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加    藤    家

 蒲生家の後任として、寛永4(1627)年、会津藩に転封となる。

  ・統治  16年間 = 寛永4(1627)年〜寛永20(1643)年
  ・石高  40万石   会津 + 蒲原、安積、岩瀬、塩谷(一部)
 [藩領]

  嘉明公 → 明成公

加藤 嘉明 (かとう よしあきら)公

   ☆ 在任 寛永4(1627)年〜寛永8(1631)

 徳川家康 家臣であった加藤教明の長男として、三河国に生まれる。
 生れた年に、一向一揆に加担した父とともに、放浪の身となる。

 まもなく羽柴秀吉に仕える。
 賤ヶ岳の戦いでの活躍で、「賤ヶ岳七本槍」の1人と言われるまでになった。
 その後も軍功をあげ、大名に取り上げられた。
 秀吉が死去すると徳川家康に付き、上杉景勝公への会津討伐にも従軍している。
 関ヶ原の戦いの功績も加わり、松山藩20万石を経て、40万石の会津藩主となる。
 すでに、65歳の老いの身であった。
 入国するとすぐに領内の整備にとりかかっており、背炙り山を越える難所であった白河街道を、滝沢峠を越えて強清水を抜け猪苗代湖の西岸を南下するルートとして拓いた。

  ・永禄6(1563)年〜寛永8(1631)年9月12日(江戸藩邸にて死去、享年69歳)
  ・別称 孫六、茂勝
  ・主君 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
  ・父  加藤教明
  ・母  堀部氏
  ・正室 堀部市右衛門の娘
  ・子  明成、明信(監物)、明利
      娘(二本松藩主/松下重綱へ嫁ぐ)、娘(盛岡藩主/南部重直へ嫁ぐ)、
      娘(赤穂城主/池田長政へ嫁き、後に日野光慶へ嫁ぐ)
  ・兄弟 嘉明、忠明
  ・墓地 京都市/東大谷墓地の武家墓地 (非公開)
      火葬は江戸/善福寺、初めの遺骨埋葬は高野山 (堀主水事件で追放)、
      分骨は長福寺(廃寺)だった
       ※ 跡地に創建の文明寺も戊辰の役で消滅し墓碑など不詳
  ・戒名 松苑院殿拾遺釈道誉大禅定門
      後に東大谷墓地へ改葬の際、「三明院道誉宣興」に改名
  [肖像]

加藤 明成 (かとう あきなり)公

   ☆ 在任 寛永8(1631)〜寛永20(1643)年

 加藤嘉明公の長男として生まれる。
 寛永8(1631)年、父の死により、家督を継ぐ。
 慶長16(1611)年の大地震で傾いたままだった天守閣を、五層に造り直している。
 蒲生時代までは野戦が主であり、城は居住するための館であったが、桝形を取り入れるなど防御に重点を置く構造に一変させている。
 改築された鶴ヶ城の形は その後の基本となり、幕末まで藩の威容を誇ることとなる。
 また、城下町の整備にも注力し、会津藩の基礎を築いている。
 統率力には欠けていたため、家臣たちとの対立が起こった。
 反対派の家臣/堀主水の一族郎党が出奔する事件が勃発する (会津騒動)。
 幕府の知るところとなり、蟄居となる。
 所領没収のところ病身を理由に返還とし、長男/明友に石見国1万石が与えられた吉永藩に移り、剃髪して休意と号し隠居する。
 一連の出来事から、後世、冷血漢とされるが、仕えた儒学者/横田俊益は、頭脳明晰な人格者として高く評価をしている。

  ・文禄元(1592)年〜万治4(1661)年1月21日(享年70歳)
  ・別称 孫次郎(幼名)、休意
  ・父  加藤嘉明
  ・母  堀部市右衛門の娘
  ・正室 高運院
  ・子  明友、娘(尼崎藩主/青山幸利へ嫁ぐ)、
      娘(播磨新宮藩主/池田薫彰へ嫁ぎ、後に沢海藩主/溝口政良へ嫁ぐ)
  ・兄弟 明成、明信(監物)、明利
  ・墓地 京都市/東大谷墓地の武家墓地 (非公開)
  ・戒名 円通院休意

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