。 上の赤松の床柱は、千少庵の手で削られたと伝えられている。
 西軍が鶴ヶ城もろとも破壊・消滅しようとした際、薬種商/森川善兵衛がなくなるのを惜しみ、甲賀町の自宅に移築した。
 それ以来120年もの間、森川家によって守られてきたが、平成2(1990)年の市制90周年を記念して、本丸の元の場所に再移築され復元された。
 蒲生氏郷公は、利休七哲の筆頭といわれる茶人でもあった。
 千利休が秀吉にから切腹を命じられた時、その子にも類がおよび、利休の茶道が絶えるのを懸念して、会津にかくまった。
 後に、少庵は京都に戻り、千家を再興した。
 少庵の3人の孫の宗左、宗室、宗守によって、表、裏、武者小路の3千家へとつながる。

御三階櫓跡 (おさんがいあと)     

 数寄屋風の二重櫓の建物は、取り壊される前に七日町の阿弥陀寺に移築されおり、現存している。
 秘密の協議をする時に、使用された場所といわれている。
 現在、整備のため取り外されている。

萱野国老殉節碑

 家老/萱野権兵衛(かやの ごんべえ、ごんのひょうえ)。
 開城後、藩主/松平容保を命がけでかばい、戊辰の役の責任を一身に背負った。
 明治2(1869)年5月18日、東京の飯野藩保科家下屋敷にて切腹して果てた。
 享年40歳 (42歳とも)。

 一刀流溝口派の相伝者であった萱野は、絶えないようにしようと、切腹前に井深宅右衛門に火箸を使って奥義を伝授したという。
 墓は天寧寺と東京白金の興禅寺にあり、阿弥陀寺に遥拝碑、余市町に殉節碑がある。
 次男が、悲劇の郡長正 (萱野乙彦) である。

梅坂

 西出丸から、本丸弓門に通ずる坂道。
 正式名称は“知期理坂(ちぎりざか)”だが、梅の木が植えてあったことから呼ばれるようになった。
 馬で駈け上れないように石段であった。
 両側は、攻撃用の白壁土塀で囲まれていた。

西出丸 (にしでまる)

麟閣の説明文

 梅坂から本丸につながり、3本の入り口 (搦手門、太鼓門、廊下橋門) の1つ。
 桝形の石垣で守られている。
 加藤明成公の時代に、馬出が出丸に大改築された。
 この場所で、貨幣が鋳造されていた。
 土塁で囲まれた塩硝蔵も、ここに建てられていた。

 西出丸口の国道118号側に會津藩校/日新館があったが、今は碑があるだけ。
 日新館については、こちら。

廊下橋 (ろうかばし)

 二の丸から本丸へ通じる橋で、朱に塗られており、美しい。
 二の丸と伏兵郭で守り、戦いの際には、橋を落とせるようになっている。
 本丸につながる3本の入り口(廊下橋門、太鼓門、搦手門)の一つで、桝形の石垣で守られている。
 蒲生時代までは、ここが大手門であった。
 城兵の移動が外から見えないように、屋根が付いていたことから、この名が付いた。
 数多くある撮影スポットの1つであり、桜の咲く時期には、さらに素晴らしい。
 [閑話]

二の丸、三の丸

 二の丸は、伏兵郭も含め、テニスコートとなっている。
 三の丸には、二の丸との間の堀側に、公道が通っている。
 三の丸自体は、県立博物館や陸上競技場などの敷地に利用されている。
 近年、次々と記念碑なども建立されている。


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