至徳元(1384)年、
◇ 蘆名直盛公が東黒川館として築城。
[史料]
◇ 伊達正宗公 天正17(1589)年〜
◇ 蒲生氏郷公 天正18(1590)年〜
[史料]
◇ 上杉景勝公 慶長3(1598)年〜
◇ 蒲生秀行公 慶長6(1601)年〜
◇ 加藤嘉明公 寛永4(1627)年〜
[史料]
◇ 保科正之公 寛永20(1643)年〜
[史料]
へと受け継がれ、完成される。
蒲生氏郷公が七層の天守閣を建て、鶴ケ城と命名した。
加藤明成公が五層の天守閣に改築し、大手門としての北出丸、西出丸を築き、現在の形になった。
土地の名である若松から“若松城”とも呼ばれ、会津城、黒川城、東黒川館、小高木館、小高木城、小田垣城ともいう。
現在の天守閣は、「天守閣郷土博物館 (有料)」 になっている。
・8時30分〜17時 (入場は、16時30分まで)
・年中無休
・見学時間 30分
【お勧めルート】
鶴ヶ城会館に駐車 → 北出丸 →(太鼓門)→ 帯郭 →(鉄門)→
本丸 →(埋門→帯郭→梅坂)→ 西出丸 →(北出丸→太鼓門→帯郭)→
二の丸、三の丸 → (駐車場)
ハート石については、こちら。 |
椿坂から本丸につながり、3本の入り口(太鼓門、搦手門、廊下橋門)の一つで、桝形の石垣で守られている。
内側は、城兵が自由に移動できるように石段になっている。
加藤明成公の時代に、北馬出を出丸に構築された。
島のようになっており、侵入した敵は、三方からせん滅され、「皆殺し丸」と呼ばれていた。
寛永16(1639)年、加藤明成公が、北馬出を出丸に造りかえた時に整備された石垣。
堅固な石垣で、三方から敵を攻撃できる。
突き当たりの右手に、追手門 (大手門) があった。
明治4(1871)年から開始した廃藩置県は、統廃合を繰り返し、明治22(1889)年に終了した。
流刑地である斗南藩から若松への帰郷者増大を恐れた明治政府は、明治23(1890)年、鶴ケ城そのものの消滅を謀り、城郭のすべてを46分割して競売にかけた。
これを聞きつけた仙台の七十七銀行頭取で、旧会津藩士の遠藤啓士は、
「会津はわがふるさとである。城跡は特に戊辰の逆境にあったとき、弾煙、硝雨の間に幾千の魂魄を留めた古戦場である。これを保存して千古に伝うべし」
と私財をなげうって落札し、元/城主の松平家に献納した。
昭和46(1971)年、頌徳碑が建立。
北出丸から本丸の帯郭に通じる追手門(大手門)である。 至る坂道が「椿坂」。
多聞形式の渡り櫓門が、両側石垣の上に建ち並び、直径約1.8メートルの大太鼓が置かれていた。
登城などの合図に、打ち鳴らされたという。
椿坂を上った右手の枡形石垣に巨大な遊女石(魔除け石)がある。
北出丸にある公共施設の武道場。
剣道、弓道、空手などに使用されている。
建てられたのは新しく、昭和9(1934)年。
会津藩の殿中武術。
◇ 剣術 一刀流溝口派、真天流、太子流、神道精武流、安光流 ◇ 居合 林崎新夢想流、一宮流、無楽流 ◇ 槍術 宝蔵院流高田派、大内流、一旨流 ◇ 弓術 日置流道雪派、日置豊秀流、日置流 ◇ 柔術 神道精武流、神妙流、稲上心妙流、水野新富流、夢想流 現在の大東流合気柔術 (武田惣角) へと続く ◇ 馬術 大坪流 ◇ 水練 向井流 |
本丸の北と西にあり、本丸を「く」の字に細長く取り囲む空間。
外部と北出丸、西出丸、二の丸の3方の出入り口でつなぐ。
本丸へは、鉄門と埋門 (本丸奥御殿の勝手口) とで結ばれている。
埋門とは、本丸の北東にあった桝形の城門。
低い門構えから「埋門」と呼ばれていた。
建築当時から蒲生公の時代までは表門であった。
本丸の北面にあり、太鼓門の櫓と帯郭をつなぐ石段。
緊急時に使用するため、左右に分かれた一対になっていて、石段の積み方や構造が異なっている。
戊辰の役の時には、場外から丸見えの位置にあったため、西軍の狙撃で犠牲者を出しながらも、開城まで正確な時刻を撞き続けられ、城内外の味方の志気を鼓舞し続けた。
余りに正確さに、包囲した西軍も懐中時計を合わせる始末だった (種子島清之助による)。 |
至徳元(1384)年、蘆名直盛公が東黒川館 (鶴ヶ城) の鎮護として、鎌倉より移した神社。 御神体 (狐を乗せた神) は、鶴ヶ城稲荷神社 (馬場町) にある。
明治に入り鶴ヶ城が取り壊されたため、蒲生氏郷公が創建した甲賀町稲荷神社に御神体を合祀安置し、鶴ヶ城稲荷神社と改称した。
その後、遠藤啓士が鶴ヶ城跡地を買い取り消滅が免れたため、再び建立された。
御利益は、五穀豊穣・商売繁盛・事業繁栄。
元旦詣り、毎朝詣り、受験合格祈願、9月9日の例祭など訪れる人は多い。
特に、同じ北向きの愛宕神社の稲荷と宝積寺の稲荷の3ヶ所にお参りすると合格の願いが叶うと信じられており、受験シーズンには大勢の参拝客で賑わう。
鉄門の近くにも、別の
笠間稲荷神社がある。
上杉景勝公が豊臣秀吉から会津藩に加増移封されたため、春日山城に葬られていた上杉謙信の墓も移された。
移された場所が、この地と伝えられている。
関ヶ原の戦いで石田三成側に就いたため、上杉景勝公は米沢藩に減封される。
墓も、再び米沢城に移された。
帯郭から本丸内に入る表門で、北向きに造られている多聞櫓の城門。
すべての扉や柱が、鉄で包まれていることから 鉄門と名付けられた。
天守閣から、表門、干飯櫓までを走長屋でつなぐ構造は、全国の城でも珍しい。
建物内に、無料休憩所も設置されている。
人気の土産は、「歴代藩主手ぬぐい」、「白虎隊扇子」や「誠扇子」など。
ボランティアによる無料ガイドもある。
ガイドしながら巡る人力車(有料)も人気。
<現在、運行休止中>
運が良ければ、武者や武者姿の姫君に出会える。
通常は、天守閣内での案内だが、連休や土・日・祝日など観光客の多い日に、外に出向いているとのこと。
八重キャラのほかに、平成22(2010)年に笹川ひろしが鶴ヶ城を題材に考案した観光キャラ「お城ボくん」もデビューし、案内などをしている。
帯郭では、季節に応じた様々なイベントや「語りべ」、特産品販売などが行われている。
古来より、会津には数多くの伝説・昔ばなしがある。
各々の地域に解け込んだ昔ばなしであり、今なお語り継がれている。
会津の言葉 (会津弁) であるから分かりづらい点もあるが、心に残る “温もり” を持ち帰ることができる。
時折、城内でも開催されており、運よく開催していたら、ぜひ立ち寄りたい。
本丸には、3区画に整備された本丸御殿が建ち並んでいた。
∴
◇ 表 役人の執務する場所で、行事や藩主の謁見等に使用
◇ 中奥 藩主が執務する場所で、日常生活に使用
◇ 奥向 藩主の家族や女性が生活する場所で、いわゆる大奥
「天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる桝形の城門である。 城内の他の門や建物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。 大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている
本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。」
武器庫として使われていた長屋式の建物。
走長屋は天守閣と鉄門をつなぎ、南走長屋は鉄門から干飯櫓をつなぐ。
帯郭から本丸への侵入を防ぐための塀の役目も果たし、城兵が走って、行き来できるよう造られている。
壁には、敵を迎撃するための、いくつもの銃眼があけられている。
構造は、大阪城の続櫓と同様とのこと。
発掘調査でも、小部屋の跡から、矢の先に付ける “やじり” が見つかっている。
平成13(2001)年に、干飯櫓とともに、約4年の歳月をかけて復元された。
平時には、保存食である干飯 (糒) などの食糧の貯蔵庫として使われていた建物。
復元された二重櫓は、城内にあった11櫓の中でも最も大きかった櫓。 “糒櫓” とも呼ぶ。
帯郭から侵入しようとする敵から、本丸を守る重要な位置にある。 堅牢な構造をしていて、西軍の執拗な砲撃にも倒壊していない。 南側のお濠に面しており、敵の侵入を防ぐため、石落しが備えられている。
城内は、お壕などで区分けされた “郭
両端を石垣に囲まれた道路も、かぎ形に折り曲がった 枡形
復元には、1枚の図面もなく、風景とした写真や鳥瞰図が残っているだけだった。
平成8(1996)年から発掘調査を行い、平成10年に着工。
平成13(2001)年、南走長屋とともに復元された。
取り壊されてから、約130年を要した。
この時に、諸外国にも問い合わせて、貴重な写真も入手している。
干飯とは、ご飯を水で洗って粘りを取り、天日に干して乾燥させた保存食の一つ。
そのまま食べたり、水やお湯で戻して食べられるので、戦闘食としても重要なもの。 |
本丸の南側に、藩主の馬術の稽古場があった。
馬の口洗いのために用いられた石と、伝えられている。
鉄門から入ったすぐの所にある。
武器類を収めた二重の塗込櫓。
本丸の南端に位置し、横矢掛りとしても重要な櫓。
月影を見るのに絶好な場所であったため、その名が付いたといわれる。
本丸の東側石垣上には、茶器類や武器を収めた二重の茶壺櫓があった。
廊下橋からの、敵の侵入を防ぐ横矢掛りとしても重要な櫓。
本丸側の高石垣は、“忍者返し” と呼ばれていた。
扇の形の勾配で、約20メートルの高さがある。
最も美しい石垣とされる。
明治31(1898)年、土井晩翠は鶴ヶ城を思い描き、七五調の詩を作った。
旧制高校在学中に修学旅行で会津を訪れ、義を貫き通した会津藩や白虎隊に深い感銘を受けたことをイメージしたという。
昭和21(1946)年、晩翠は「荒城の月」のモデルが鶴ヶ城であることを明かした。
滝廉太郎は、詩を読んで感動したという。
すぐさま、幼少のころ住んでいた大分県の岡城を思いつつ曲を付けた。
歌碑は、宮城県/青葉城址、大分県/岡城址、富山県/富山城にもある。
昭和52(1977)年、詩碑が建立。
平成17(2005)年、三の丸に土井晩翠の胸像が建立された。
千利休の女婿(養子)/少庵が建てた草庵風の茶室である。 上の赤松の床柱は、千少庵の手で削られたと伝えられている。
西軍 (明治政府) が鶴ヶ城もろとも破壊・消滅させようとした際、薬種商/森川善兵衛がなくなるのを惜しみ、甲賀町の自宅に移築した。
それ以来120年もの間、森川家によって守られてきたが、平成2(1990)年の市制90周年を記念して、本丸の元の場所に再移築され復元された。
蒲生氏郷公は、利休七哲の筆頭といわれる茶人でもあった。
千利休が秀吉にから切腹を命じられた時、その子にも類がおよび、利休の茶道が絶えるのを懸念して、会津にかくまった。
後に、少庵は京都に戻り、千家を再興した。
少庵の3人の孫の宗左、宗室、宗守によって、表、裏、武者小路の三千家へとつながる。
お茶を最初に会津へ伝えた人物は定かでないが、徳一大師が栽培をしていたと伝わっている (9世紀)。 もちろん、お茶を楽しんだのではなく、薬として用いていた。
茶道としては、茶坊主を13人も抱えていた蘆名盛氏公が、会津武家茶道の始まりとされていた (16世紀)。 やがて、「利休七哲」の筆頭と称される蒲生氏郷公を藩主として迎える。 そして、千少庵を庇護し、現在の全国茶道の盛隆をみる。 ところが、平成18〜20(2006〜2008)年に会津縦貫北道路建設の事前調査で、下高額館跡から茶臼と中国製の茶碗が発掘された。 下高額館は、蘆名直盛公の家臣/渡辺左京進長勝の居館であることから、会津の茶道史が200年も遡り、14世紀と確認された。 今後の発掘調査により、更に歴史が早まることも期待されている。 御三階跡 (おさんがいあと) Osangai (the three-Story building)
数寄屋風の二重櫓の建物は、取り壊される前に七日町の阿弥陀寺に移築されおり、現存している。 萱野国老殉節碑 .
家老/萱野権兵衛(かやの ごんべえ/ごんのひょうえ)。
一刀流溝口派の相伝者であった萱野は、絶えないようにしようと、切腹前に井深宅右衛門に火箸を使って奥義を伝授したという。
墓は天寧寺と東京白金の興禅寺、阿弥陀寺に遥拝碑、余市町に殉節碑がある。 次男が、悲劇の郡長正 (萱野乙彦) である。 梅坂
西出丸から、本丸弓門に通ずる坂道。 西出丸 (にしでまる) Nishidemaru
梅坂から本丸につながり、3本の入り口 (搦手門、太鼓門、廊下橋門) の1つ。 廊下橋 (ろうかばし)
二の丸から本丸へ通じる橋で、朱に塗られており、美しい。 二の丸と伏兵郭で守り、戦いの際には、橋を落とせるようになっている。
二の丸、三の丸跡
二の丸は、伏兵郭も含め、テニスコートとなっている。 ≪ 「ハート石」 を探そう !! ≫最近、「ハート石」探しで盛り上がっている。 古来より「桃」には除け・厄払いの霊力があるとされていた。 中国での「西遊記の天界で食べる話」や、「三国志の桃園の誓い」などを引き合いに出すまでもなく、桃は縄文時代の日本に既に存在しており、「古事記」の黄泉の鬼 (雷神達) に襲われた伊弉諾尊 「桃の節句/雛祭り」に桃の木を飾り、女性に桃の木で作った櫛を贈る習慣があった。 いつしか築城の際、城壁や天守閣の基礎石に組み込まれた。 これらのことから、「ハート石」を見つけると、 ◇ 幸運を呼び込む ◇ カップルで見つけると結ばれる ◇ 家族で見つけると家庭円満になる ◇ 事業主が見つけると業績が向上する ・・・・ など など と御利益が授かるパワースポットとして、話題騒然。 これからも、新たな発見?が期待されている。 下記は、読者などからの投稿だが!? [戻る] [TOP] [行く] [遊ぶ] [知る] |